14.世話係はそれを阻止したい⑤ ~『意味のない贈り物』~
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「おい!? ……――おいフィー!! なにしてんだ!?!?」
優しく話す余裕など掻き消える。
この短刀の切れ味を、一番知るのは持ち主の彼自身だ。
ここでイチヘイが暴れれば、刃を遠ざけること自体は可能だ、だが無理に退いたらおそらく揉み合いになり、最悪フィーの頸を掻き切ることになる。
「――マジでなにしてんだ、フィー! っ、このっ離せ! いますぐだっ……!!!」
どうにもならない状況に叫ぶ。しかし首から垂れた赤い血が、あえなく細く刃を伝う、その刹那――――
――――カンッ!
と木の杖を突くような音。
――――シャンっ!
と幾重にも鈴がなるような音。
2つが同時に森の空気にこだまし、青と緑の読めない無数の文字列が、二人を囲んで回りはじめた。花の嵐のようだった。
……
時を同じく、二人を包んだままの聖宣の白い籠も一気に収縮をはじめる。
「~~~~~っ?!」
物理的な圧迫はなかった。代わりに、閉じゆく陣が身の内を通り抜ける瞬間、身体の芯の、最も触れられてはならない部分を書き換えられるような感覚に、言い知れぬ怖気がはしる。神に誓う神聖な儀式とは思えぬほどの、強烈な不快感だった。異様な違和感と気持ちの悪さに、知らず息も荒くなる。
しかし、どうやらそれが全てのようだった。
…………暖かい春の光、頬を撫でる柔らかい風の感触。揺れる木々が作る森の天井、湿っぽい緑と土の匂い。遠くで囀る、鳥の声。
「…………っ、はあ、はあ、はぁ……」
イチヘイが一番すぐ近くに意識を戻せば、傍ではフィーも、『ふー、ふー』と同様に息を荒げて俯いている。同じような感覚がフィーの内側にも走ったに違いなかった。
そしてふと頭を上げた相棒の顔を見つめたイチヘイは、息を飲むしかなかった。
――――フィーの右眉の端に、親指ほどの大きさをした三日月型の青白い模様が、じわりと浮かび上がってきたのだ。
(っ……!)
同時にイチヘイもまた、眉尻に現れた熱く焼けるような感覚に顔を歪める。彼の左眉の上にもまた、三日月より一回り小さい緑の円紋が、刺青のように現れていた。まるで、欠けた三日月の暗部を補うような、歪んだ楕円の形をした細かい紋様だった。
また その痛みだけで、イチヘイも、自身の顔に相棒と似たような模様が浮かび上がっていると察してしまう。
傷から薄くたれる血の赤さには確かに心配も過る。
……が、それより彼はその、自分を表面に映すくせにどこも視はしない翠の瞳を前にして、その瞳の持ち主がしでかした行いを省みて、
「――――おい、フィー」
……
そしていま、何事もなかったかのように周囲へ戻ってくる平穏を前に、イチヘイの胸の内は、ふつふつと言い知れない感情に染められている。
それが怒りだと気づいた時、イチヘイはこの世界で暮らしだしてから初めて、怒っているような気がしていた。
「……いま、何を誓った……?」
眉を吊り上げ、低い唸りで問う。
それはフィーが気を病んでから――――いやそうでなくても、親しい相棒にはほとんど聞かせる事はないドスの利いた声音だった。
その声にびくりと身を震わせたフィーは、怯えたように瞼を見開く。きっとこんなに凄まれるとは思わなかったのだ。
広がった虹彩がやっとイチヘイの静かで激しい感情を捉えると、一瞬にして毛に覆われた手が、身体が、彼と短剣から離れていく。
「イチ、ヘイ……? 怒ってるの……?」
「黙れ。なあ、俺になにを誓った?! 何でだよ、なんで、何でこんなくだらねえことの為にこんな、アホみたいなことしやがったんだ?!」
彼も頭に血が上っていた。手元に残った短刀を乱暴に鞘に収めながら、気狂いの相棒に詰め寄ってしまう。同時に怒りとは別の良くわからない感情が、またざらりと胸の裏側を撫でていく。けれどその正体について考える程の余裕を今の彼は持たない。
イチヘイには、何もかも不本意のはずだった。
与えられる対価も、課せられる責も。
フィーの耳は、怯えたようにしおしおと倒れていった。声が震えている。
「ごめ、ごめんなさいイチ……だめだよ、怒んないで」
この聖宣を行った耳長族たちは、自分たちの神と一族の名誉、流れる血と命にかけて、〈魔法〉というより〈神力〉に近い古の呪に魂を縛られる。
守護神アリゼリラスの御前に、守るべき互いの約束を 詠唱者が代表として語り、最後に詠唱者が、隣に立ち会う約束の相手の手によって血を流すことで、〈聖宣〉は決約したと見なされる。
さらには耳長族の神に願いでるせいか、耳長族であれば魔法を使えるほどの魔力がなくても簡単に発動できる。
『約束はね、なんでもいいの。
……けどさ、その約束って互いの魂をかけて誓うものだから、破ったらサクッと死ぬんだよねー。
やるのは簡単だけどさすがに気軽にはできないからさ。
だからいつもは〈誠実の誓い〉、なんだよ……?』
――――しっぽだけをクルリと足に巻く仕草と共に、かつてイチヘイにそう語っていたのは他でもない、この耳長族本人である。
「……ごめんな、さい……ゆるして……」
けれど弱々しく、何度も返ってきたそれが答えになるのだろう。
つまりフィーゼィリタスは勝手に――――この奴隷の子供を飼いたいと、そんな衝動を貫くためだけに、勝手に自身の身体を傷つけ血を流し、そして勝手に、己が身を丸ごとイチヘイの隷属としたのだ。
そこから抜け出そうとするなら、おそらくフィーは死ぬのだろう。
イチヘイは他人のことなどどうでもいい。生きようが死のうが苦しもうが、興味も関係も無いことだと思っている。
……しかしその中に、家族のようにそばに置いてきたこのフィーだけはいつも含まれない。
さらにはフィーを『好きにできる』という要らぬ対価の代償として、イチヘイにも、この逃亡奴隷――――『人でない』ちいさな同胞を仲間にする責が生じてしまった。
間違いなく蛇の道を歩むことになるこんな不穏な存在を、二人はこの先も手元に置き続けなければならないのだ。
もし受け入れないと拒否するのなら、今度はおそらくイチヘイが死ぬことになるのだろう。
その上(どのような条件で発動するのかが不確実なため確定ではないが)フィーが『そばにおきたい』と口走ってしまった以上、例えばこの二人を引き離した結果、聖宣がフィーにどのような判定を下すかも怪しい。
思わずイチヘイは、二人の表情から何事かとこちらを伺っている少女の顔を見てしまう。彼女は今も二人の傍らで、起こったことになす術なく手をこまねいていた。
「…………なん、なんだ……」
フィーがどのような思いでこんな選択に走ったのかなど、イチヘイは知るよしもない。
けれど彼からすれば大事な相棒が、彼に向かって自身を人質に無理なわがままを押し通しにきた、最高に理不尽で身勝手な状況だった。腹を立てないわけがない。
しかし、気を病んでいる身内の勝手だと思うと、この激しい怒りを本気で相棒にぶつけることもまたできないのだった。
「何で、こんな……強引な……」
頭を、抱えそうになった瞬間である。
「――――ごめん、ごめんねイチ、こんなつもりじゃ、なかったんだよ。ボク、イチをそんな顔にさせるつもりじゃ、なかったのに…………」
聞こえた声に、イチヘイがはたと視線を寄せた先で、フィーは――――、
「っ?!」
フィーは、いまにも泣きそうな顔で、壊れそうな笑みを浮かべていた。その瞳の奥に彼が垣間見るものはあの、壊れたガラス細工のような悼ましさだった。




