70.帰る場所≠帰りたい場所① -消えた鳥-
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空が色を取り戻しはじめた。昇りたての澄んだ陽がエナタルの森を照らすなか、ささやかに朝を告げる鳥たちの声が木々の間に響いている。
森の家のすぐ側には、古ぼけた木製のバルコニー。その手前に広がる広い畑と裏庭はよく手入れがされ、薬草や、とりどりの野菜の緑が朝露に輝いていた。
その菜園の脇に空いた芝の庭に、イチヘイがいた。
静かでどこか湿った朝の空気をまといながらも、していることは片腕での倒立である。ふっ、ふっ、と浅い息を繰り返しながら腕を変えての腕立てを繰り返している。
それが終わると、次はいつものように剣を握りはじめた。一人立ちする以前からほぼ欠かしたことのない、朝の鍛練の時間だった。
何度も素振りと打ち込みを繰り返す。生憎 愛剣は折られてしまったため、今日振るうのは物置から出してきた訓練用の模造刀である。
……そこでイチヘイは切っ先を構えたまま、急に動きをぴたりと止めた。
と、次の瞬間には真正面を見据え、『フ!』と短く吐いた息を合図に疾風のように踏み込む。銀に閃く刃を切り上げ、返し手で流れるように切り下げ、その動作に一切の滞りはない。
それから不意に重力の縛りなど忘れたかのように高く跳ねあがり、バク転。捻りをいれて華麗に着地を決めざま、次の刹那には握った刃で横一線に空を裂いた。地面にたゆたう幽かな朝靄が、その躍動にあわせて逆巻き、揺らいでは霧散する。
そうやってまた飛んで跳ねて、無骨だがしなやかな演武を続ける。一通りそれを続けたあと、イチヘイはまた唐突に静止した。
「――はあ、はあ……、……よし……」
最後に深く、息を吐く。
治った、と確信をもって静かに頷いた。昨日の戦闘で折られた肋の様子を確かめながら動いてみたが、もう問題はないようだ。
〈祝福持ち〉は傷の治りも早く、この世界にきてから、イチヘイの場合はその体質のためか眠ることすら常人の半分しか必要としない。
本当に便利な身体をしている、と、彼自身も思う。
(よし、今日は、このへんで切り上げるか……)
トン、と軽く握った剣の先で地面を突くと、彼は汗で張りつく前髪をかきあげた。
ついで水小屋の入口まで移動し、手動ポンプの取手を上下させて湧き出る清水で喉を潤す。この辺りの土地はエナタル山脈からの水脈がそこかしこを走り、水には事欠かない。
バシャバシャと飛沫を立てながら顔回りの汗も流すと、汗とは違う心地よい冷たさが肌を伝った。
そのまま首にかけた布で水気をぬぐう。
そうして埋めた布の、パサついた肌触りの中から顔を外すと、イチヘイはさっさと次の日課を始めた。足を向けたのは、母屋から見て庭の一番奥まった場所にある家禽小屋である。
特に鍵をつけてはいないため、掛け金をあげて扉を押した。小屋の外からでもそこそこ臭ったが、中に入ると余計に敷きわらと、鳥の羽根と排泄物の臭いが濃くなる。
――「ケッケギョーギョルゥゥゥー!!」
とそこで青い山高帽のようなトサカを冠した、〈青頭巾〉の雄が鳴いた。途端に呼応して、残りの青頭巾たちが
「ギョーギョルー!」
と鳴き始める。
その騒がしさを横目に見ながら、イチヘイは小屋の入口に引っ掛けてあったカゴに玉子を採取しはじめた。
「ケッケギョーギョルーー!!」「「ギョーギョルー!」」
「……あ゛?」
けれど、そこでふとイチヘイは違和感に気付く。声が足りない気がして、雌鳥の居る巣枠の中から頭を出した。薄暗い小屋には朝日が一筋射し、〈青頭巾〉の頭部の青い羽毛が一枚二枚、ふわふわと微かな気流に漂っている。
イチヘイは、以前より赤さを増した瞳でざっと小屋の中を見回したあと、おもむろに青頭巾の数を数えはじめた。
青頭巾は、はじめに雄が鳴く。後について鳴き出すのは全部雌だ。この小屋には雄の〈青頭巾〉が二羽いて、いつでもその二羽が音頭をとっていた。
しかし、今聞こえた頭の声は一羽ぶん……だったような気がした。
(……七、八、九、十……)
巣枠で玉子を抱くやつも、せわしなく動き回るやつも、余さず勘定に入れた筈だ。昨日、小屋から出していたのを仕舞ったときには確かに十五羽いた。
「あ゛? 数え間違いか……?」思わず小さく呟いてしまう。
なんならもう一度数え直しもしてみたが、結果は同じだった。
人差し指で思わず耳の上の髪を搔く彼の目が、困惑に細まる。
「――なんで十四羽になってる……?」
イチヘイの予感は当たっていた。やはり雄の青頭巾が一羽、忽然と消失していたのである……――。
◆
食卓は、食べ物の湯気と香ばしい香りが満ちていた。
イチヘイは手際よくと根菜のスープを作り、簡単に焼いたパンに乳酪を塗る。この家に戻ってきてから、食事を作るのはずっと彼の仕事だった。
だが手元で作業を続けながらも、彼の脳裏にはやはり、今朝の家禽小屋の様子がチラつく。
思い返しても扉の掛け金は確実に閉まっていた。獣の侵入も疑ったが、あの小屋は基礎が家並みにしっかりしている。地面から穴を掘って侵入するのは不可能だ。壁や屋根に破られたような隙間もなかった。
ならば泥棒かとも思ったが、どうやらそれも違う。
なんとなれば、念のため小屋の周りを一周したときだ。イチヘイは小屋の裏手から森の方に向かって、ところどころに落ちる青や白茶の羽根を見つけてしまっていた。間違いなく青頭巾の羽根だった。
その散らばる羽根を、家の敷地から百メートルほど追跡した。
そうしてイチヘイの目は森の底に、控えめに飛び散る赤をとらえた。――掻き分けてみれば、草の地面に染み込むのは鮮血。
その真ん中で、行方不明だった一羽は胴回りの肉を無惨に食い散らかされた状態で息絶えていた。
その光景をありありと思いだし、イチヘイはまた眉をしかめる。
あの食べ散らかし方は、どう見ても獣のそれだった。獣人種にも野趣に溢れた暮らしをしている種族はいるが、それでもさすがに獣肉を生で貪ったりはしないだろう。
(なんなんだ一体……)
考えながらも、イチヘイはまだ暖かいパンの上へ、鍋の隣で焼いていた青頭巾の目玉焼きを乗せていく。食器は三人分。イチヘイの分だけ、盛られたパンの枚数は多い。
と、そのときだった。
「……イチ、兄……」
子供のしゃがれ声に名前を呼ばれる。花登だ。
兆嘴商会の襲撃から一夜明けたこの朝、一人増えた居候が、まだどこか控えめにイチヘイを見上げていた。
〈稀人〉としてこの世界に来て奴隷の身分におとされてしまった彼女。昨日、自身がどのような状況に置かれているか、改めて説明してやったときにはひどく消沈した様子を見せていが、今朝は何事もなかったかのように振る舞っている。
ちなみに目に入った彼女の額には、幾何学的な刺繍が入った飾り布が巻かれていた。
昨日のフィーが、『これねぇ、ボクのお下がりだけど……』と、いつからか着けるのを見なくなったそれを出してきて、前髪の短い花登にあげていたのだ。
「終わったか?」
尋ねるとコクリと頷きが返ってくる。
フィーよりずっと後に降りてきた彼女だったが、朝食を準備するイチヘイに向かい『手伝いたい』と言うので、サラダ用の茎紫菜を千切る作業を任せていた。
「……思ったより早かったな」
口元でだけ優しく笑みながら、イチヘイは言葉少なに頷く。
「こっちはもういい。そこでまた寝てるやつを起こしてくれ」
すると花登は一つ頷き、手を拭きながら壁際のソファに歩み寄る。
その座面で膝を丸め、繭のように丸まって寝息を立てていた杏色の毛玉を揺さぶりはじめた。幾本もピアスをつけた長い耳が、前方にしなだれたまま揺れ始める。
「……ふぃぜ、おきて、起き、ッケホ」
「んにゃ……」
出ない声で噎せながらも言葉をかける花登。しかし当の相棒はぴくりと耳を動かしはするが、なかなか起きようとしない。
一方でイチヘイは昨日のフィーの様子を思い出し、また少し複雑な気分になる。相棒は昨晩もまた、夜中に泣き叫びながら飛び起き、ひとりでブツブツなにか呟いていた。
そうしてよく眠れなかった朝、自室から降りてきたフィーが、またここで膝を抱いて居眠りを始めるのもいつもの事だった。またそれを見る度、イチヘイの胸にも冷たい鉛のようなやるせなさと罪悪感が沈むのも、いつものことだった。
……ただ、花登が来たのが薬になってはいるのか、昨日は普段より落ち着いていたようにも思える。
と、そこでようやく目を開けたフィーが、へにゃりと微笑みながら頭を上げる。
「――……んにゃ? んええハナトちゃん? おはよー」
「おはよう、ふぃぜ……」
その無邪気な笑顔を、花登が困った幼児に世話を焼いた後のような顔で覗き込む。花登の部屋はフィーの隣室となったが、本人はまだ、フィーの抱く狂気に本格的には気づいていない。……いや、正確にはイチヘイがそれを阻止しているのだ。
そんな様子を眺めるイチヘイの胸の中を、この先への憂いと不安と、この二人への庇護意識の綯い交ぜになったような何かが優しく撫でていく。
自分と、フィーの間にあったこと。いつかはこの同胞にまで明かさなければならないのだろうか。
「ケッケギョーギョルー!!」「「ギョーギョルーー!」」
しかしそこで庭の反対側から聞こえてくるのは、一羽足りない青頭巾の鳴き声である。
(嗚呼、くそ。そういえば、こっちの問題もどうにかしなきゃならねえんだった……)
今までなかった新しい一日には、どうやら知らない温かさとよく分からない問題が散りばめられているようだ。
彼の手がテーブルに置く三本目のスプーンが、カタンと立てる小さな音が、動き出した朝の食卓に響いた。




