3.狂人うさぎは幼女をうちの子にしたい② ~鏡写し~
読了目安→5~8分
ゆえにここに居るはずもなかったし、実際いまも背後には何の気配もない。相棒のあの有りさまをお師匠に相談したかったイチヘイとしては、やや困った事態ではある。それでも連絡がつかない以上はここで待つしかないのだ。
そうしてこの家にはこのような、二人がここで育って大きくなったままの魔法の痕跡があちこちに残されていた。────ただ魔法がこうして話しかけてくると言うことは、この魔法をかけた張本人もいまだ健在でいるのは確かではある。
いないのは困るが、イチヘイも心配自体はあまりしていない。向こうもいい大人なのだ、もうしばらくすればひょっこり帰ってくるだろうと、彼は思っていた。
「あ゛ー、クソ……」
それよりも、久しぶりにこの罠に引っ掛かってしまったことに彼は小さく舌打ちする。
本心ではノックをするのもバカらしいが、言いつけられてきたとおりに彼は部屋のドアを叩いてから開いた。従わなければ、しっぺ返しにタチの悪いイタズラ魔法を食らうからだ。アレには二度と引っ掛かりたくない。
「フィーいるか?」
……しかしやはり、誰の姿もなかった。
開けた部屋の中には薬臭いようなインク臭いような、独特の香りが満ちていた。室内はしんと冷たく、他の部屋と違って一風変わった道具や容器、謎の生き物の標本、それに積み上がった本と紙切れが雑然と部屋を埋めている。
壁際の一角にはシーツも掛け布団もぐちゃぐちゃなままの大きなベッド。
掃除をすると嫌がられるため、来てから半月は経つがこの部屋だけはずっとそのままだった。部屋の隅の地下室の扉も、取っ手に鎖が巻かれたままきちんと施錠されている。
動くものの痕跡や気配はどこにもない。
静かに扉を閉じた。
「おーい、フィーーー?」
ついで外に出て、森の木漏れ日が照らす家の回りを一週してみたが、どうやら本当にあの相棒は家の敷地からは出ていってしまったようだった。
「森か……? それとも丘の下の村に降りたのか?」
横髪を触りながら考える。ただどちらにしても、その気になれば底無しの体力で野を駆け回れるあの相棒をこの広い山野から見つけ出すなど、面倒きわまりない作業である。
イチヘイはしばしまた頭を触った後、本当に仕方なくといった体でこの家の、行方不明の主の力を借りることにした。
(あまりいい気分ではないがな……)
しかし背に腹は変えられない。モタモタしているとスープも冷めてしまう。
パンパン、と二回手を打ち、彼は昔教えられた詠唱を思い出しながら口にした。
〈木偶出ずれ、此処に出ずれ
我が呼ぶとき、此処に出ずれ〉
するとそれは一瞬で現れた。
すわり、と流れてきた風にそのまま色がついたような、何もないところからの登場の仕方だった。
右眉から鼻っ柱にかけて、古い斜めの刀傷。
黒い短髪に暗く赤い瞳。
二十歳前後の若い男だ。
それが着ている、ゆったりした袖巾のシャツは七分丈で芥子色だった。前合わせは左前の二本の紐で留めてある。裾や襟に当たる部分の縁は、小さな焔のモチーフを白糸で刺繍した、黒い帯布で縢られていた。
また、下は裾絞りのゆったりした黒いパンツをはき、赤茶色をした革のショートブーツには、甲の部分にイチヘイが気に入って買った矢羽根のような模様が彫り込まれている。
……つまりそこに立っているのは、鏡写しにした彼そのものであった。鏡写しであるがゆえ、魔除けのピアスの赤い房も、左ではなく右耳で揺れている。
これは元々、彼のお師匠がよく二人の戦闘の特訓向けに使ってきた魔法だった。
イチヘイとフィーのお師匠は魔法の技術に秀でていたが、どうやったらそうなるのか、武の方面でも弟子をとれる程度の才覚を持ちあわせていた。
大した魔法を使えない二人は、魔法というよりは主に武術の方面でお師匠を『師』と呼んできたのである。
しかし、これはいつの事だったか。二人の師匠は何を思ったのか、彼やフィーでもこの戦闘向けの人形を喚び出して、簡単な命令くらいになら応える、範囲指定かつ設置型の魔法に改造してしまったのだ。
その結果が、いま彼の前に立つこれだった。
「わたくしはここに。
……お久しぶりでございますイチヘイさま。ご用はなんでしょうか」
発する声まで同じクセに、抑揚のない口調、イチヘイ自身は絶対口にしない慇懃なセリフで話しかけられる。
思わず唇を一文字にして閉口するイチヘイ。
お師匠としては、『役には立つが森の外でまで使うな、人前に出さなければ使えないような頼り方まではするな』という意味で、召喚者と同じ姿になるようにしたらしい。詳しく聞かされていないが、本来ならば魔法を使って実在する、或いはしていた人物の容を真似て動かすのは、師曰く多くの国でも違法であるらしいのだ。
だからこその、この仕様。まあ、それでも弟子に使わせるのを受認するのだから罪といっても軽犯罪程度ではあろうとイチヘイは認識している。
……まあ、とはいえ気に入ってもいない自分の顔が動いて話すのを目の前で見させられるのは、彼自身にはあまり気分の良いものではなかった。
なにせイチヘイの目付きは、悪すぎる。
全体の顔のバランス自体は整っているのに、全てのパーツが『鋭い』『こわい』と形容するのがぴったりな方向性を演出している。
顔の傷と相まって人を脅す時には便利だが、ちょっとガラの悪い通りを歩くと知らないチンピラに絡まれるのもしょっちゅうだった。
(真顔のはずなんだが……相変わらずケンカ腰な顔だよな……?)
そうやって腰に手の甲を当てて見据える本人は、印象の強いひし形の大きなつり目を細め、鏡写しのソレよりよほどガラの悪い顔付きをする。
そうやって再確認させられた事実に不機嫌そうに眉間に皺を寄せつつも、イチヘイはやっとその魔法実体、『鏡写し』に声をかけた。
「……フィーゼィリタス・アビをさがしている。どこにいる?」
するとこれは、『――こちらです』……と、普段ならそんなことを言って勝手に歩きだす筈だった。
しかしそのときの『彼』は違った。無表情な顔で目だけをギョロリと見開くと、急に穏やかでないことを言い始めるのだ。
「フィーゼィリタスさまは現在、主さまのお屋敷から直線距離にして八百メートル程度の位置で、妖獣らしきものと交戦中です。ご案内いたしますのでお急ぎください」
「は?」
ついで、いつもより足早に踵を返して歩きだす鏡写し。森の方へ向かっている。
もとが戦闘訓練用の魔法である、戦闘機能は抜いてしまったらしいが、人に対する追跡や索敵・探知機能はそのままであるのだ。
「っ、おい! いや、ちょっとまてまてまてまて、止まれ」
とたん畑の畝のそばで、イチヘイの声に応えてピタリと動きを止める鏡写しの脚。
「――何でごさいましょう? 急がれた方がよいと思いますが」
(……こいつ、こんなに喋るんだな?)
あまり使ったことがないため知らなかった。いや、それよりもだ。
イチヘイは飲み込めない事情を整理するためにも手短に問う。
「まて、妖獣? この辺には妖獣なんざ〈虚棲ミ〉しか出ないはずだろ。そんなに慌てるほどのものじゃない。あんなの、この辺の子供でも簡単に倒すじゃねーか」
「いいえ、わたくしには気配しか探知できませんが、断言いたします、あれは決して〈虚棲ミ〉などではありません。別の何かです」
一瞬返す言葉をなくす。しかし確かに師匠の魔法はでたらめなものばかりだが、エラーを吐いたことはない。彼の眉間に、危機感のこもった皺が寄る。
イチヘイは急いで家の中まで取って返すと、二階の自室に置いてあった荒い布地と革の上着を羽織った。防具を兼ねる特注品だ。久々に締めた剣帯に自らが得物として使う長剣と短刀も挿した。
ついで少し躊躇いながらも廊下を挟んで向かいの相棒の部屋にも押し入り、そこに立て掛けてあったフィーの短槍も掴む。
この槍を、相棒が握らなくなって久しい。持っていっていいものか解らず逡巡してしまう心もあったが、しかし無いよりはマシに違いないと強く握りなおした。
そのまま乱暴に、部屋の窓を開ける。窓枠を踏み越え、身体で風を切りながら再び鏡写しの目前へと、ダイナミックに着地を決めた。階段を降りる時間すら惜しかったのだ。
「行くぞ!」
すると相変わらず無表情の鏡写しが、わずかに首をかしげて急に口を開いた。顔と同じに抑揚のない調子である。
「……畑の畝、崩しましたね? 主が見たら嘆かれますよ」
そんなの今はどうでもいい。
「急いでんだ、さっさと連れてけ」
「……かしこまりました」
それ以上の反論はなかった。
再び動きだしたふたつの人影はそのまま庭を越え、石垣についた低い扉を足早にくぐる。家の周囲に広がるせまい草地を抜ければ、その先はもう森だった。
鏡写しの後ろを駆け足で進みながら、自分自身も久し振りに身に付けた仕事上の『正装』に忌まわしい思いを向けてしまう。
最近は朝の鍛練に独りで愛剣を振るう間も、身体を鍛える間も……、傭兵として生きてきたイチヘイは、ずっと似たようなことを考えてしまうのだ。
すなわち、もう戦いからは身を引いて、大人しく畑でもして暮らした方が相棒のためには良いのではないか、と。
それに皮肉にもこれまでの仕事で、彼はそれができるだけの金も稼いできてしまった。剣など、もう手にしなくても、平穏に暮らせば良いのではないか。
(……それかもう、俺ひとり師匠にアイツを預けてここ出て行くか……)
ざらり。
――いいや、やめよう。いまは急いでいるのだ、こんな所で考えたとて、すぐに出る答えではない。
彼は小さく首を振る。そうして気を取り直すように悪態をついた。
「――くそ、何で独りで出てったりしたんだ、アイツは……!」
本格的に駆け出すと、鏡写しもまた応じて足を早める。
そのままその背に誘導され、イチヘイはエナタルの森の奥の方へと踏み込んでいった。




