67.幼女、うさぎ、傭兵① -とけない-
読了目安 7~11分
ーーイチヘイがソルスガとの間に結んだ聖宣は、以下のようなものだった。
"10日後に、イチヘイ達には都市ニムドゥーラにあるソルスガの邸宅までハナトに来て欲しい。
ただし、もし来なくてもソルスガはイチヘイたちを責めない。
邸宅を訪れたら、ソルスガは以下の約束を守る。
一、ニムドゥーラに逗留中の、ハナトと、ハナトの関係者全員分の宿泊費の支払いは兆嘴商会もちとする。
一、交通費も請求があれば兆嘴商会もちとする。
一、ハナトへの品質保証書の発行を確約する。
ただし約束の日を過ぎたら、すべての約束は無効となる。
また、この約束とは別で、壊した扉と庭の分は三日以内に兆嘴商会が修理、乃至、弁償する。
さらに、向こう十日間はハウ=アザラに何か怪しい動きがあれば、ソルスガはこの家に報せをよこす。"
おおよそこんな内容をもっと小難しい文章にした書面がその場で作成され、そうして更にアナイがだしてきたのは、契約書に捺す執行印と細い銀の針であった。
《廻り廻りし縁、我ら此処に繋がれん……―――――》
あの時フィーが謳っていたのとはまた全く内容の違う詠唱を、ソルスガが滔々と唱える。
最後にその針でそれぞれに指先を刺し、二人分の血判を押すと、
――――シャン!
というあの鈴の音と、卓上に広がっていた白い光の小さな魔方陣が閉じて……、それだけだった。それは本当にただ魔法が関与するだけの契約であり、あまりにも事務的だった。
彼がフィーと二人、あの瞬間に感じた言い知れぬ怖気も、杖の音も、絶望も焦りもそこにはなかった。
「…………」
「――よし、約束は結ばれた」
あまりの違いに呆然とするイチヘイをよそに、ソルスガが満足げに言う。イチヘイはちらりと、隣に座る耳の長い相棒を盗み見た。
「んぇえ……?」
しかし、バッチリ視線に気づいて目を合わせに来るため、瞬時に目前の男に目を戻す。
「……どうした? 顔色が悪いように思えるぞ?」
「いや、なにもない」
―――イチヘイの相棒は心を病んでいる。だからここ二ヶ月と十日、様子がおかしいのは皮肉にも『いつもの事』にってしまった。それでも今日のこの様子であれば、ここまで周りで話していたこと、イチヘイがソルスガと結んだ契約の内容も、フィーは全て理解できているはずだった。
……ゆえに(あの『命令』が発動した瞬間の記憶はなくとも)、二人包まれたあの《耳長族の神への聖宣》の中にはあった、青と緑の読めない文字列についてはきっと覚えがあるのだろう。フィーも少し戸惑ってはいるようだった。
ちなみに契約を結ぶ前、『聖宣とはなんだ?』と問うイチヘイに向かい、ソルスガは以下のような説明をしていた。
この世界の〈円環の河〉の力は、大きく分けて使い方が3つに分かれる。
一つは発動時に青い光を放つ魔法。もう一つは、緑に光る呪い。
そして最後が、白い魔方陣を展開する『神力』なのだと。
ソルスガはこう語った。
『これは、それぞれの種族や商売を司るとされる神の力を借りて行使できる力だ。神によって詠唱や契約の仕方が異なるが、使う力が魔力由来ではないから、魔法の使えない人間たちにも扱える唯一の魔法でもあるね。代わりに『約束と契約』にのみ特化している。……酔狂な所だと結婚の儀に使う夫婦もいるな』
『ちなみにどの神も、約束を破ったと認められる時にはきちんと代償を払わされる』
そこまでは、イチヘイがフィーから聞いていた内容ともおお むね被っていた。しかしそこから先の内容は、全て寝耳に水であった。
『けれども、この発動条件は『相手が自分との約束を反故にした状態で、さらに自分がそれを言葉として、相手か、あるいは中継ぎをしてくれた神の廟の前で申告したとき』になる』
『もちろんだがどんな約束を取り付けても、相手にそれを無理やり強要するような拘束力はないぞ。神々は私たちの行いを見守るだけだ。守るか守らないかは、相手の意思次第だよ』
――ああ、もちろんこの程度の約束でも、聖宣という形をとる以上はちゃんと守るぞ? 私の命も賭けるしな! と、屈託なく笑うソルスガの声も遠く、イチヘイは一瞬呆然としてしまった。
しかしそれが嘘でも本当でも、提示された条件にこちらへ何か強要してくるような条文は一切なかったゆえに、イチヘイは条件を飲んだのである。
実は魔法関係の知識には詳しい、と途中から口を挟んできたカナイナが、ソルスガの説明と自分の知識に差異はないと言いきったのも判断材料のひとつにはなった。
そうして、一介の傭兵が文字が読むことにもまた驚かれながら、いま、聖宣は結ばれたのである。
(……なら、俺たちが結んだ、あの『聖宣』は一体―――)
ざらり。
しかし考えかけ、彼は飲み込む唾で胸の奥に押し込めるようにして、早々に考えを止めた。
『ボクはもう人殺し――――』
イチヘイは、夜の静寂に慟哭する相棒の意思と心を、あんな心ない言葉で侵し、穢してしまった。それは既に彼にとって、後ろめたい咎であった。
もしこの件を詳しく調べるとなれば、この相棒ともう1度話し合い、いつかはあの瞬間を再現することになる。……しかし、そんなことが出来るものか。そもそもあれが何であったのか、深く考えることすらもはやイチヘイの頭は拒否していた。
……ゆえに今、彼の中に沸いた大きな疑念と不安は、溶けることの無い氷のように冷たく鋭いままで、胸の奥深くに仕舞われ続けることと、なってしまった――――。
*
「――若旦那さま、お早く。次の予定が押しております。二時間半でニムドゥーラまで戻らなくては」
「ふふふ、なかなか厳しい時間取りだな。
……にしても残念だよイチヘイ氏、あの魔石具には驚かされた。貴君の師についても、もう少し語らってみたかったのだが」「無駄口はよろしいのでお早く」
足早に歩くアナイが、こちらを振り向いて話しかけてくるソルスガを迷惑そうな目で睨む。イチヘイはその様子を、この時ばかりは口髭の彼と同じ気持ちで見つめた。
(とっとと帰れ……)
腐っても権力者、そのうえ表面上は『恩人』となるかもしれないこの男への最低限の礼儀として、いちおう見送りには出た形だった。家の正面から街道に至る道すがら、ソルスガは終始 満足げにニコニコと笑っていた。
街道まで出ると、大きさは小ぶりだが豪奢な輓獣車が、道の端に待機していた。
三日月のように反った耳に小さな頭、脚と首が妙にスラリと長い大型獣が二頭、車を牽いている。脚以外の身体中から生えた栗毛色の長く艶やかな体毛が、湖から畑の丘陵地帯を駆け登ってくる風に靡いていた。
また、丘下の村のそばにある湖、ニムドゥーラ湖は汽水湖であるため、その上を渡ってきた風は薄い潮の匂いがした。
御者が用意した踏み台に脚をかけながら、ソルスガがまたそこに居並ぶ四人を見る。風で口の端に入りそうになる横髪を押さえていた。
「ではまた十日後に、都市ニムドゥーラの私の邸宅で。
時間は、ニムドゥーラの大鐘楼が刻《ふた》ツを鳴らす頃がいいな? 先程の証文を門番に見せれば、直ぐに通してくれる」
「……わかった」
「若旦那さま?」「ああ、行くよアナイ」
イチヘイが主人にタメ口を利くことへついぞ殺意めいた視線を向けていたアナイが、
「それでは邪魔をしたな」
仏頂面で言い放ち、最後にバタンと扉が閉まる。
御者が鞭で輓獣車を牽く獣、〈雪分け〉に軽く鞭を打つと車輪は動きだし、――――――そして嵐は遠ざかって行った。
*
……はぁーーー、と、盛大なため息がイチヘイの肺から溢れる。
うっかり深く吸いすぎて、折れた肋がキシリと痛んだ。
しかしいつの間にか雲も晴れ、頭上には薄青い午後の空が広がっている。空気は土と緑の匂いを孕みながら心地よく湿気って、浮かぶ太陽は夕方手前の気だるげな日差しを投げていた。
しばし黙って全員が遠ざかる輓獣車の背を見ていたが、イチヘイのその深いため息を皮切りに、その場の空気は一瞬で弛緩する。
「行っ……たね……」
そう、肩の力を抜きながらカナイナが呟いた瞬間、
「……~~~んんえー、カナイナせんせえーー!!」
「ううわー?!」
フィーが容赦なく彼女の身体に絡みつきに行った。
「カナイナ先生っ、カナイナ先生ありがとう~!!」
嬉しそうに両目を瞑り、広い額をカナイナの頬にすりすりと擦り付けている。感極まるほどに歓喜した時、フィーが仲の良い他人によくやる仕草だった。
「ふぃ、ひーくん?」
もごもごともみくちゃにされながら当惑するカナイナ。フィーは、あの土壇場で渡したはずの十五エラを全てハナトに注ぎ込みに来た彼女に、いたく感謝しているようだった。
その上、カナイナはどういう風の吹きまわしか、ハナトの喉を治したいと申し出てきていたのである。
それはソルスガが、イチヘイに確認した契約の内容を、正式な書式で証文に書き連ねている間のことだった。『ハナトにいい医者を紹介する旨も記述しようか』と話し出したソルスガの言葉を遮って
『もし許されるならワタシに、ハナトくんの主治医をさせて貰えないだろうか』
と名乗り出てきたのだ。フィーがとても喜んでしまって、二つ返事で『カナイナ先生すき! お願いしたいのよう!』と言い出してしまったため、イチヘイとしては断る機会を逸している状態だった。
彼の相棒は昔からお人好しで、すぐに人を信じる。
それはイチヘイにはない部分で、それに救われて来たことも一度や二度ではないためもう受け入れたが、今回ばかりは問題がある。相手がこのカナイナである事だ。なにを隠しているのか知らないが、見る限りやはり得体が知れない。
花登に関しては確かに『〈稀人〉は迎えよ』とは言い慣わされるが、別に強制力などどこにもない。皆自分の出来る範囲のことをするだけだ。
今回はたまたま、イチヘイがイチヘイにしか理解できない理由で花登を手元に残すことを望んだ。しかし、そこに全くの赤の他人がしゃしゃり出てきて、有り金全部を――元はイチヘイの物だった十五エラを――出して協力してくる動悸が彼にはいっさい理解できないのだ。
ハナトの競りに介入してきた理由も、カナイナ本人は『共犯だからね』などと言っていたが、
(分からん……何なんだコイツは……)
そう思いながら、フィーに絡まれて困った顔をするカナイナを、細めた目でじっと見据えてしまう。
それに、ハナトに15エラを出すと言ってあの場に出てきた瞬間からの彼女の立ち居振舞いと言動も、イチヘイはじっと観察していた。
まずは『カナイナ・ヒドリーと申します』といいながら、ソルスガの前でした、あの膝を折る仕草。
どこ式の挨拶かイチヘイには分からなかったが、あの瞬間、あの動きだけは流れるように洗練され、やはり貴族然とした立ち居振舞いだった。ソルスガに対して向けられる無意識の敬語も、同様に流暢であった。
あれで確実に平民の出でないことは確定した。
そのクセ、全力を賭して自分たちに取り入ろうとし、どういう意図か、この後も繋がりを持とうとしている。
何かの「罠」か?
後で何か、より大きな見返りを自分たちから得るための「投資」なのか。
あるいは本当にただ状況判断のできない、救いようのない「お人好し」なのかもしれない。
いずれにせよ、彼にとってこういう存在はソルスガよりよほど不気味だった。
「カナイナせんせーーー!」
「わー!? わかった、わひゃったからそろふぉろ離れっ……うひー?! ちょ、やめて背中と脇は弱いんだから! ……い、イチヘイくんたすけてー!」
一体何が目的なのか。
しかし、戸惑ったように游いだ目でそう話しかけられてしまうと、
「……チッ。……フィー、そろそろ離れてやれ」
「ぐえー」
表面上は助けてやらざるを得ない。それはフィーが、どう見ても彼女を気に入っているからだ。イチヘイ独りであれば、こんな得体の知れない獣人女、とっとと関係を断っている。
しかも彼女は、現状、まだ何も取り決めを交わしていないソルスガよりもずっと明確にイチヘイたちの『恩人』だった。その上どんなに怪しかろうと、イチヘイはカナイナの、医者としての手腕だけは確かであると認めてしまっている。
特に薬の調合の魔法は、魔力のあるなしに関わらず繊細で高度なものだと聞く。
それに何か彼女は、なにかしら特殊な天賜を隠しているような気もしていた。
付き合えばそれなりの利はある。花登の声のことを考えると、今すぐ突き放してしまうのもあまり良い手だとは言えない。
「……あ、ありがとう」
ゆえにほっと旨を撫で下ろすカナイナに向かって、イチヘイはぶっきらぼうに言い放った。こんなに怪しさがムンムンでなければ、もう少し穏やかに言っていたかも知れない。
「……今回のことは、貸しにしといてやる」
「んええ? 素直じゃないよぅイチぃー」
「うるせえ」
(――ワケありなのは確実なんだろうが、コイツがもし俺たちを……、特に、深く関わることになる花登を裏切るような行いをしてると解ったら、その化けの皮、剥いでやるからな……)
するとこちらの顔つきを読んでいるのか、はたまた不満に思うだけなのか、翡翠色の両目が何か考えるようにこちらの瞳をじっと見てくる。
今日一日で、彼もフィーの口の柔らかさにはだいぶ慣れた。ほぼずっと二人で過ごしていたから、こんな一面があるなど知りもしなかった。狂気からくる、幼さの弊害なのかも知れない。
イチヘイは先んじて首根っこにあった手を相棒の頭上に移して、
「んえ?」
ふわふわの毛並みを撫でておく。
「……えへへ、えへへぇ」
何か言おうとしているなら、少し黙っていて欲しかった。
しかしこればかりは、フィーにどう思われようが今は譲れない。ともかくカナイナは、この瞬間からイチヘイの中で明確な監視対象となった。
悪気があったわけではなかったのかもしれないが、結局は保身のために、不確かな情報で自分たちを脅してきたような獣人だ。
(フィーの手前、敵意は向けないでいてやるが、俺は信用しないぞ……)
一話はこちらから!
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