36.邂逅(かいこう)、変貌(へんぼう)、変容(へんよう)① ~相棒の為を思って~
―~*✣*✣*~―
「カナイナ先生、行っちゃうねえ」
「そうだな」
畑の向こうの裏門をくぐる、フードを羽織った小柄な背中。歩き去るその背が、カーブする道に沿ってだんだん木々の隙間に埋もれていくのを、イチヘイは眺めていた。
師に用がある下の村の者ならごくたまに訪れるが、思えばこの家にイチヘイたちから人を招いたのはほぼ初めてだった。
――……それにしても。
(――クソ、知らなかった。『鏡写し』がそこまでヤバい危険物だなんて初耳だったんだが……)
思い出して横髪を混ぜる。
それは金を渡す際、『この口止め料には鏡写しの分も入っているという認識で良いのかい?』と問いかけてきたあの医者に詳細を聞かされて、初めて知ったことだった。
イチヘイも、アレが違法なのは知っていた。しかし『捕まったときの刑罰が正当な理由のない殺人と同等』などという重めの代物なことまでは、師には聞かされていなかった。
(……だから『違法だから人前で使うな』だったのかよ! もうちょい詳しく言っといてくれ師匠……)
イチヘイの師はけっして寡黙な人間ではないのだが、大事なところでは時々言葉が足りない。知っていればやらなかったし、もし協定がなければ、それこそあの客人があの庭の境界線を跨ぐことは二度となかったかもしれない。
しかめっ面と共に吐き捨てるように漏れる、浅いため息一つ。
……本当に勘弁してくれ。
「…~~~~!!」
「んえ……」「あ゛……?」
しかしその時風にのって、どこからか野太い男の叫び声が聞こえてくる。何かを言葉にしている。
近隣に家はない森の中、その声が響くだけで充分不穏だったが、直後カナイナの悲鳴までが聞こえてくると、まずはフィーの表情が一気に険しくなる。
イチヘイは、急に鼻の間にシワを寄せだしたその横顔に問いかけた。
「……今の男の声、何て言ってたか聞こえたか?」
「あのねっ、逃げた怪しい捕まえろ~って! カナイナ先生、追いかけられてるよ!」
「は?」
パッと彼を見上げてフィーが言う。しかしそれは一体どういう状況なのか、イチヘイも困惑してしまう。
だがそのあとすぐ、カナイナが実際にせっぱ詰まった表情で去った小径を駆け戻ってくる。さらにその後ろ、木々の隙間からちらちらと彼女に迫ってくる、どうやら獣人らしい姿形の男二人。
(……あ゛?? ホントに追われてるのか??)
イチヘイもその異様さに面差しの鋭さが増す。
「ボク、ちょっと行っ」「待て待て待て」
そうして無策のまま今にも駆け出して行きそうな相棒の腕を掴み、短い言葉で確認をとる。
「フィー」
「んん、なに!」
「カナイナ先生のこと助けたいのか?」
「んええ? そんなの、決まってるよう?!」
「――そうだよな、お前ならそう言うよな……」
呟きながらも、彼はいまだ確かめるように相棒の瞳を覗き込んでいる。こんなことを訊くのは、やはりこれがとても大切なことだからだ。
あの日から自分の短槍を握らなくなった彼の相棒。
しかし一方では〈虚棲ミ〉に対しては、先ほどのフィーは花登を背後に回して漲る殺る気を見せていた。
「アイツら……あの後ろの奴らともおまえは戦えるのか?」
「――ん! やる! できるよう!?!」
訊ねる言葉に相棒はなんの揺るぎもなく頷いて、やはりふんす! と鼻息荒く返してくる。長い耳が得意げに天を向く。
「……だって、それに、イチヘイの言うこと、何でもきくのよぅ、ボク!」
「……まだ、その話覚えてたのか」
さすがに呆れて返す彼。同時にざらりと、また胸の底を良く判らない感情が撫でていく。
思い出す。《耳長族の神への聖宣》は、イチヘイの聞く限りでもかなり強固な魔法契約のはずだった。なのに、その割にはフィーにはあれからいつものように色々わがままも言われたし、イチヘイの願いや話しなど聞いていないこともあった。
けれど鏡に映る自身の顔を確かめれば、確かにイチヘイの右こめかみにもフィーの三日月と合わさって対になる、欠け闇の紋がある。よく観察すれば植物のような細やかな模様と文字で埋め尽くされた、二つで一つの満月となるそのかたち。
これが〈聖宣〉の証なのだとしたら、それでも確実に契約は成されているのだろう。だがここまでのフィーの振る舞いを見るにどこまでが有効で、どこまで拘束力のあるものなのか、正直イチヘイには解らなくなっていた。
――――『イチ、ボクね、イチになら本当に何されてもいいんだ……。なんでも言うこと聞かせて? イチが望むなら、今ここで殺されて毛皮の敷物にされてもいいから……』
――――俺がよろこぶから礼として拾う? トルタンダのやつを救える? 本気で思ってんのか? だから無理やり誓った、と言いたいのか……?
『――――そう……だよ?』
――――『それでも、もしイチヘイが嫌なら、もうボクのこと殺して欲しい……』
思い出しても、あまりに勝手をされたあの瞬間。
『やるのか』と聞いておきながら本当に大丈夫なのかと、イチヘイは狂人の相棒を見つめてしまう。また願いを聞いて、振り回されるのではないか。
けれど確かに、戦う気があるのはいいことだった。疑心とともに、相棒の復調の兆しに期待する気持ちを抱く自分がいることも、イチヘイは否めなかった。
……複雑な想いを孕む、その沈黙。その表情を写しとる鏡のように、フィーの顔までもがだんだん不安そうになる。
「んえ、どうしたのイチ……」
「――――う、うわあああぁぁぁ! 助けてフィーくん、イチヘイくーーーん!!!」
しかしその間にも危うい感じの全速力で、カナイナがこちらに駆けてくるのも事実だった。アレを助けたいと言うならば、今はこれ以上論じる時間はない。
それに、このどこか壊れた相棒のためにイチヘイがしてやれることは結局、『受け入れること』しかないのだ……少なくとも彼はそう、思っているから。
「……ならフィーは、まずはあっちじゃなくて先に家に戻れ。俺の剣を回収してきてくれ、リビングの壁に立て掛けてある。おまえの槍も一緒に置いたよな? いいな? あとは――――」
正直、まさかここで敵襲があるなどとは思いもしない。イチヘイもフィーも、武器は家の中にあるのだ。どちらかが一度戻る必要はある。
ゆえに作戦の主導権を握りつつ、今回はイチヘイが比較的危険な外に残ることにする。
「……あいあい!」
だから彼は、フィーに他にもいくつか頼みごとをした。それらの要求をすんなり飲み込み、彼の相棒はやる気十分な返事と共に駆け去っていく。
イチヘイはしっぽを靡かせて走り出すフィーの背を見送りながら、自身がとるべき最良の行動を考えた。




