39.邂逅、変貌、変容④ ~板挟みの客人~
読了目安 3~5分
そうして少し熱に浮かされたような、焦点の合わない笑顔で穏やかに返された。
(う、だ、ダメだ通じないかも?! い、イチヘイくーん!!)
ここにきて初めてニカナグは、『フィーは狂人である』と彼が言っていた意味を彼女なりに理解する。こんなに話が通じない瞬間もあるのか。
それにしても彼女の、あの男に対して於く、この絶対の信頼は羨ましくすらある。
カナイナは心の中で、この狂人を御しきっているように見える唯一の存在を思い出してみた。が、それが何の役に立つだろう。この場に彼はいないのだ。
本当は、この場ではおそらく一番の年長であるカナイナが連れてきた面倒を引き受け、いのいちに矢面に立ちに行ってくれた。
巻き込んでしまった責任があるのだ。ゆえにニカナグはもう少し引き止めて話を聞きたかったが、
「んえ、じゃあ行くねボク! ハナトちゃんのこと、まもってあげてね! ここにいて! 鍵はかけちゃダメだよぅ?!」
「あっ?!」
足早に駆け出したフィーは、風のように去ってしまった。なぜか二階の階段を駆け上がって行く足音がする。
「え、ええ……」
取り残される。仕方なく、フィーが言い残していった通りに閉じた書斎の扉には近付かず、鍵もかけずに遠巻きにする。
あまりの情報の足りなさに、フィーから話を聞いている間にニカナグは《魔法族の眼》をそっと解放していた。食い入るように視ていたその魔法式からも目を反らす。
……この扉、確実になにかしらの、強力な魔法を帯びてはいる。
ただ、相変わらず式の文字は読めない。
気になる。
どんな……どんな魔法だろう。
「っ、はっ?」
けれど次の瞬間にはニカナグもすぐ我に返るのだ。
自らの質を微妙な思いで見つめる。
……こんな非常時にでも、こんなことに喜びを覚えてしまうなんて。
そうしてそんなことを思いながら、自分の左側にある寝台に、そこに横たわる子供に目を向けている。
(一度、別れたのに……。またこうして再会してしまうとは、思いもしなかったな……)
正直この場では、目覚めないハナトと二人きりにさせられているという事実が、皮肉にもニカナグの奔放な好奇心を理性で繋ぐ錨になってくれている。彼女は《魔法族の眼》を発動させたまま、改めてすぐ傍らに眠るハナトを視た。
静かに胸を上下させて、まだ眠っている。触れれば熱も高い。それを目にして感じるニカナグは、やはりなんとも言えない罪悪感に苛まれる。
この少女の声が出ないことを、ニカナグはまだフィーやイチヘイから聞かされていない。だからニカナグも、知っているのに言い出せないままでいた。
なんとなれば、ハナトは呪いにかかっている。
この世界で人間が使える力には幾つか種類がある。ひとつはニカナグも使う、青い魔力を帯びる"魔法"。
あとは濃い緑を帯びた力を使う、"呪い"など。
そして目前の少女は、その呪いの類いで、魂をがんじがらめに縛られていた。恐らくは強力な『声封じ』の部類の呪いだ。
(本当に、これは酷い……)
ニカナグにいわせれば、魂は本来白いものだ。真珠のようにほんのり虹色を帯びながら〈円環の河〉とつながり、持ち主の肉体と共にそこにある。
しかし恐らくこの呪いは、ハナトが胞果熱にかかる前――――つまり円環の河の流れがこの子の内側に流れ出す前に、何者かの悪意によってかけられたモノのようだ。
つまり〈河の力〉と通じた彼女の魂が、本来備える魔力の器としての大きさなど一切考慮していない。こちらに来て間もない、ゆえに器としても完全には膨らみきれない、未発達な彼女の魂をきつく縛り上げている。
ニカナグには、まだ未熟で柔らかいハナトの魂を覆って締め上げる、その、緑の荊のような呪いがずっと目にできていた。
彼女に触れたまま、また思わずニカナグの眉の間には渋い皺が寄る。
「――――こんなものを枷にされていたら、きっと一言だって話せはしないはずだよ……」
いくら奴隷として扱われていたとはいえ、誰が、何のためにこんな非道なことを子供にできるのか、ニカナグには想像もつかない。
……けれどその全ての事実は、やはりニカナグの正体を明かさなければあの二人に語ることもできない。ニカナグは自らの願いのために、この先も二人の前では『カナイナ先生』で在り続けなければならないのだ。
「ごめん……。ごめんよ、〈稀人〉の子……」
――――しかしそれは本当に唐突であった。
素性を隠す逃亡中の罪人がそれ以上、自らの感傷に浸る余裕は、
「――――え?」
次の一瞬には呆気なく失われていた。ドクリ、と、ニカナグの心臓が嫌な感じに跳ね上がる。
ニカナグはそこでふと、花登の異変に気付いてしまったのだ。
「……え、ハナトくん?」
思わずその小さな身体を乱暴に抱き上げ、耳を押し当てて胸の音を聴いていた。口元にも頬を寄せる。それでも信じられず、確認するように頬を、肩を叩く。
「――――ハナトくん!? ねえ! ……ハナトくんっ!?!」
眠っていた時のまま、くたり、とやはり力なく揺れる細い首。半開きの小さな口。
「ど……どうしよう……――――」
体温もやはり、ちゃんとある。でも。
「――――どうしよう……。息もしてるのに……?! なんで? 心音もあるのに!」
焦燥にかられた声が唇の隙からこぼれる。
「魂……、魂の器がない。なんで? どうして?
……どこにいったって、いうんだ? ちょっと……!!」
ずっと、眠る彼女の魂を眺めていたニカナグだった。だからその瞬間も目にしてしまった。本当に唐突に、まるで水に沈む石のように、とぷりと落ちて見失った。
――――花登の魂は、消失したのだ。
本来ならきっと『死んだ』という言葉が一番似つかわしいのだろう。しかし、違う、死者ではない、息はある。しかも、本来なら消えてしまってもおかしくないのに身体もまだここにある、でも、魂が――――。
訳が分からない。それでもひとつだけ、はっきりと困惑することはある。
(こ、このまま目覚めなかったら、私はどうしたらいい……?)
うつむいて、花登の開かない目蓋を見つめるニカナグ。
フィーに対して『ちゃんと治るよ』と約束した、あの言葉すら嘘になったら、今度こそニカナグは最低限の誠実さすら失う。しかし、そもそもこの事を、ニカナグはどうあの二人に話せば良い?
(また、ワタシは黙っているのか? なにを『正しさ』にすればいい……??)
――しかしそのうち閉ざした扉の向こう、おそらくは玄関の外からガツン、ドカン、と扉に何かを打ち付けるような派手な音が響き始める。
ニカナグははたと音のするほうに首を向けた。
出入り口が、破られはじめている。
(――イチヘイくんは、大丈夫だろうか……?)
大丈夫だろうとわかっていても、やはり荒事に場馴れしない彼女には恐怖でしかない。あたかも脱け殻と化してしまったハナトの身体を抱きながら、ニカナグは呆然と固まることしか出来なかった。




