6.狂人うさぎは幼女をうちの子にしたい⑤ ~遭遇~
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そしてそれは彼が森に踏み込んでから、わずか数分後のことだった。
鏡写しに先導された道の先で、『うひぃぃー?! 噛まれるよ足! 足引っ込めて!!』と焦ったような悲鳴がイチヘイの耳に飛び込んできた。親より聞き慣れたその声。同時に誰か、子供のような叫び声も聞こえる。
(あ゛?知らんやつと一緒なのか?)
「フィー?!」
大して大きい声でもなかったが、名を呼ぶととすぐに「んええイチぃ?!」と今にも泣きそうな声が返ってくる。
この森の中は低木の茂みが意外と多く、先が見通せない。そんな中、声をたよりにフィーがこちらに向かって正確に走り寄ってくる気配がした。耳長族の聴覚の鋭さにはいつも舌を巻く。
しかし、どうやらそばに誰かいるようだ。
イチヘイはすらりと腰の長剣を抜きながらも、とっさに鏡写しの魔法は消すことに決めた。
気配探知の他は運搬とお使いが関の山の人形では、戦闘には不向きだ。それに近隣に『お大師さんの所の子』として知られる彼は、あとで『何故か二人いた』等と魔法の違法使用を噂されるのは面倒だった。
「……〈帰しませ木偶よ〉」
「はい、ご武運を――――」
そんな言葉を残し、彼は現れたときと同じく風が解けて色をなくすように消える。
同時に茂みの隙間を縫って目の前にフィーが現れるが、その腕には十歳前後の幼女がひとり、抱えられていた。
「イチぃいぃ!!」
来てくれたの、嬉しい、会いたかったよぅ! とでも言いたげな安堵の涙目で見つめられるが、当のイチヘイはそれよりその腕が抱えている子供の存在に眉をしかめている。
「なあフィー、誰。そのガキ」
「んええ? 知らないのよ」
会話終了。
「知らないってお前……」と追加で突っ込んだが、ちょうどその時、後ろから
《ピエッピエッ!》
と聞こえる鳴き声がある。〈虚棲ミ〉の呼び声だ。
――断言いたします。決して〈虚棲ミ〉などではありません。別の何かです――。
消してしまった鏡写しが言っていた言葉が頭を過り、
(? なんだ? やっぱり〈虚棲ミ〉じゃないか、どこが別なんだ?)
などと首をかしげた直後に、フィーが「ふぇ!」と変な声で鳴く。
「イチ、イチヘイ、早くいこう?!」
急に焦った様子で子供の尻から片腕を外し、力強く手首を引いてくる。
「あ゛? なんだよおい、ちょ、」
されるがままに駆け出すも、その速度はすぐに並みの人間では追い付けない速さとなる。
目前で揺れる長い杏色の耳と、焦げ茶のしっぽ。耳長族は馬鹿力だ。脚が縺れて引きずられそうになった。
「ちょ、おい馬鹿……、……分かったから引っ張んな……!!」
しかしイチヘイは〈祝福持ち〉である。
悪態をつきながらも何とかその手を振り払い一歩二歩。駆けるその間に、イチヘイは身の内に流るる力を足に込めはじめた。
次の瞬間、イチヘイもまた常人にはあり得ないような加速度で相棒の後ろに追従し始める。
イチヘイは『魔法』という形で自分以外の何かに干渉できるほどの魔力は持たない。けれど一方では、全く魔法が使えない人間よりは多い力が体と魂を循環しているという。
少なくともイチヘイは師からそう聞いていた。
そして魂と身体、それぞれの器からぴったりはみ出さずに魔力が巡り回る者でなければ使えないらしいこの能力は、ともすれば魔法使いより数が少なく珍しい。ゆえに〈祝福持ち〉。
自己治癒強化、スタミナ増強、筋力増強など、とかく肉体強化の能力に特化した、あたかも戦うために生まれたような身体を持つ者に与えられる呼称である。
明らかに常人離れした速力で駆けだすイチヘイを、子供がおっとりした大きい瞳を皿のようにして見つめてきた。
しかしイチヘイは、そもそも子供が嫌いである。
合わせたくない目を合わせてしまい、しかめっ面で視線を逸らす。代わりに耳元の風切り音に負けない声で、もう一度相棒に問いかけた。
「……なあフィー、もう一回きくぞ! どこのガキだよそれ?! どっから連れてきた」
「んえ、だから知らないよう?! なんか聞いたことある知らない国の言葉、話すのよぅ!! でもねえ、奴隷の子だよ、きっとー!」
へにゃりと、崩れた笑みと共に答えてくるフィー。
「だからねぇ、最初追いかけたら逃げるから、怪我させないように捕まえるの大変だったのよう? 力入れたら腕とか折れちゃうしー。……だから誉めて?」
……正直何を言っているか判らなかったが、少なくとも子供の素性については、おおむねさっきのイチヘイが顔をしかめながら考えていたことと一致した。
引きちぎれた鎖枷に、極端に短い前髪。薄汚れた身なりからしてもどう見ても市民身分には見えない。
(そうだろうな、少なくともこのガキが普通の身分じゃねえのは確定だろうな……?)
しかし、『奴隷の子』、『逃げてきた』、加えて『異国の言葉』と並ぶ単語は、正直聞けばきくほど面倒くささの塊でしかないような気がする。
「……ねえってばー、誉めてようー」
「あー、くそ、わかったわかった」
突っ込みたい所が多すぎて頭を抱えるが、壊れた相棒にそう言われてしまえば一度考えること自体、やめざるをえない。走りながらする事ではないとは思うものの、乞われるがまま腕を伸ばして、イチヘイはほんの短いあいだ耳の間……ようは頭のてっぺんを撫でてやる。
「えへへえへへぇ……」
するとフィーは走る速度まで緩むほどには気を緩めて、太くて長い両耳をぺたりと倒した。イチヘイへ嬉しそうに満面の笑みを見せてくる。
フィーの耳の間は他の部分より毛足が長くてふわふわと柔らかく、滑らかな手触りがする。
心を病んでしまった耳長族と、その世話係……あるいは見守り役。
これはそんな関係になって、イチヘイが初めて知ったフィーの感触だった。
「……よかったな?」
「うん!」
こくり、と満足そうに頷くフィー。
その様子を見つめながら、イチヘイはふと考える。
フィーゼィリタス・アビは、今も確かに気が狂れている。
しかし、少し奇妙にも聞こえるが、全部がおかしくなったわけではないのだ。言葉を交わせばこうやって変わらず笑うし困るし怒るし、時には拗ねる。
実際、話が通じるあいだは前より少し増えたフィーの要求に、こうしてイチヘイが付き合ってしまえば、それで困るようなことはここまで殆どなかった。ゆえに話す内容によっては、十年共に過ごしてきたイチヘイにすら前とどこが違うのかわからない時すらある。
……それでも、ずっと狂気と正気の間を行き来して、壊れてしまった相棒がとても不安定なのは間違いなかった。だからこそ、そばでみているイチヘイにとって、以前とどこか違う相棒が醸す、この『幼さに潜む違和感』は看過ができない。
一瞬、耳元を切り裂いていく森の風の音を聞きながら、その柔らかい流線型の横顔を見つめてしまう。
すると、なぜか耳の向きを背後に回しながら、フィーが何か思い出したようにイチヘイを見返してきた。
「あ、のね、イチぃ……」
「なんだ」
「このこ、うちの子にしていいよね? 〈虚棲ミ〉がこの子のこと食べようとするの……」「――は? ……いや、妖獣は誰のことも好き好んで食べようとするだろ」
訊ねられたことの意図が理解できなさすぎて、とっさにわざとズラした返しをしてしまうイチヘイだった。
常軌を逸している。猫の子ではないのだ、もちろんそんなの、このまま聞かなかったことにして却下したいに決まっていた。
それに〈虚棲ミ〉はそれほど足も早くない。こんな速度で走ればそろそろ普通に振り切れたはずである。
「フィー、もういいだろ、そろそろそんな訳の分からんガキなんか放ってうちに帰……」
その時だった。
《ギャー! ギャー!》
《ギャー! ギャー!》
あり得ない鳴き声に、イチヘイは目を剥いて振り返った。そこでやっと彼も、自分たちの後ろに追跡者がいることに気づく。ついでその追跡者の姿の異様さにも言葉を失う。
「――は?」
《ギャー! ギャー!》
イタチのように細長い錆色斑の体と、太く長く、ふさふさしたしっぽをバネのようにしならせて、音もなくぴったりとつけてくる。
〈虚棲ミ〉、ではある。
だが、おかしい。体格が異常にデカい。
「ずっと追われててしつこいのよぅ……。きっとこの子が美味しそうだからなの」
それを聞いて、イチヘイは思い出す。
そういえば森の家に戻ってきてすぐ、足りないものを求めて下の村に買い物に出たことがあった。
あの時、あまりにおしゃべり過ぎる雑貨屋の老婆が『最近エナタルの森の様子がおかしい。ウサギや鹿や、今まで捕れていた森の獣が捕れないと、裏の家の猟師が嘆いている。アンタたち、お大師さまから何か聞いていないかね』等と話しかけてきていたのを、イチヘイは『知らない、お師匠は今家にいない』などと辟易しながら受け流したことがあったのだ。
(――……もしやこれが原因か?)
あれがここに存在する理由は判らないが、とにかくあんな巨体の〈虚棲ミ〉はイチヘイも知らない。こんなでかくて素早い妖獣が森の中を彷徨いていたら、それは妖獣の少ない森の縁に棲み慣れた獣は寄り付かなくなるだろう。むしろここまで村人から犠牲が出てないのが不思議な位だ。
「ねえ、どうしようイチぃ……」
しかし思惟する横から、相棒がやはり彼を頼りきった顔をして見上げてくる。イチヘイはそのハの字に下がった太い麿呂眉を僅かに見返す。
そうしてやはり複雑な思いに駆られながら、彼は後腰のベルトに挟んで持ち運んでいた短槍を引き抜いた。
穂先近くに緻密な彫り模様が施され、よく磨かれて使い込まれたフィーの愛槍。穂先の、ビーズで補強された革のカバーもフィーのお手製だった。
「……やれる、か?」
「んえっ……?」
――アレは、この世界でいうところの『人間』ではない。
しかし、フィーと二人、ここに辿り着くまでの経緯と抱えてきた後悔を思えば、まぎれもない最高の皮肉であるとイチヘイは思った。
やれるかと、問うておきながらも躊躇い、コンマ数秒、返ってこない答えに放った言葉を呑み込もうとする。
「……いや、無理ならいい。俺が守っ」
けれどその瞬間、その愛槍は持ち主の手に捥ぎとるように奪われた。
「んええ、やるよ、ボク!」
「フィー……?」
イチヘイは思わず少し沈黙してしまった。
「? どうしたのイチ……?」
「あ゛、……おう!」
反射的に返事をして誤魔化した。そうだ、彼は期待してしまうのだ。こんな風に話して戦えるのであれば、やはり前よりは相棒の心は戻ってきているのではないかと。
単に調子が良い日なだけなのかもしれない。
それでもあれから、フィーは朝の稽古に槍を振るうことは一度もなかった。こうして共闘するのも、トルタンダ以来の事だ。だから、
「……んじゃ手分けしてさっさと片付けるか……」「あいあいっ!」
気を取り直したイチヘイの顔には、知らず笑みがこぼれていた。
けれどその眼差しはすぐに真剣なものにすり替わり、彼は無二の相棒に、口頭で簡単な作戦を伝え始めた。




