40.邂逅、変貌、変容⑤ ~邂逅~
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ふわりと頬を撫でた風に、あえかに甘い花の香りがして、花登はふと目を開けた。
視界のなかでは、人間ではない女性が一人、大きな木のそばに佇んでいる。
しかしそれはいつのことなのか、そもそも本当にある場所なのかすら、花登には解らない。
そこは落ち葉のうえに白い花びらの積もる森の中。回りの木にはハスの花に似た大輪の花が咲き乱れ、甘い香りはどうやらこの花々から匂ってくるらしかった。
花はとても白に近い、きれいな黄金色。そしてその花の下にいるその人も、同じ髪の色をしていた。
肩までの、さらさらした長い髪。その表面だけを三、四ヶ所、ところどころに細く編んで、赤や青の小さなガラス玉を通してある。
変わった髪型だなと花登は思った。
そしてその女性は頭から、スラリととがる三角の黒い耳を生やしている。鼻先は短く細かい所も少し違うが、顔立ちは全体的にオオカミに似ていた。
俯いた長いまつげの下には、薄紫色をした優しい目。顔や手足はフィーゼィリタスと同じように短い毛で覆われている。ただ、彼女の体毛は白かった。
なんの獣人なのだろう。と、覚えたばかりの知識で花登は思う。怖いとは感じなかった。代わりに綺麗な人だなと、花登はただただその姿を見つめてしまう。
けれど良く見ている内に、その人の隣にはまだもう一人、誰かいることに花登は気付いた。こちらはおそらく人間だった。地面を見つめ、しゃがんでいる。赤毛に金目。十七、八歳位に見える、若い男だ。
子供の花登にも抱えられそうなくらいの大きさしかない石の前に、花と、菓子のような四角くて黄色い塊を供えている。
なんだかとても、悲しそうな顔をしていた。
……おはか?
だから口をついて、そう呟いてしまった花登だった。すると途端に彼を見ていた狼の獣人が、その横顔を花登の方に振り向けた。同時に花登と見つめ合ったことに、彼女はなぜかとても驚いた顔をする。
『――――まあ!』
それから積もる花びらの上を、滑るような動きで進んで花登のすぐ側までやってきた。
ゆったりした白と淡い黄色の衣に、引きずりそうに長い上着の裾が揺れる。それを留める青い帯は、幾何学と花の意匠が組み合わさる緻密な刺繍で埋め尽くされていた。
ドレスでも和服でもなく、刺繍と、アクセサリーに埋め尽くされたその衣装。しかしそれは、知識のない花登でも一目でみとれてしまうくらいには華やかで美しかった。
――こんにちは。あなたはどちらさまですか? ……おひめさま?
だから思わず花登は尋ねてみた。
すると彼女は花登が話しかけて来たことがよほどうれしかったらしい。まるで花が開くようにほほえみだし、言葉を返してくれた。
『ああ、まあ?! 本当に来てくださった!
ええ、ええ、光栄ですわ、偉大なるハンバニ。
……お姫さまというのは、わたくしのことでしょうか?』
――そうじゃないんですか? ふく、きれいだから。
『まあ、わたくしの衣のことですね。お気に召してくださって、嬉しいですわ』
はにかんだようにそう笑って、彼女はふと後ろを振り返る。赤毛の男の人を見ている。何か思い出しているようにも見えるその横顔は、幸せそうだった。
それから、噛み締めるように言葉を紡ぐ。
『――そうですね、『お姫さま』。
確かに、そのようなモノだったのかもしれません。ですが、今のわたくしはもう何者でもありません。しいて言うならば、ただあの人を愛しているくらい』
あ、これ知ってる。ノロケってやつだ。
すると俯いていた男が、急に立ち上がってこっちを見た気がした。
《~~~~? ~~~、~~~~?》
でも何故か口だけが動く。声は聞こえなくて、花登には何を言っているのか分からなかった。
(……そういえば?) とここに来て、辺りを見回した花登ははたりと気づく。ここは風が吹いて木が揺れても、その風の音も、木の葉の擦れる音も、なにも耳に入らないのだ。
――……彼女のこえ、以外には。
『ええ、わたくしはここにいますよ、いますから』
そして彼女は寂しそうに声を上げる。今のは、彼に返事をしたのだろう。なら花登にだけ、何も聞こえていないのかもしれない。
不思議に思っている間に、彼女はまた花登の方に頭をもどした。
『それと、そうでしたわ、申し遅れました。わたくし、シーナバーナと申します』
……しーなばーな?
『ええ、そうですよ。お会いできて光栄です』
優しくにこりと微笑まれる。同時に尻に生えたふさふさのしっぽが、引きちぎれそうなくらいぶんぶんと振られていることに花登は気付いた。彼女が犬と同じ感情表現をする生き物だとするのなら、本当に嬉しいのかもしれない。
『それにしても……ああ、ついに念願が叶いました。貴女さまのことを、ずっとお待ちしていましたから。
……円環の河の流れを伝って、わたくしに行き着いてくださったのかしら? 近いもの同士、ひかれ合ったのでしょうね。
本当にようこそ。ようこそ、この世界に生まれてくださいました、わたくしたちのハンバニ』
やはりとても喜んでいるようだった。
けれど、
――――ちかいもの? はんばに、って……?
花登には分からない。それにさも当然のように、シーナバーナというらしいこの人は花登をその名で呼んでくる。しかし花登自身は、その呼ばれ方には全く聞きおぼえがないのだ。
人違いをされているのかもしれない、と花登は思った。言ったらきっと気まずくなってしまうだろう。けれど、でも、言わないでいるほうがもっと気持ち悪い。花登はおずおずと声をあげることにした。
……あの、ごめんなさい、しーなばーなさん。あたし、はんばにっていうなまえじゃ、ないんです。あたしは、はなと っていいます。
『いいえ、あなたさまはハンバニです……』
けれど彼女はそう言って譲らなかった。どういう意味なのだろう。
しかし次の瞬間には、シーナバーナは花登をじっと見つめて――――それからはたと何かに気付いたように、薄紫の瞳を丸くした。
『……ハンバニさま、急なご無礼をいたします』
真剣な表情で眉を寄せ、そっと伸ばした柔らかい手のひらで花登にひたりと触れる。そしてじっと花登の内を見透かすように見つめたあと、『ああ、そうだったのですね、道理で……』と、なにかの確信をもって目を細めた。




