68.幼女、うさぎ、傭兵② -君と囲む食卓を-
イチヘイがフィーに強いられた《聖宣》は、本来の《聖宣》の常識からも外れた、異質な何かであったらしい。
その事実を聞かされ、驚愕とともに思考を停止するイチヘイ。また、ソルスガが去ったあとも最後まで残って話をしていく客人カナイナの善意も、疑い深いイチヘイは理解できず、彼女を監視対象に定めるのだった。
読了目安 7~10分
*
「――じゃ、じゃあワタシもこれで……」
ソルスガと会う約束をした十日後より前に期日を決め、カナイナとも再び会う約束をした。
その時もう一度、胞果熱の経過も含めて花登の容態を診るのだという。
「またねー! カナイナせんせーー!」
そうして彼女の背中が、雨上がりに湿った街道の向こうに見えなくなると、フィーがようやく手を振るのをやめた。
「んえぇ……かえろー!」
振り向いた耳が軽やかに揺れる。
そのへにゃりと崩れる相棒の表情を見て、本当に日常が戻ってきたのだと、イチヘイは実感した。
今日は、本当に色々なことがあった。戦闘の痛みは後を引き、今も深く息を吸えば左の肋が痛い。祝福持ちは傷の治りが異常に速いが、それでも骨折は重傷だ。
手首に作った浅い切り傷はもう塞がってしまったが、こちらはあと一日程度は引きずるだろう。
イチヘイは相棒のその笑顔を見て、それから自分と相棒との間でこちらを見上げている花登を見た。
――戻ってきた日常に、一人増えた。
しかし彼女が着ている服は、本来はフィーのものである。しかも良く見れば、花登は裸足で土の道を踏んでいるのだ。
「…………」
そこで思わず、イチヘイは渋い気持ちに目を細めた。彼は自身を、後先は考えられる方の人間だと自負してきた。
しかしいざ、目の前に花登が立っているのを見ると、思ったより問題が山積していることにも気付いてしまう。
ここまでのことはその場の勢いと言えば確かに勢いであったが、イチヘイにとってはやはり必要なことだった。別に花登を引き取ったことも、後悔はしていない。
だが、必要なものはやはり買わねば手に入らない。ほぼ文無しになってしまったのは致命的だ。
こうして見てみれば、特に彼女の着るものについては――例え布が高い買い物だとしても、早急にどうにかしてやらねばならない。
特に靴。足の怪我は、死に直結することも多い。
また、明日から具体的にどう生活していくべきかという問題も、急に現実味を帯びて、イチヘイの胸に覆い被さって来ていた。
「すーーーーーー……」
思わずひたりと、自身の額を片手で覆う。
すると、急にこんな場所で困ったときの仕草をしだす彼を不思議におもったのか、フィーが顔を覗き込んできた。
「どしたのイチぃ……帰ろうよー?」
「いや……まあ……。明日から下の村で働き口を探さねえとな。もう金がないからな……」
割と切実な問題だった。
けれど、そこに割って入ってくるフィーは、さも当たり前のような顔で首を傾げていた。
「んえ? お金ならあるよぅ……」
「……は?」
「ボクも、イチヘイと同じお仕事してきたのよぅ? おやつとか服とか色々使っちゃって、イチヘイみたいにいっぱいは持ってないけどねぇ、えっとねー……」
しかし、そう言い出すフィーの声が一瞬遠ざかるほどには、イチヘイは衝撃を受けていた。
(……そう、だ……確かにそうだった。こいつも稼いでたよな、俺と同じだけ……)
なぜ、忘れていたのか。
ふと考えてしまったが、その瞬間イチヘイは、別に知りたくもなかった自分の嫌な一面に気付いてしまう。
あのトルタンダの雪と月の夜から、狂人に堕ちた彼の相棒。なんとなればイチヘイは、世話係としてこの相棒を『見守る』と同時に、どこかで庇護対象として『見下し』ていたのかもしれなかった。
またこの世界では、獣人種も亜人種も等しく『人間』としてひと括りにされるが、そもそも十年以上をここの住人として過ごしても、相変わらずイチヘイはその意識が薄い。
フィーは彼にとっては確かに相棒で、家族で、命を預け合える程の大切な関係だ。しかし同時に、彼の感覚では『人間ではない』ゆえに、無意識にそういう思考もどこかで働いていたのかもしれない。
そんな相棒が、こんな風になってしまって――――いや、イチヘイが、こんな風にしてしまったのだ。
その、強烈な罪悪感と、狂った相棒をどこか飼い犬か子供のように扱う庇護意識が、フィーがこれまでイチヘイと対等な仕事をしてきた一人の人間であるという事実を曇らせていた。
……それにあの「賭け」は、花登に自分の過去を重ねる彼自身の戦いでもあった。その代償は、イチヘイ自身が支払わなければ、意味がなかったのだ。
――だが結局は(あの胡散臭い医者を含めて)それもフィーに助けられてしまった。
フィーの……あの『宝物』を差し出したあの瞬間の彼女の意思は、幼く奔放なだけの狂人の気まぐれなどでは、決してなかった。
気付いてしまったものの醜さに、そっと言葉を失うイチヘイの目前で、フィーは上に向けた左右の指を一本二本と折り、何かの勘定をしている。
やがて数え終えたのか、口を開いた。
「……えっとねー、えっとねー、百二十エラとちょっとあるよう!」「……。」
「んえ? いちへーい?」「――あ? ああ……割と持ってんな」
「んへへえ……、――――だからねー、イチに全部あげるー!」
「は……?」
屈託なく笑って、そんなことを言い出すゆえに、一瞬呆気にとられてしまう。
「いやいやいやいや、ダメだろ」
「んええ……? だって、イチの言うこと何でもきくのよぅ……お金もね、イチのにして良いから」
「……おまえなあ……」
返ってくる無邪気な、どこか狂気じみた笑顔。イチヘイは耳の上の短髪をかき混ぜながら困る。
やはり今、目の前にいる相棒は、相変わらずどこかおかしくて、奔放で幼い。しかし。
「……じゃあ、半分だ」
ため息を吐きながら、イチヘイは明後日の方向に目を反らす。それでもちゃんと、自分を思ってくれる彼女の意思は受け入れることにした。
ざらり。とまた理解できないいつもの感覚が薄く胸の底を舐めていく。今は無視して続ける。
「――ただし、借りるだけだからな。ちゃんと返す」
「んええ、良いのに……」
なぜか残念そうな顔をするフィーの頭を、ぺそんと軽い衝撃で叩いた。
「へぷっ」
「これ以上は譲らん。お前の金はお前のもんだ。けじめだろこういうのは。ヒモになる気はない」
ややかがんで半月の瞳を覗き込み、そのまま頭をぐにぐに揉むと、
「んええー?! わかった、わかったよぅやめてぇー!」
とへらへら笑いながら、フィーは長い耳を倒してイチヘイから離れて行った。
「……んじゃ、かえろー! イチ。ハナトちゃん」
尻尾を翻し、並木道を先だって歩き出すフィー。
「そうだな、腹減った……。飯作ろう」
イチヘイは振り返って、ここは敷地の外だからと、ずっと二人の様子を見上げて黙っていた小さい上背にも声をかけた。
《花登、帰るぞ》
《! わかっ、た》
一瞬見開かれる目。掠れた声が返ってきて、歩き出すイチヘイの右隣にならぶ。しかしすぐに、その小さい声で呼ばれた。
《あ、の》
「あ゛?」
森と落ち葉の湿った匂いのなか、声の主の顔を見れば、おずおずと手を差し出してくる。
《手、つなぎ……》
「……」
控えめに開かれた細い手のひら。子供のクセに、距離感を探るようなその目。仲良くしてほしいと、イチヘイに諂っているようにしか、やはり見えない。
でもそこに、最初に会ったときほどの怯えはもうなかった。そしてイチヘイもまた、もう最初のような嫌悪感は彼女には抱かなかった。
そうだ、小さい自分もきっと、本当はこうして信頼できる大人の誰かと手を繋いで、家に帰る日を待っていたのかもしれない。と、そんな思いが胸を抜ける。
少し照れ臭かったが、そのまま手をつないでやると、見上げてくる榛色の瞳は控えめに相好を崩した。
その小さい手はひんやりしてしめっぽく、しかし握っていると手首の芯に確かに暖かさがある。花登はそのままイチヘイの腕を引き、前を歩いているフィーにも声をかけだす。
《ふぃーぜ》
振り向いたフィーは、まずイチヘイと彼女が手を繋いでいることに『んええっ?!』と驚いたような声を上げていたが(イチヘイには心外だったが)、同じく差し出された手にはもっと驚いたような顔をしていた。
「んえ、ハナトちゃん、いいのよぅ……?」
まあ、確かに花登は、倒れる前にはフィーに怯えた様子を見せていた。何の心境の変化があったのだろう。
しかしフィーの表情と身振りで言いたいことはわかるのか、彼女はすぐにこくりと頷く。イチヘイの隣で、フィーがおずおずと手を伸ばす。
しかし一度つないでしまえば、
「――えへへぇ~……」
フィーは満面の笑みを浮かべて上機嫌だった。
「……よかったな」
「うん!」《ん》
返ってくる二人分の声に慣れないくすぐったさを覚えながらも、それでも彼の中には、ふと我に返って冷めていく頭もあった。
『聖宣に拘束力がない』
イチヘイの胸の底ではやはり、ソルスガからもたらされた事実とそれに対する戸惑いがくすぶっている。戻ってきた、平穏すぎるこの瞬間が、その異常さのコントラストを余計に強めている気がした。
確かめようにも、もはやそれを話題に上らせることすら、彼は嫌である。
ただ、相棒の意思をあんな形で踏みにじってなお、こんな風に何も言えない自身の弱さが、胸の底にぽとりと冷たい染みを垂らす。……今だって変わらず、口火を切る気にはとてもなれない。
それでも、こんなときにも言える言葉がひとつだけあることを、イチヘイはずっと昔から知っていた。
「……フィー」
だからイチヘイは、ハナトの向こうを歩く相棒の横顔に呼びかける。思いきって呼びかける。とても女々しい逃げ方だとは思う。だが、
「んえ? なーに?」
――――「……ごめんな」
――とたん、フィーの足はぴたり、と止まった。家の敷地をまたいで数歩の場所だった。湖からの風が、またエナタルの森と立ち止まった三人の頬を撫でた。
殴られ、蹴られ、謝っても許されるかわからない、博打のようなその言葉。
昔、師匠に猫に変えられてしまい、本当に一度だけ嫌々謝ったことはあったものの、あのときは本当に嫌すぎて、次の日には熱を出して寝込んだ。
ましてや彼からフィーに対して謝ったことなど、これまで一回もない。
ゆえに、戦闘以外で逆立つのをあまり見ないフィーの後ろ首の毛がざわりと立ち上がったのは、仕方のないことだったのかもしれない。無理もない、なんなら本人はどうして謝られたのか、その理由も知りはしないのだ。
「へっ、ひぇっ……?!」
「は? フィー? どうした、なんだよ」
イチヘイもみたことのない表情と声を出しながら目を白黒させている。
さすがにここまで驚かれるとはイチヘイも思わなかった。
「イッ、いいいいイチヘイ??!」
しかしすぐに、フィーは游いでいた視線をまたイチヘイに定めてくる。
一度繋いだ花登の手を離してまで、なぜかイチヘイの目前に立ちふさがってきた。俊敏に自分の額に手のひらをあて、もう片手をイチヘイの額にあてがいはじめる。
「ど、どうしよう、イチ、熱あったりするのよぅ?! ……あっ、ホントにあるのよ?! ボクより高い!?」
あまりに狼狽しているためか、「いやそりゃお前のデコ、毛が生えてる分俺より表面の温度低いだろ」と冷静に突っ込み出すイチヘイの声も届いていないようだった。
「か、カナイナせんせー呼び戻さなきゃ……!」
「は、おい聞けって?!」
そのまま、文字通り二人の間をすり抜けて、いま来た道を脱兎のごとく走り出そうとするため、イチヘイは必死でその首根っこに手を伸ばした。
「お ち つ け !!」
「ぐえーー?!」
「……なんともない! ほらバカ言ってねえで家入るぞ」
「んんえ、ホントに? ホントにホントにホント……??」
またあの胡散臭い医者と顔を合わせるのは面倒臭い。返すのもバカらしくなり、イチヘイはそのままフィーの首根っこを引きずって歩き出した。
「えーー、はなしてよぅーー?」
と、言いつつも、嫌ではないのか暴れもせずズルズルと引きずられていくフィー。
門戸の側にポツンと一人、取り残されたハナトは、数秒呆気にとられてその様子を眺めていたが、ふいにクスクスと笑いはじめた。
その笑いはイチヘイの耳にも届き、彼は初めて聞くその明るい声に驚いて振り返ると共に、どこか決まりの悪さを覚えて、大人げもなくむすっとした顔をする。
故にもう一度、彼女へ誤魔化すように空いた左手を背中越しに差し出した。
「――おい、いくぞ居候! 夕飯作るの手伝え!」
「! はい!」
繋がれる手。バタンと閉まる扉。
ぽっかり開いた傷のような扉の穴に、肉球のついた手が応急処置に何かの板を立て掛ける。
それで、その古びた家の中の様子は、外からは何もわからなくなった。
"終わりの始まりの日、魔女は『この子を愛してはならない』と言った"
【第一部 ~三日月と欠け闇の聖宣~ Fin】
【第一部 あとがき】
お付き合いいただいてありがとうございました。
いかがでしたでしょうか? お気に召しましたら、ご評価いただければ嬉しいです!
さて、ではせっかく「あとがき」欄を、真の意味で使えるまたとない良い機会ですので、フル活用させてください!
●『名前の由来』について。
本当にどうでもいい話! なんですが!
キャラの名前とかはまあ、ほぼ響きとフィーリングなんですけど(一部キャラはそうじゃないのもいますが)今回、第一部の舞台となったエナタルの森は、イチヘイが流れ着き、新たな故郷として、改めて『人らしく』育っていた地であることから着想し、
『胞衣、足る』
という、ガッツリ日本語からとってました。
きっとご存知の方もいらっしゃる前で偉ぶって説明するのも恥ずかしいのですが、『胞衣』とは、母のお腹の中で、赤子と羊水を共に包んでいる薄い膜のことです。羊膜とも言います。
また『足る』は、『不足がない』『充足する』みたいなニュアンスなので、まあ『生まれ直すにふさわしい』みたいな意味合いで考えました。
……どや顔で言えてスッキリです。
……以上、まじでどうでもいい小噺でした。付き合わせてすみません。
というか、思えば第一部って、完結させてみればほぼ家の中か庭先でわちゃわちゃしてただけのだったようなお話でしたね。なんだこれ。
本作はまだまだ続くんですが、(正確には把握できてないんですが多分五部くらいある)とりあえず区切りがよろしいのでここを第一部としまして、二部が書き上がるまで一度休載にはいります。おおよそ5ヶ月~6ヶ月以内、だいたい2026年2月の頭くらいには第二部の連載開始を目指します。一回キリの良いとこまで書き上げてからでないと、メンタル病むんですよ、筆が遅くてごめんなさい……。
詳細はまた活動報告などでお知らせしますので、コイツ、エタらねえよな? って、作品の詳細など気になるかたは陸永をお気に入りユーザに登録して監視してください。
またこの後、第二部の連載が近づいてきたタイミングで、第一部と第二部の間のブリッジとして、イチヘイたちと別れて町を目指すニカナグ視点の閑話が挟まる予定です。
こちらは閑話といいつつ、ニカナグ視点でしか見えてこない割と重要な内容も突っ込んでますので、オマケではないです。時期が近づきましたらよろしくお願いいたします!
で、それの後に続く第二部ではですね、いよいよあの家を飛び出し……( '-' ) ……いや、思えば結局ソルスガとの約束の期日までは、割と家の回りをうろうろしてますわ……!
ということで第二部も6割位は家の中かも!(笑) つぎも、引きこもりヒトケモ共依存ファンタジー『魔女この』をよろしくお願いいたします。
睦永としてはさっさと二部を書き上げて、読んでくださるみなさまを崖から突き落としたいので、執筆がんばりますね……(ニッコリ)
2025.9.5




