50.望まぬままに与えられ、② -彼女を狂人たらしめてきたもの-
前回:戦のトラウマの癒えぬ相棒。
その心の傷の深さをイチヘイは甘く見て、そしてまた、元のように共に戦えるのではないかと、期待してしまったのです。
読了目安 3~5分
――「そんなにお望みなら、そうしてあげようかー?」
その時、イチヘイの視界のなかで剣の切っ先のように細まる瞳があった。
言葉の含みに何かイチヘイが嫌なものを感じる間に、眇目は鱗に目配せしている。
すると鱗は全部察したように、黙ってイチヘイの頭のすぐそばへ持っていた短刀を投げ捨ててきた。そのまま立ち上がると、代わりに自身の三日月刀を抜く。
握った得物を再びイチヘイに突き付け、視線と切っ先の仕草で、『それを持って立て』と命じてきた。
「……眇目さんも面白いこと考えますナ」
「鱗もそう思うー? 良いよね、僕らと彼らの立場が、逆しまになるこの瞬間て」
「う、ぐ……」
なんの立場の話なのか。交わされる会話をぼんやりと拾いながら、短刀を片手によろよろと立ち上がる。身体中、草の汁と欠片と土でどろどろだった。
やっと解放された胸に深く息を吸い込もうとした途端、左下の肋骨に鋭い痛みが差した。こちらも肋をやったかもしれない。
高くなった視野で今一度フィーと目を合わせ、それから家の玄関先で怯えた顔をしている二人にも目を遣る。
不安げなニカナグとハナト。イチヘイはそれぞれに目を合わせ、特に痛々しい表情で自身を見つめるハナトに、なんと声をかけるべきか初めて悩んでいた。
……アレが自分ならば。
悩んだのはほんの刹那だったけれども、(ついでに追い詰められ鬼のような形相ではあったけれども)、彼は花登の為に、捨てた故郷の言葉を口にする。この家の庭に出ても、いつも話す言葉はちゃんと、通じるけれど。
一つ目の変化だった。
《……大丈夫だ、後で夕飯も一緒に食べような》
「……!」
見開かれる花登の目。とても大事な言葉のはずだった。
「――――よーし、じゃあお兄さんに命令ね。お兄さん、このイカれたお嬢ちゃんの望みを叶えてあげるかどうか決めてよ」
しかしその瞬間のハナトの表情のわずかな変化さえ、それに被せるようにして投げ掛けられた眇目の発言に全て持っていかれる。
イチヘイも、さすがに聞き捨てならなかった。
「……いま、何て言った」
瞬時にして眇目に向き直っている。
そのとき不意に、北西から流れてきた大きな雲が日差しを覆い隠し、森も庭も家の中も、全てが一瞬で薄暗くなった。落ちていた影が消える。
……単に言葉の解釈違いだろうか。そうでないのならば、本当にいい趣味をしている。
「……うん? いいよー? 僕、気は長い方だから何度でも言ってあげるね。
このお嬢ちゃんをお兄さんの手で殺すか、僕らの手で殺すか、選んでくれない?」
にこり、と冷たく眇目を細め、悪魔のするような選択を提示してくる。
「……えへ、へへへ……」
一方それを耳にしているのか、していないのか。
彼に捕えられたままの翠の瞳はいまだ焦点が合わず、その瞳の持ち主は、壊れたおもちゃのように唐突に笑いだす。乾いた笑いであるのに、イチヘイには苦しんで泣いているようにも聞こえた。
「うわー? こんな状況なのに嬉しそうだねー?」
「ふぃ、い……?」
そうしてその笑顔を見てしまったイチヘイの頭の片隅には、ピリリと嫌な電流が走っていた。何も知りはしない眇目の言葉すら一瞬遠くに追いやり、イチヘイは虚しい直感を得てしまう。
フィーは毎晩、自室に引っ込んで眠りについたあと、独りで悪夢に魘されていた。廊下を挟んで向かいの部屋でも、古い木造の家ではよく聞こえていた。
夜の闇のなか、急に静かになったと思った後は、こんな風に独りでくすくすと笑って、同じ歌を繰り返しずっと口ずさんでいることもある。
そうでなければ、大抵は夢で魘されていたときと同じようにごめんなさい、ごめんなさい、死にたい、殺して、許して、と泣いている。
寝る前でも、夢から目覚めた夜の闇の中でも、その空間に無理に立ち入ろうとすれば、『入ってこないで!』『あっちに言って!』と半狂乱に拒否される。
それはイチヘイには常にどうしようもなかった。やはり掛けてやれるような言葉も思い付けない拙い彼は、手をこまねいてフィーの周囲から去るしかなかった。
……ただ、昼間はべつに、いつも怖いくらいになんともないのだ。前より少し増えたフィーの要求にイチヘイが付き合ってしまえば、それで困るようなことは何もない。
そうしてその反動のようにフィーは再び夜に乱れ、昼にはまた、何事もなかったように無邪気にイチヘイに笑いかける。
常に正気と狂気の間を彷徨うこの相棒の醸す『違和感』は、到底イチヘイが御しきれるものではなかった。看過ができるものでもなかった。
……だからずっと付かず離れず、目を離せなかった。
――もうそんな日々を、これまで二人は何度も何度も繰り返してきていた。
(……嗚呼、フィーは、こいつは、夜はこんな顔をしていたのか…………)
そして、フィーゼィリタス・アビを真に狂人たらしめるものが、おそらくいま初めて、イチヘイの目の届く処に顕現している。
「……ふぃ、い……? お前…………」
だから知らず、彼がその名を呼ぶ声も戦慄いていた。
「……おーい、聞こえてるー? 浸ってるとこ悪いけど時間がないんだー?」
しかし呆然とするイチヘイへ現状を知らしめるかのように、そこに眇目が穏やかで不穏な声を割り込ませてくる。
「……まー、じゃあ、今やこのお嬢ちゃんもぜんぜん無抵抗だし……、……まあ、都合はいいけどさ。……鱗、やっぱりこの子、どうみてもイカれてるよね?」
「ワハ、眇目さんもそう思いますかナ」
「もう少し時間があれば、他の『遊び』も出来るんだけどねー」
そうやって鱗と軽く談笑しながら、眇目は突き付けていたフィーの愛槍を、背後の地面にポイと無造作に投げ捨てる。
相棒は、他人の武器は雑に扱うクセに、いつもこの短槍の穂先だけは無駄に刃こぼれしないよう大切に扱っていた。
こんな投げ方をされようものならいつもはすっとんで拾い上げに行くが(ついでに怒るが)、今は『ガロン』と地面に転がるその音にも耳先一つ動かさない。
……落ちた位置にすら、興味がないのだ。
それから眇目は、先ほど回収して鞘に納めていたあの櫛刃の剣を、再び背から抜き放つ。
次いで――――、信じられないことに、彼はフィーを押さえていた腕をぱ、と離した。
…………フィーはへらりと微笑んで、跪いたそのままの姿勢で動かなかった。
「……わー最初から全然暴れないからまさかと思って放してみたけど、無抵抗だー? 少しでも逃げようとしたら、殺そうと思ったのに」
「おいフィー!」
直後、相棒へと駆け出そうとして刃で制止させられるイチヘイの眼前で、隻眼を細める眇目が愉快そうに呟く。
「んじゃーそういうわけで僕は今から、この子の首を刎ねるね?」
(……は?)
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