15.世話係はそれを阻止したい⑥ ~どこにもいけない~
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雪の夜、二つの月。
『――――ボクはもう、ただの人殺し……――――』
思い起こされる嫌な記憶に、イチヘイは思わず息を呑んだ。
一方では、震えて、それでも俯いて話す控えめな口が、ふと自身が何をしたかったのか、訥々と語り始める。
「……イチ、あのね、ボクどうしてもあの子がほしかったんだ……。
あの子は奴隷で、でもイチヘイとふるさとも同じだし、いつもイチにはお世話になってるし。……そのさ、イチの同郷の子だから、仲間にしたら、イチも喜ぶかなっておもって…………、この子を助けられたら、ボクがこの子を救うことにもなるし、トルタンダの人たちの代わりにも救えるって思って、ボク……それでね―――――」
――――トルタンダ。
フィーの口から唐突に滑り出したその単語に、イチヘイの中を回っていた怒りは一瞬にして動きを止めた。
彼女のその表情からも、イチヘイは嫌でもあの二つの月と雪の……トルタンダの山の夜のことを思い出してしまう。
何より、フィーが口にするその矛盾にあふれた動機。イチヘイの口元が、半笑いの形に歪む。それが誰に向ける笑みなのか自分でも判然としないまま、彼は尋ね返していた。
「……このガキを仲間にしたら、俺がよろこぶから礼として拾う? トルタンダとは何の関係もないこのガキを助ければ、トルタンダのやつを救える? ……本気で――――本気で思ってんのか? だから無理やり誓った、と言いたいのか……?」
「そう……だよ?」
さも当たり前であるように、小首をかしげられる。
(――――破綻、してる……)
こんな、繋がらない点と点を無理やり括ってひとまとめにしたような理屈、このまま怒りに任せて理詰めにすれば、いくらでも切り刻めるだろう。そして――…………それが可能だからこそ、病んだ恩人に添うイチヘイにはそんな酷薄なこと、できるはずもなかった。
おかげでイチヘイは我にかえってしまう。無力さが胸に溢れた。浮かべた笑みが、相棒をここまで壊した己に向けた嘲りであると、気付かないまま彼はまた口許を歪める。
だとしても、イチヘイにも解っていることはある。
(なん、なんだよ…………。結局、『良いぞ』と頷いてやる以外、俺がコイツに、してやれることなんてはじめっから何も無かったんじゃねえか…………)
あの雪と月の夜だって、イチヘイはそうだった。それからの夜もずっとそうだった。戸惑いながらも頷くしか、あるいは傍観することしか、不器用な彼はしてこなかったし、それしかできなかった。
そして今も、どんなに前と同じに話しているように見えても、相棒はイチヘイのせいで大きな傷を抱えているのだと――――そして、そんな相棒のために彼ができることは『受け入れること』しかないのだと――――イチヘイは思い知らされている。
「それ、で、ね……」
そこに追い討ちをかけるように、フィーは言うのだ。
「それでも、もしイチヘイが嫌なら、もうボクのこと殺して欲しい……」
静かでも熱のある、狂気じみた声だった。
囁くように、あるいは絞り出すように乞うてくる。
俯いたままのフィーの手がのびてきて、彼の黒い縁篝のシャツにすがり付く。臆せずにまっすぐと伸びて彼に正面を向ける長い耳は、この相棒に もはや罪悪感も怯えの色もないことを教えてくれる。
「おねがい、だよ……」
本気で言っている、のだろう。
「――――……なん、で……」
そんなこと、できる訳ない。
イチヘイは困惑した。同時によく分からない感覚がまた胸をざらりと染めていく。
やはり相棒の心は、まだまともには程遠いのだろうか。
――ただ、一つだけ確かなこともある。それは例えこの少女と関わることをイチヘイが吐くほど嫌悪したとしても、もう彼はフィーのため(あるいは二人の命のため)に、腹を括るしかないということだった。
彼はすぐそばにあるフィーの耳の間へと眼差しを落とし、奥歯を噛みながら沈黙する。
「……わかった」
ややあって、ようやくポツリと言い放った。彼女の耳だけがピクリと震えた。うつむいたままでイチヘイの話を注意深く聞いている。
そのままどちらも黙り込んだ数秒の沈黙のあと、顔を上げたフィーの表情は、なぜか少し希望を孕んでいた。
「……殺して、くれるの……?」
「っ、ちげーよ、なんでそっちに行くんだ馬鹿。…………いいか? 俺はお前の命なんか要らない。『そこまで言うならこのガキを仲間にしていい。お前の願いを聞いてやる』って言ったんだ。……わかったな?」
突きつけた指先を見つめるフィーの双眸が、狂気を帯びながらもふわりと喜びに見開かれる。
イチヘイはそこまでを押さえきれないため息と共に言い置いて、それからふと、自分でも本当に驚くほど珍しく、喉の奥から本心を漏れさせていた。
「―――――……いいか、だから、頼むから、こんなこと二度とすんなよフィーゼィリタス……」
ずっと視界の中央にあった耳の間を、戒めをこめて軽く叩いておく。狂人に通じるか解らないが、解ってくれていると信じたい。
「ふぺっ」
ペしりと脳天に優しい衝撃を受けたフィーは、変な鳴き声を上げた。
(……こんなこと、二度目があってたまるかっつー話なんだが……)
それでも兄弟のように育った大事な相棒だった。
フィーが自分から血を流しに行ったとき、本当に口から心臓が飛び出るほど彼は驚き、焦ったのだ。
「い、イチぃいーー…………!」
するとやっとフィーが、明るい笑顔を見せた。ずびずびと鼻を啜りながらふたたび抱きついてくる。けれどその時にはもう、すっかり態度は幼いものに戻ってしまっていた。
「ありがとー、イチー! 好きぃ! やっぱり……やっぱりボクのイチはイチだけだよう……このまま一生一緒がいいなぁ―? いっそさ、けっこんしよー?」
「……。へーへー……、俺は人間がいいからな。獣人は勘弁だ」
「んへへえ、知ってたー!」
(ったくこっちの気も知らねえでコイツは…………)
こんなこと、言われても特に何も思わない。もう一度ぽすぽすと頭を叩いてあしらう。しかし懐かしいとは思った。
幼い頃にはよく相棒から『お師匠さまとイチヘイはボクのだいじな家族』『大切だよ』『大好きだよ』と言葉を向けられることはよくあった。
小かったフィーは呆れるくらいに愛情表現がストレートだったし、イチヘイは照れ隠しにずっとそれをあしらい続けていた。
それはいつからか言われなくなっていた言葉ではある。けれど今、あの頃のようなふるまいに時折 戻ってしまう相棒が吐くそれは、きっとあの頃と同じような想いが込められているのだとイチヘイは思っている。
だからイチヘイの鎖骨のあたりに鼻先を乗せて寄りかかるフィーの面差しまでを、彼が知ることはなかった。目にできたのは、二人を眺めているこの少女だけだった。
寄り添うイチヘイの頬と耳朶には、長く大きいフィーの耳の重みが、ぬるい冷たさを伴ってしなだれかかってくる。フィーの両耳の縁に左右非対称にぶら下がる、赤い組み紐や銀の鎖のピアスが、彼の髪に擦れてチャラチャラと鳴いた。
ざらり。ざらり。




