35.賢しい客人を森に埋めるかどうかについて⑦ ~閉塞~
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「カナイナ先生、ありがとうーーー!」
旅荷の重さと二人分の視線を背中に感じ、裏庭の畑の脇を去っていく。よく肥えた土と〈青頭禽〉の小屋からたち臭う鳥小屋臭さが片田舎の長閑さをニカナグに印象づける。
結局のところあの二人は、最初、自分があんなに怯えていたのが恥ずかしくなる位には善い人たちだった。……ニカナグは勝手にそう考えを改めている。
「……まさかイチヘイくんまでもが〈稀人〉だとは思わなかった………故郷まで同じだと言っていたし……。
ただ同胞を、助けたいと思っていただけなのかもしれないな、彼も……」
そうやって彼女がポツリと呟いたのは、二人に見送られて家の裏門を一歩出た所だった。道を訊いた所、こちらから行くのが下の村までは近道だというのだ。
振り向けば古ぼけた一階バルコニーのすぐ脇で、二人がまだニカナグを見送っている。
「ばいばーーい!! またね!!」
仏頂面で棒立ちするイチヘイの横で、顔を向けたニカナグに気づいたフィーがまたニコニコと手を振りはじめる。またね、なんてある筈もないのに、無邪気なものだ。
フィーは気狂いなのだとイチヘイは言っていたが、彼女は年の割には異様に素直で言動が幼いほかは、ニカナグの目には明るくて天真爛漫な耳長族の女性に映っていた。
確かに話せば時々突拍子もないことをするし、目付きがギラついて妖しい瞬間もあるが害意はない。物事を類推できるだけの知性はある。根はとても良い子だとニカナグは感じていた。
それを見守るイチヘイも、顔つきや態度はそっけなくてかなり怖かったが(本当に怖かったが)、結局は『良い人』だったのかもしれない。
でなければ虐待痕とおぼしきハナトの傷に頼まれてもいない手当てを始めたニカナグに対して、なにか口を挟んできたり、『解熱剤だけ寄越したのだからさっさと帰れ』と言い出してもおかしくなかった。
彼が『犯人』であるならあり得た。
それを止めなかったと言うことは、ニカナグをこの家に呼んだことも含め、彼も〈稀人〉の彼女を傷付けるのではない、救う立場の人間だったのかもしれなかった。
(……もう二度と会いはしないのだから、確かめる手段はないのだけれど)
――――しかしそれに比べて、自分はどうなのだろう。
ふと、そんな考えがニカナグの頭をよぎる。
思わず爪先まで視線が下がる。
だってニカナグが、『ハナトが〈稀人〉と気付いた理由』として、二人に話したあの説明。
あれは、自身の能力なしでも矛盾なくそれらしく説明がつくよう御託を並べてはみたものの、結局のところは本当にただ単に『視た』だけだった。
でも確かに、視た上でもハナトが胞果熱にかかっていることは嘘ではなかった。
なにせ今も寝室に寝かされているあの子の魂には、この瞬間に『河の力』が充填され続けている。
白く柔らかく閉じた魂の外殻を、今まさに膨らませようと流れ込む銀の河。香木のような、甘い匂いがする。
その様子はニカナグが子供時代に、胞果熱にかかった親戚の赤ん坊を興味本位で視つめた時とまさしく同じ状態、同じ症状だった。
赤子でない人間に、通常はあり得ないであろう。それでも実際に目の前で起こっていたあの現象に最も『あり得る』と頷ける説明は、やはりあの奴隷の子が〈稀人〉かもしれないという可能性だけだった。
だから『視える』ことを隠したくて嘘をついたのに、隠しきれなくて白状することになった。
その上で、彼らを『〈稀人〉は奴隷にしてはいけないと法で決まっている』などと、昔に聞き齧っただけの不確かな情報で脅した。……国にいた頃は学者・研究者として食べてきたくせに、あれが一番恥ずべき行いだった。
そうしてあまつさえ、『自分は嘘を吐いているから自分を信じてくれ』――――だなんて。
「…………うぅ……」
気付けば歩く早さを緩めながら後ろ暗さに口元を覆っていた。
……それでも結局、そのめちゃくちゃな要求は通ってしまった。さっき別れ際には、『口止め料もかねる』として治療のお礼まで弾まれてしまったのだ。
路銀がやや心許なかったため、嘘を重ねて得た報酬だと罪悪感を感じつつも断りきれなかった。
その額、なんと都合十五エラ。ちょっとした大金である。
ニカナグは、受け取ったばかりのエラ金貨を忍ばせた懐に触れる。
これだけあれば、安宿なら食事付きで一月はイケるだろう。麦の値が安いニカナグの故郷であれば、一家族で一日かけて一つ食べきる『大パン』を、一年分ぐらいは買えるかもしれない。
――「……ばいばーーい!!」
耳を澄ませばまだ聞こえる、しかし確実に遠くなる声。
その声に、彼女は逃げるように足また足を速めてしまう。
(――……いい人たち、だったんだろうな、きっと……)
ニカナグなどとは違って。
……一瞬、彼女自身の良心の上澄みまでもが『本当にこれでよかったのかい?』などと問いかけてくる。
……しかしそんなのは、ニカナグだってちゃんと弁えている筈だった。これはニカナグ自身が、ニカナグの背負ったものを護るために彼らとの間に引いた一線だ。これ以上深く関わることはしないしできない。
そのためにあの二人に、ニカナグは最初から名前も身分も偽ったのだ。なにより能力のことを知られたくないがゆえに、ハナトを視て解ったことも、『協定』を笠にきて隠した。
言えたのはハナトの倒れた理由が胞果熱だということだけ。そしてそれは、ハナトについてニカナグが知ってしまった三つのうちの一つでしかない。
一つはハナトの魔力量について。
魂の素質を視るに、ハナトの魔法使いとしての素養は充分。二人には隠したが、あれは多分、明日の今頃には目覚めるだろう。
そして最後、もう一つは彼女の喉の、『呪い』のこと――――。
そうやって全部口をつぐんだその上で、ニカナグは『ハナトちゃんのこと、助けてくれてありがとうカナイナ先生』などと感謝されて食事までご馳走になり、『協定』の関係にあるというのにこんなに、良くして貰ってしまったのだ。
(不思議、だ……)
ふとニカナグは、森の梢の先、青空にたなびくちぎれ雲を見上げてしまう。
(……輓獣車のなかでは、助けてしまえばもう『あの時こうすればよかった』などと後悔せずに済むと思った、のにな……?)
結局のところ、子供を助けて残ったのは清々しさではなく、後味の悪い罪悪感だけだった。
しかし、もう戻るだけの理由はない。
――――まさか、正体を明かす?
そんな勇気だって、ニカナグには持てない。
だから一度速めてしまった足を緩める気には、とてもなれなかった。遠くなる声に振り向くことすらできない。その資格もないと思った。
元から猫背の背中をさらに丸めて、とぼとぼと歩く。そのまま二人に道を教えてもらった、下の村を目指そうとした。
……しかしその時である。百メートルほど先で群生する、背のたかい灌木の茂みががさがと揺れ動いた。風に揺れるのとは明らかに違うその動きに、ニカナグは思わず立ち止まって身構える。
「……うん? 妖獣……?」
いや違った。目をこらした次の瞬間、茂みの向こうから出きたのは得体の知れぬ六人の男たちだった。
人族が二人、耳長族が二人に、縞尾族と、固い鱗に被われトカゲのような見た目をする龍凛族がそれぞれ一人ずつ。
次から次に森の小路へ出てくるが、――いずれも武装している。
そしてそのものものしい雰囲気を纏う彼らは、ニカナグの存在に気づくなり一斉に、立ち尽くしていた彼女の方へ胡乱な視線を向けてきた。そこそこ離れていてもわかる、ニカナグの存在を警戒するようなギラついて硬い表情。
そうしてその中でも一番奥に立つ、右耳に欠けのある耳長族の視線には何かニカナグを値踏みするようなものがあり、
(あ、コレ……)
理屈ではなく、直感的にヤバい人間の群れだと彼女は思った。この森にだけ出ると聞いた、小さい妖獣の方が絶対にマシだっただろう。
一歩、二歩と下がったニカナグの足は、気付けばとりあえず踵を返して元来た道を駆け出している。
「――――おい、逃げたぞ怪しい、捕まえろ! ――――行け、眇目、縞!」
『アイサ!!!』
指示を出したのは欠け耳。次いで爆速で後ろから迫ってくるその気配。
追って来るのは耳の欠けていない方、片目の潰れた耳長族と、それから茶色みがかった体色の、耳のとがった虎のような姿をした縞尾族――――こちらは輓獣車の御者よりいくばくも大柄だが、あの彼女と同じ種族だ。
どちらも、獣人種の中では俊足の部類に入る。
「ひ、ひええええ?!?! 逃げない方がよかった?!?」
対するニカナグの脚は決して速くはない。それでも訳も判らず追ってこられれば、体は勝手に全力の逃げに入る。
この時点で彼女はもう、二度と戻らないと思ったばかりの場所に全速力で駆け戻るしか、選択肢を持てなくなってしまっていた。




