43.邂逅、変貌、変容⑧ ~変貌~
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結句、途方にくれていた時間はほんのわずかの間しかなかった。けれどそれが終わったときに起きたことは全て、ニカナグにとっては耳目を疑うばかりの、奇々怪々な事柄のみで出来ていた。
まず、ニカナグの目前で突然に喪われた魂が、また一瞬で戻ってきたこと。直後、その魂の持ち主が――ハナトが、想定より恐ろしく短い時間で、胞果熱の昏睡状態から目覚めたこと。さらに喉と魂を縛りつけるこの呪いで、どう見ても話せないだろうと思っていた彼女から、声が出たこと。
――……そしてなにより理解できないことは、その、子供らしくも落ち着いた声を挽き潰したようなひどいしゃがれ声で、彼女が『シーナバーナ』という単語を、口にしたことだった。
「――――――な……なん、で君、彼女の名前を知って……――?」
ニカナグは一瞬、外にいる敵のことも忘れ、時が止まったように固まってしまう。
しかしその間に、当のハナトも目が醒めてきたようだった。
何を考えているのか、寝ぼけ眼にだんだん光が宿りだすと、その瞳できょどきょどと周囲を見渡しはじめる。ついで唐突に跳ね起きたかと思えば、今度はニカナグに怯えるような挙動をしながらなにかを探し始めた。
「あ、まって、いまは危ないんだ!! ここに座っていてくれないか!」
終いにはベッドの上からも出ていこうとするので、それはさすがに制止する。いまだに足につけられたまま、じゃらじゃらと擦れる鎖枷の音とともに、その瞳には、えもいわれない不安の色があった。
「や! いぢへ、ぃぜ! っ、ゲホッ、ゲホッ」
「あ……、……二人を探しているのかい?」
すると彼女の大人しく優しそうな瞳がパッとニカナグの方に向く。何度もこくこくと頷き返してくる。
どうしてこれを外さないのか、買い主ならば枷の鍵も持っているだろうにと、ニカナグには不思議でならなかったが、それでもこの様子を見れば彼女が二人に懐いているのは明白である。
ならば確かにそれもそうだとニカナグは彼女を押える手を緩めた。目を開けたら全く知らない人間と二人きりなど、逆の立場なら誰でも心細くなる。
そうしてニカナグは、ハナトが『シーナバーナ』の名を呼んだこと。想定より早く目覚めたこと、話せること。いったん、それらハナトへの戸惑いを全て脇に置き、努めて穏やかな態度で彼女に話しかけはじめる。
「すまない、その、ワタシは怪しいものでは……うん、とにかくまずは安心しておくれ。ちなみにワタシは、狛晶族のカナイナというよ――――」
「……ぁ、ない、な?」
「んん……? そうだ、よ?」
すると花登はなぜか人違いに気付いたときのような、バツのわるそうな顔で斜めに俯いてしまった。
やはり彼女は、シーナバーナを知っている……?
それでもニカナグはそれ以上の私情を持ち込むことはぐっとこらえた。そこからは本当に手短に、自分はハナトが倒れたゆえに呼ばれた医師であること。あの二人は部屋の外にいること。そして急に襲われたニカナグを、今はその敵から守ってくれていることを伝えた。
しかし、名前と職業、それに種族……小さな子供にまでまたこうして同様に嘘を吐くことに、ニカナグはまた胸の端が黒く染まる気がする。
一方のハナトは、ニカナグからの説明は足りなかったはずだが、それでも懸命に状況を飲み込もうとする様子をみせていた。
「てき、しゅう……??」
「んん、そうだね、そういうことになるかな……」
もう少し知りたそうな顔をしているようには見える。
しかし敵情がわからないため、深く説明してやることも出来ない。それにそうでなくても、門扉を破ろうとする何者かの気配は今も確かにあるのだ。時間はあまり残されていない。
――ガン! ガン! ギギ!
と、未だに外から耳に届く不吉な音。その破壊音に意識が向いたハナトの顔が、また不安そうになった。
「だ、大丈夫だからね……」
(――本当に大丈夫なのだよね二人とも……?!)
しかしそのときである。断続的に響いていたその音が、突如ばきゃん!! という派手な音と共に一度止んだ。
二人はめいめいに息を呑む。特にニカナグは恐怖を押さえきれず、ハナトを護る体裁を取りながらもその小さい身体に強く抱きついてしまった。
そうしてその直後、
「眇目サン、家ン中見えてきた! あとちょっとだぞコレ!」
楽しそうに弾む声が先ほどよりはっきりと聞こえてくる。男の声ではあるものの、やや甲高めのダミ声だった。
いよいよ侵入されようとしているのだ。
(あわあわわわわ、どうしよう――――)
しかしやはり今のニカナグに出来ることはない。『入ってきたら会話して気を引いてほしい』と言われているだけだ。
ニカナグが心細さに周囲を見渡すと、反対側の壁の隅に立て掛けてあった、柄の長いホウキが目に入った。慌てて手に取り、元の位置に取って返す。
そうしてその間にも、
――――ガコン、がたん!
何か木でできた大きいものが、玄関ホールに転がり落ちるような音がした。おそらくは扉を壊して開いた穴から侵入者が手を差し込み、閂を外したのだ。
「よっしゃ!」
ついで聞こえてくる、ダミ声の快哉。すぐに扉が開かれる音がして、それから みしり、みしり、と廊下の床板を踏む足音が近づいてくる。
(入、ってきた……!)
ホウキを構えるニカナグの手に力がこもる。
「い、いいかいハナトくん……、そこから動かないでおくれよ?」
真剣な声でそっと囁きかける。するとハナトもすぐに状況を察したらしかった。神妙な顔でコクリと頷き、四つん這いで這ってドアに近いベッドの足元まで下がる。入り口からみて死角となる壁の陰に隠れる形だった。
一方のニカナグも、任されたこの子を護らなければという強い思いと、同時に襲ってくる極度の緊張と恐怖に戦慄きながらドアのすぐ前に陣取る。
……そのあとは、本当に一瞬だった。
「おい、だれかいるよなァここ?!」
おしゃべりが過ぎたか、敵は入ってすぐ前にあるこの部屋に人の気配を感じたのだろう。なんの前触れもなくガチャリと一気に開き、ダミ声の主が姿を表す。四角い輪郭をした、顔立ちの濃い縞尾族だった。凶悪そうな戦斧を担いでいる。
「お? いたなァ、さっきのフードの小娘ェ……?」
しかしそれは彼がニカナグの存在を目視して下卑た笑みを浮かべた、まさにその瞬間だった。どこからか、誰かの言葉が聞こえてくる。
穏やかで深みのある、中性的な声だった。
――――『吾は、貴殿の入室を許可せぬ』
「うわ? な、なんだっ?!」
あまりに唐突すぎた。姿はない。途端、縞がキョロキョロと周りを見渡す。
――――『よって無頼の輩には罰を与える』
直後、斧を握ったまま警戒を緩めない縞尾族の男の足元には、青白い魔方陣がブワリと広がっていく。青と緑の奇っ怪な魔法式が、男の周囲を回りはじめた。顔に収まる楕円のつり目が見開かれる合間に、その体がふわりと浮き上がる。
魔法の発動の瞬間だけは、〈魔法族の眼〉など使わなくて
も誰にでもよく見えるものだ。ゆえにハナトも何事かと思ったに違いなかった。左側に気配を感じてちらと見れば、壁の陰から頭を覗かせ、うごめき出した魔法を凝視している。
「う、うお?! おいなんだやめろ放せ!!」
その言葉はどうやら最初に目があったニカナグに話しかけているようだが、生憎とニカナグもこの男とは別の意味で眼を剥くしかない。
(ほ、本当に発動した……!?)
ちなみにニカナグはこの三十路ほどの縞尾族の男がこの後どうなるのか、既に話に聞かされている。敵とは言えども哀れになる。思わずホウキを構えて固まったままの姿勢で、その変化をじっと見守ってしまった。
みるみる縮む、その体。丸くなる手足。
指も目立たないほど短くなり、武器を掴めなくなった手のひらからは戦斧がごとりと音を立て、床にこぼれ落ちる。着ていたツナギと上着はブカブカになり、体の形と、縞々だった模様すら別のものに変わっていく。
そして魔方陣が全て消え失せたとき、そこにいたのは擦りきれてくたびれ、さらに小汚い男物の衣服に埋もれた……
「さ、〈刷毛尾猫〉、だ……?」
〈刷毛尾猫〉――、森深い土地に多く生息する、森猫の一種だった。妖獣ではないただの獣だ。
「……ねこ……」
ニカナグの横にいるハナトも息を呑んだ様子で、ポツリと呟いた。




