狂人うさぎは幼女をうちの子にしたい③
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エナタル山脈の森は深遠で、妖獣も多く棲みつく危ない土地だ。けれどあまり奥まで行かない森の入り口近くならば、普通の森とさして変わらない。
だから毛皮を纏う獣人種の彼女も、呑気に鼻歌を鳴らしながらひとりで森を歩いていた。
土と落ち葉の小路である。近隣の村人たちが薪採りなどに使って踏みかためた、木々と茂みを縫う小路である。
この地方の夏のはじめは、朝も昼もまだ涼しい。
朝日が差し込む森の匂いは爽やかで、昨日の雨が洗い落とした初夏の緑は輝いていた。木々の梢の方からは、鳴き交わす鳥たちの声が幾重にも響いてくる。
薄く滑らかな毛皮に覆われた彼女の指先には、さっき道端でつんだ、深い赤色の花束が揺れていた。
次の秋が来ればいよいよ二十歳になる彼女は、その花束を両手の振りに合わせてブンブンと揺らしながら、まるで子供のように振る舞う。
ふんふーん、と、柔らかくもはっきりと通る鼻歌が、木々の葉擦れや鳥の声と交じりあう。
そうやってスキップして歩くと、しなやかに跳ねるのは花の茎だけではなかった。長くて太い立派な耳と、着ている青と緑の、男物の民族衣の裾も一緒にぴょんぴょんと揺れる。耳に幾つも着けた、赤い房飾りと銀の鎖のピアスもゆらゆら動く。首もとには魔法の石がいくつか編み込まれた、『お守り』のチョーカーも着けていた。
どうして彼女がこんなに楽しそうなのかと言えば────、大きな理由など特にはなかった。強いて言えば、すぐそばにそびえるエナタルの峻険な山並みが、彼女のふるさとの景色だったからかもしれない。
フィーの生まれた村はまだずいぶん山の上にあるが、何しろ数年ぶりの帰郷だった。
だから今は森の緑とそびえる山々が懐かしくて、獣爪と肉球の足で踏みしめる、濡れた地面の感触が気持ちよくて、彼女はニコニコ笑っている。
フィーはこのエナタル山脈の周辺地域にも多く住む、耳長族という獣人種のひとりである。
背丈は人族の娘の平均とさして変わらない。
夕日の黄金に僅かにミルクを溶かしたような、鮮やかだが優しい色合いの毛並みをしている。種族衣に空いた尻尾通しの穴からは、猫のような長い尾が伸びている。尾はそこだけ大地の色をしてふさふさと長い。円らな二つのどんぐり眼は翡翠色だった。
さらに数歩スキップを続け、跳ねた拍子にくるりと回って踊るフィー。長い上着の裾がひらめく。
――――と、そこで彼女は唐突に声を出して歌い始めた。いよいよ楽しくなってきてしまったようだった。
お花を摘みましょ 可愛や 可愛♪
花びら愛でましょ 愛しや 愛し♪
マロ蜂 潜れど 実らぬままの♪
あだばな 愛しや わたしのものよ♪
それでも 愛しや わたしのものよ♪
年寄りが歌いそうな古い唄ではあるが、声自体は高音の伸びがきれいでよく通る。
ただそれは、『わたーしぃのーものよぉーー』と最後の歌詞を歌いきった瞬間だった。
がさり。
「んえ? なあに?!」
フィーは唐突にピタリと歩くのをやめた。
急に緊張した面持ちになり、長い耳がグリグリと動いて周囲を探りだす。どこかすぐ近くで、下生えの茂みが揺れるような音がしたのだ。
……おかしい。確かに聞こえたのに、今はしない。
フィーは控えめな口を閉じ、はたりと斜めに小首をかしげる。
「妖獣? 人間?」
そっと辺りを見回すも、やはり武器になりそうな枝などはない。一応たくさん転がってはいるが、大きすぎるか細すぎるか、どう見ても腐っているかだ。
(に、人間なら村の人だから多分大丈夫。でももし妖獣でも、この辺りに出るのはなんか……ちょっと狂暴な、もふもふしたちっさいやつだもんね)
妖獣は好き好んで人を襲う。ただ小さいほどに見た目は普通の獣との境が曖昧になる。ちなみにこの森の入り口付近に出るのは、昔から〈虚棲ミ〉という種名の、猫くらいの大きさをした妖獣一種類しかいない。
でも人を襲ってくる限りは、倒せるものは全て倒せと彼女は教わって大きくなった。
(あ、でも、〈虚棲ミ〉ならもし出遭っちゃっても、さいあく蹴り殺せるからいっか? すごい弱いし……)
フィーは思った。妖獣に対してはなかなか野性的である。
そこでまたがさり、と音がした。
バッと振り向く。
歩いてきた方向にある腰の高さほどの低木が、小刻みに動いたことに彼女は気付いた。
白い小花が咲き匂う茂みが密集する辺り。揺れていたのは、その真ん中の方だった。
尻尾も耳もピンと立つ。眉根にしわを寄せながら近付きだすフィー。けれどその長い耳が、
「うー……」
と人の呻くような音を茂みの奥から拾ってしまうと、彼女の口からは驚いたような声が漏れた。
「んえ、こどもの声……?」
耳先まで張りつめていた緊張が一気にほどける。聞こえたのはたった一音だけだったが、確かに掠れて苦しそうな声音だった。
フィーは一瞬で警戒を解き、慌てた様子で茂みに歩み寄っていった。
「だぁれ? 大丈夫? どこの子?」
ここは二千メートル級の山々が連なるエナタル山脈の西の端、標高百メートルほどの山の裾野にあたる。
森の切れ間からはなだらかな丘陵地帯に沿って畑と牧草地があり、その間をはしって湖へと降る街道ぞいには、少し大きめの村があった。
ゆえに森の入り口は、村の子供たちにとっても格好の遊び場である。フィーも子供の頃は良くこのへんでトゥダールウサギを狩ったり、ベリーを摘んだりして遊んでいた。育て親とも言うべき魔法使いの家がすぐそばにあるからだ。
だからこの声ももしかしたら――――いや、もしかしなくても、下の村の子であろう。怪我でもして動けなくなっていたら大変だ。
中ほどまで分け入ると、彼女の瞳はすぐに茂みの隙間へ人族の足らしきものを見つける。無数の白い花と緑の葉を纏う大枝を、フィーは掴んで持ち上げた。
白花から漂う、甘く爽やかな香り。
……しかしその匂いの中でフィーが目にしたのは、大人の獣人向けの大きな上着をただ一枚だけ身につけた、幼い人族の子供だった。
十歳くらいだろうか。
「んえ!」
いろんな違和感と驚きが混ざって、フィーの耳はピンと跳ねる。
なにせおおかたの獣人種には尻尾があるため、着る服は合わせが後ろにある。尻の部分へ尻尾を通す大きめの穴を開けるためだ。人族の女児に着せるようなものではない。
それに着ているこの半袖の上着自体もまるで雑巾の一歩手前といった風情である。後ろ合わせの留め紐すらぼろぼろに解れており、今にも引きちぎれそうだった。布はたしかに貴重品だが、これはさすがにひどい。
その上、本来ならば女の子が他に身につけるべき服一揃えだって、彼女は何も身に付けていない。
背中まで伸びるこの子の髪も、前髪だけが異様に短く切り揃えられている。
さらに細い足首に巻かれているのは、鉄の足枷。それからそこに繋がる太めの鎖。
上げだしたらキリがないくらい、この子は『変』だった。
数秒、まじまじと見つめてしまう。
……けれどフィーも、この格好と髪型の意味するところはうっすらとでも記憶に残っていた。
『奴隷』、だ。きっと。
頭髪が生える種族のうち、短すぎる女性の前髪は虜の身の証である。本当にそうなら身体のどこかに印がある。
そして奴隷はそのほとんどが、戦場で捕らえられた捕虜がなるものだった。
――――……あの戦場でフィーがたくさん殺して、たとえ虜としてでも、誰ひとり生かしておくことが許されなかったひとたちが、なるものだった――――。
「――――あ……」
それに気付いた刹那、笑顔が張り付いていたフィーの面からはきれいに色が抜け落ちる。そこにただひとつ残った表情は、彼女が確かに抱えている傷、なのだった。