11.世話係はそれを阻止したい② ~慰められて、困らせられて~
読了目安→4~6分
――――ダンッッ!!
木漏れ日のさす、初夏のエナタルの森のなか。
もはや大人の手となったイチヘイの一撃で、一抱えもあるそばの立ち木はみしりと音を立てて揺れた。
太い眉をしかめて、奥歯を噛む。
碌な思い出ではない。そのクセわずかに蘇ったと思ったら、芋づる式に全部フラッシュバックしそうになっていた。
「っ痛……」
硬い幹を殴り付けた拳から伝う痛みで、始まってしまった記憶の回想をどうにかぶち切ったイチヘイだった。
「イチ!?」
ゆえに、イチヘイに向かって動くな、見るな、と膨れっ面をしていたフィーも、彼のその突然の行動には驚いた声を上げる。
フィーの背後では、少女もまた頑なな顔のまま、彼のその様子を探るように見つめていた。
あわあわと駆け寄ってきたフィーだった。
「んええ……びっくりしたのよぅ……」
しかし、イチヘイの背後まできてふと口を開くと、その面持ちと声は何かが切り替わったかのように急に神妙なものになる。
「……ねえ、この子の体のキズ見て、もしかして前のこと思い出しちゃったのよぅ……? イチヘイ?」
「っ!?」
唐突な問いだった。思わず息を呑む。
確かにフィーは、イチヘイの過去についても知ってはいる。けれどいまの子供のような思考の彼女に、そんな高等なレベルでの気が回せるとは、イチヘイは思っていなかった。
故に一瞬、答えを返すのを忘れる程度には彼は驚いている。そこへ加えて問われる。
「……ねえ、だいじょうぶ……?」「……っ、大丈夫だ」
とてもそうは見えないのに、イチヘイは反射的にそう答えてしまう。すると唐突に、彼の頭の上には肉球のついた、暖かな手のひらが添えられた。
「よしよし……」
そうして静かで優しい声と共に、背後から頭を撫でられる。相棒が柔らかく微笑んでいるのが、表情のみえないイチヘイにも声でわかる。
「……だいじょうぶだよぅー、イチ? こわくないよ? ボク、一緒にいるよぅ……」
「………………」
不思議だった。こんな風によくフィーから触られるようになったのは、思えばこの相棒が少しおかしくなってしまった後からのことだった。
イチヘイは、この相棒とは実の家族より長い時間 一緒にいたが、ベタベタと触れあうようなことはあまりなかった。それでもずっと友で、きょうだいで、家族で、この生き物がこの世界で言うところの『人族』でないとしても確固たる信頼で命を預け合える、不思議な関係だった。
だからこそ、あの雪と月の夜以降の出来事はイチヘイにとっては後悔と衝撃しかなかった――――そして、だからこそ、あれからいつも気にかけて、フィーの状態が少しでも良くなるようにと このエナタルの森の端に帰ってきたのだ。
しかし気を病んでしまったはずの当のフィーに、イチヘイはいま、『もうどうでもいい』として振り切ったはずの、記憶の底に埋めた過去の『傷』を心配されている。そして慰められている。
……なにも語ってはいないのに、だ。
イチヘイの知る限り、この耳長族の相棒は昔からこうだった。
他人の考えを読むのが上手いのか、それとも単に付き合いの長さゆえか、ときどき針の先へ糸を通すような細やかさでこちらの気持ちを汲んでくる。
優しい相棒のこの敏さだけは、どんな風に狂ってしまっても変わることはないのだとイチヘイはこの瞬間に思い知らされる。
複雑な気分だった。
ただそうされると、落ち着くのも確かなのだった。彼は思わず、眉間に皺を寄せて考えてしまう。
「よしよし、だいじょうぶよぅ……」
ずっと背中を預け合ってきた。それだけ信頼しあってきた。このように彼が断りなく後ろから触れられて落ち着いていられるのも、これが相棒だからだ。
(……やはり俺は罪滅ぼしのためにも、コイツの世話もしながら平穏に暮らしていくべきか……。面倒なことには巻き込ませずに)
背後から撫でてくる手のひらの感触を意識すればするほど、イチヘイの中ではそんな考えが固まっていく。
(フィーの願いも、できる範囲でなら叶えてやりたいところだが……)
イチヘイはうつむいて動かない。一方、彼の思いなど知るよしもなく、その背後ではいつの間にかぼんやりと焦点の合わなくなってしまった翡翠の瞳が、イチヘイを見つめている。
その顔に浮かぶのは、自由を奪われ鞭打たれてもなお主人に心酔し続ける虜が見せるような、まさしく狂人のような微笑みだった。
そして三歩ほど離れた横から、フィーから借りた上着と腰紐で応急的に身体を隠した少女だけが、それぞれの表情をじっと観察していた。
そんな中ゆっくりと振り返り、イチヘイはとても冷静な口調で長い耳の相棒を見上げる。
「フィー、聞いてくれ」
「ん、なあに?」
しかしイチヘイが振り向きだした瞬間から、フィーの表情はくるりと切り替わる。くりっとした目でまっすぐ彼を見て、小首をかしげている。
(――――この、先の『平穏』を思うなら、やはりまずこれだけはフィーにも言い置いておくべきだな……)
「――――このガキを、俺たちの家に置くことはできない」
「んえ……」
なんとなれば理由は色々ある。それでもとにかくその理由もならべ、きっぱり断ろうとした。しかし。
「――――イヤだもん!!」
斜めだった耳をまっすぐに跳ね上げながら、フィーがさっそく反目しだす。
「なんでそんないじわる言うのよぅ? だって、この子さ、〈稀人〉なんでしょ? ボクさっき聞いたもん、イチヘイ、この子にボクの知らない言葉で話しかけてたよ!! ……さっきのって〈ニホンゴ〉語、だよねえ!??
『〈稀人〉は迎えよ』なのに、何でなのイチ……!」
……イチヘイの片目の端がピクリ、と痙攣した。
(────しまった、な…………)
そうだ、思えば聞かれていた。ならばどう言いくるめればいいのだろうか。
イチヘイが迷うあいだに、しかしフィーの顔はもうクルリとちいさな黒髪の子へ向けられている。僅かのあいだ迷ったように目をおよがせたあと、
「えっと、えっと……《コニチワァ》、だよ?」
そんな単語を無邪気な笑顔と共にたどたどしく口にのぼらせてくる。
それは本当に昔、まだ二人が子供だった頃、イチヘイが遊びでこの相棒に教えた故郷の言葉だった。
イチヘイは、もう帰ろうとも思わない遠い遥かな地、『日本』。
正直、教えた記憶はイチヘイさえおぼろげである。しかし狂人となってもフィーはたしかにその言葉を覚えていたし、少女はその言葉に明らかな反応を見せて、
《な……ん、でっ……っ、げほげほっ!》
しゃがれた声を、言葉にしきれずやはり咳き込んだ。
それが逃れようのない全部の決定打だった。
「……ほら、ね? お返事してくれたようイチ……?」
狂人うさぎが、嬉しそうな笑顔と共にこちらを振り向く。
────ここは、《円環の河》が理を統べる地、〈ルマジア〉である。
イチヘイがむかし生を享けた地とは、言葉や価値観はおろか、時空すら異にする世界である。
異界に流され、もう人生の半分以上をこの地で生きてきた傭兵は、ここに来て死ぬほど面倒な拾い物をしてしまったかもしれないと、渋い顔で耳の上の短髪を掴んだ。




