18.言葉の通じぬ獣たち② ~『怖かった』~
読了目安→4~7分
花登はさっき彼女のようなうさぎっぽい生き物が、耳長族という種族なのだと知った。しかし同時に胸に押し付けられてしまったこの焼印のように、花登の心には耳長族に対するトラウマが植え付けられてしまっていた。
ただ花登も、頭ではフィーゼィリタスが自分に酷いことをしてきた奴らと違う個体なのは分かっている。ずっとニコニコしていて、明るくて、それにずっと優しくしてくれる。
本当の痛いことは何もされていないけど、――――でも、森の中では追いかけられたし、羽交い絞めにされたのだ。
かと思えば一方では、妖獣と呼ばれるらしいあのでかくて怖い人食いの生き物からも、イチヘイと共に花登を命がけで守ってくれたりもした。
……でも急に支えもなしに背中におんぶさせられて、妖獣に突進しに行ったときは、もうダメだと思ったりもした。
……正直やることがめちゃくちゃだから、まだ本当に信用していいのか、花登には良くわからない。
――ならば一方の、フィーの隣に座るこのイチヘイはどうなのかと言えば、彼もまた、花登にはわからない理由で彼女に対して冷たい。
花登は出逢ったときからずっと、彼が多分、自分のことは嫌いなのだろうと思っている。今だって、イチヘイはずっと難しくて怖い顔で花登を見つめている。
でもこの家に足を踏み入れた瞬間、急に言葉が分かるようになって花登が驚いたときには、彼はフィーと一緒に、『ここは魔法使いの家だから』と理由を説明してくれた。
この家にやって来る前から、イチヘイとだけ言葉が通じていた理由も、(見たことのない赤い目をしているからそう見えなかったけど)自分が花登と同じ国の生まれであるからだと教えてくれた。
難しい顔をして睨んでくるくせに、花登の質問に答えることは渋らない。話している内に時折はしゃぎすぎて暴走を始めるフィーに花登が怯えれば、彼は嫌そうな顔をしながらも止めに入りに来る。
それからここは、やはり花登が生まれて暮らしてきた場所とは違う世界なこと。
花登を襲った〈虚棲ミ〉をはじめとする妖獣のこと。
人間(この世界では『人族』と呼ぶらしい)だけではなく、いろんな種族が住んでいること。
この世界には変わった力の流れがあり、そのせいで魔法が存在することなども教えてくれた。
花登はさっき、実際にこの二人が行使するのを見た、血と、剣と、とてもきれいだけど不可解な現象をちらりと思い出す。
(あれ、が、魔法なんだ……)
だから彼女もそろそろなにもかも、今の現状が本当に自分の身に起きたことなのだと、飲み込むしかなくなってしまっていた。
受け入れなければならない現実と一緒に、込み上げる気持ちの悪さをどうにかお腹のそこへ押し込める。
(…………全部夢じゃないって言うなら、やっぱりあたしはちゃんと良い子にしてなければ、ここを追い出されてしまうよね……?)
だからやっぱり、食べたものを吐くなんて絶対にダメだった。笑っていなければダメだとも思っていた。
フィーゼィリタスとは、怖くても仲良くできるように頑張らないといけない。イチヘイには、嫌われていても好きになってもらえるよう努力しないといけない。
……そうしないと、花登はやっと逃げてこれたこの場所にも、自分の居場所が与えられないような気がしていた。
だって二人とも、花登を拾ってはくれたが、ここにいて良いと言ってはくれたが、本当の家族とは違うのだ。
「……おい、本当にどうした……?」
「ハナトちゃん……?」
『なんでも』
『ないです』
ぼんやりしてしまっていた。
慌てて書く。黒いインクの、湿って重苦しい匂いが辺りを包む。
『まだ子供』だと大人には言われるが、花登だってもうすぐ十一歳だ。さすがに空気くらい読めるし、自分の立場だって弁える。
今はどうみても、花登が『話す』番だった。
先述のように、花登は捕まって目が覚めたあのあとから、なぜか一切の発声が出来ない。
昨日の夜くらいからようやく、少しだけなら声が漏れるようになっていたが――、それだって言葉になるのはせいぜい一言か二言が限界だ。それ以上は誰かに喉を搾られでもするかのように息ができず、むせてしまって声にできない。
(叫び声や泣き声なら、いくらでも出せるのに……)
そんななかで、何があったか教えてほしいとフィーにせがまれたのである。
だが、声で伝えるにはあまりに長い花登の身に起こった話を――――正確には書き綴っていく字を分かってくれるのは、その場においては彼女と同じ言語を理解できる、目付きの悪いこの男だけだった。
だから花登の字が読めるイチヘイも、ここまでずっと怖い顔で花登に付き合ってくれているのだ。
ならば花登もまた、お願いされて、いまの自分に応えられることならば、せめてやり切らなければいけない気がした。
(えっと、押さえつけ、られて……、それから片目の耳長族に……)
だめだ。気持ち悪い。書こうとして手が震える。また止まる。
けれどまだ思い出す。思い出せる。どうにか書いた。
『片目の耳長族が、あたしのお腹に、』
でも。書かなければ。
教えてほしいと言われたから、伝えなければ。
そうないと、ここに居る資格が。
(……。……けど、でも、ほんとに、こんなことまで、書かなきゃなの、かな……)
(かけ!)(いやだ)
(かかなきゃダメだ!)(でも……)
花登の心が二つに割れて、喧嘩を始める。ひどい顔をしていた。
――――「んええ……もういいよぅ……」
しかしそこにおずおずと上がったフィーの言葉は、花登の中の静かな争いを黙らせるのには十分だった。面を上げる。
「――――ハナトちゃん、こわかった、よねぇ? 大変だったねぇ……」
「…………。え……?」
それは一度染み込むと、一瞬で波紋のように彼女の心に広がっていった。
途端に抑えていたはずのいろんな感情と記憶が、嵐の海のように胸の中で暴れだしている。
気付けばその海の主である花登自身でさえも揉みくちゃにされ、訳が分からなくなっていた。
……ただ、そんな中でも、フィーのその言葉一つだけはストンと心に落ちて、彼女には理解できていた。
そうだ、『怖かった』……。
(そうか私、……怖かったんだ……――――)
だって、この世界に飛ばされてから本当に誰とも言葉が通じなかった。優しくなんて誰もしてくれなかった。
自分がここに居る理由もわからなくて、ここがどこなのかすらも分からなくて、花登はずっとずっと怖かったのだ。
それでも、呼吸だけはしなければならなかった。目の前で起こることだけを乗り越えるのに必死だった。怖いと思う暇すらなく、おかげでどうにか泣くことを忘れていたのだ。
――――それがやっと、あの理不尽な場所から離れて、起きたことが現実なのだと理解し、さらにほんの少しでも後ろを振り返るような余裕を持てたのは――――……花登にとっては今、この瞬間が初めてだった。
「――――っ、うっ、うぇ゛っ…………」
ぽたりぽたりと、まだ乾ききらないインクの上へ落ちた透明な汁が、黒い文字を滲ませていく。
気づいたら、目からも鼻からもべしょべしょに水が溢れ出し、止まらなくなっていた。
「は? おい……?」
ここまで彼女が書き出す言葉を、フィーのために読み上げていたイチヘイだった。
鋭い目付きの視線が、ギョッとした表情で彼女の顔をみつめる。
「ふぇ?! 泣いちゃった、ねえ……」
フィーもまた驚いた顔で両耳を彼女のほうに向けた。頬杖の上から顔を上げ、サッと立ち上がりだす。
しかしその動きに、花登はさらに焦ってしまうのだ。
(――――ないてちゃ、だめなのにっ、……まだ、たたかわ、なきゃ、おうちに帰れるまで……)
もはや花登の心は、静止の寸前に軸がぶれて揺らぐ独楽の如くのたうっていた。胸の中にうねる心細さと不安と恐怖をどうおさめればいいのか、彼女にはもう分からない。涙も止まらない。
「うっ、ええええええっ…………」
大人は、子どもに優しくしてくれる。
やめてとお願いすれば、やめてくれる。
礼儀正しくしたり誰かに優しくした分は、ちゃんと自分に返ってくる。
花登の家族や周りにいたのは、ずっとそんな人たちばかりだったから。だから世界とはそんなものだと信じて、彼女はこれまでの十年と十一ヶ月を生きてきていた、のに。
「ママぁ……パばッ……っ、げほっ、……うっ、ううふぇえっ、うぁぁぁあああん!」
もう小さい子ではないのに、気づいたらそんな言葉さえ口にしてしまっていた。大好きな母と父の顔を思い出したら、もうダメだった。
「ひっ、えっ、うわあああぁぁ!!」
もはや何か書くどころではない。嗚咽は止めどなく喉からせりあがり、あふれでる涙の海に溺れそうになる。
そこへ太い麻呂眉をハの字に下げながら、フィーがおずおずと近づいてくる。
この狂人うさぎは、さっきは花登にあんな乱暴をはたらいてきたくせに、今その側に座り直し語りかける口ぶりは、あまりに優しいものだった。




