108.それが二人のためになるのなら① -萌芽-
読了目安 4~6分
裏庭の畑に朝靄がかかる。
大気は冷たくも湿っていて、汗で冷えた身体の温度を無理に奪わない、優しい肌触りをしていた。
ソルスガの元を訪ねる日まで、今日を抜いてあと七日だ。
朝の鍛練を終えたイチヘイは、一息ついて井戸水に濡れた髪を拭く。次に家禽小屋に入っていつものように青頭巾の採卵をはじめた。
《ケッケギョーギョルー!》《《ギョーギョルーー!!》》
しかし、鳥臭さ。舞い散る羽根。賑やかな朝の雰囲気。それら全部を置き去りにし、イチヘイの心は昨夜、フィーの部屋の前に留まってしまったことについて考えを巡らせている。
目の前に踊った花登の文字列についても思い出す。
――『しんぱいなの、変じゃないよ』
――『大事なら、ほっといてちゃ、家ぞくじゃないよ』
……昨夜のあの瞬間、イチヘイは初めてフィーの意に反した。
(これで、良かったのか……?)
いや、良かったと思いたい。返事はなかったとしても、ここに居る、とだけは伝えられた。それに情けないがあんな花登と対話して、固まった心はイチヘイの中に確かにあった。
気にかけることは、おかしいことではない。
――『イチ兄、フィーゼと仲良しだよね? 付き合ってるんだよね? フィーゼのこと好きだよね……?』
ただ、一方でその問いの答えは……――やはりよく分からない。
そもそもイチヘイは、自身にとってのフィーがなんなのか、考えたことなどなかった。
なにしろ半年分ほどの記憶があやふやになったと思ったら、気付いたらもう、師と彼女の隣にいたのだ。既にその時には、それを普通だと思っていた。その後もニ、三年ほど続いた、時折記憶の途切れる瞬間の後にも、二人は本人以上に、彼へ心配の眼差しを向けていた。
……いや、そういう意味では家族だし、特に一緒に育ったフィーは、替えがきかない無二の相棒なのだろう。
だからやはり一つだけ言えるのは、イチヘイはフィーが大事だということだけなのだろう。
と、その時だった。
「イチー! おはよー!!!」
「うおぅ……!?」
突然かかった元気すぎる声には、さすがに驚いてしまう。振り向けば半開きにした小屋の隙間から、長い杏子色の耳がにょっきり伸びていた。
「んへへイチぃ! びっくりしたのよぅ?」
「…………。フィーかよ、驚かせんな」
そこには、昨日の昼から今朝がたまであった全てのことを全部忘れたかのように笑っている、彼の相棒がいた。半月の瞳がいたずらっぽく、戸の輪郭の向こうからニヨニヨと細まっている。
これが、いつもと同じ二人の朝。トルタンダからエナタルの森に帰ってきて以降、フィーはずっとこうだ。
だがその表情を目にしながら、笑みに似て細まる彼の、瞳の奥にある思いは常に複雑だった。特に昨日、あんなことがあった後でさえこんな笑顔を浮かべるのでは。
衝動的に、思わず口を開いていた。
「なあ、フィー……」
「んう? なーに?」
――どうしていつもお前、朝になるとそうやって笑ってるんだ?
――俺が部屋の前にいたこと、どう思ってたんだ?
――なんで何も言わない?
――昨日のことは、忘れてしまったのか?
――昨日の蝶の壁飾りの、何がダメだったんだ?
――……なあ、お前をトルタンダに連れ出して、お前をこんな風にしてしまって、本当にすまない。
こんなこと、言おうと口をパクつかせることすら彼には初めてのことだ。けれど結局、多すぎる言葉はぜんぶ喉に詰まって出てくることはなかった。
「……いや、なにも」
「んええ……?」
へにゃり、と笑いながら「へんなのー」と彼女は焦げ茶色の尻尾を揺らす。それからふと、パッと思い付いたように彼を見て、小屋の中に滑り込んでくる。
「そうだ、ねーイチぃ、玉子全部とったら、いつもお散歩行くよねー? 全部終わったのよぅ?」
「ん? 嗚呼……、今採ったこれで最後だが」
「――じゃあお散歩、ついてってもいーい?」
「は、」
イチヘイは瞬きひとつ分の刹那、息を忘れた。
――『フィーが、イチヘイの朝の日課に付き合う』
それは二人が森の家に帰ってきて以来、本当に初めてのことだった。ただこれは以前は彼一人のものではなく、フィーと二人でしてきた習慣なのも確かだった。
突然のことに、身動ぎながら答える。
「……いい、ぞ?」
「んええ、やったぁー! じゃあボク、玉子置いてくるのよぅ―!」
言ってフィーは嬉しそうに耳を立て、イチヘイの手から卵の入った籐かごを奪いに来る。……そのほんの一瞬に、手の甲と指が触れ合った。
「っ!」
「すぐ戻るねぇ」と無邪気に笑い、焦げ茶のしっぽは翻る。小屋を出ていくその動きを目で追いながら、イチヘイは汗と井戸水で冷えた自身の手の表面へ、判押しのように残されていった指先の暖かさに戸惑っていた。
その瞬間、彼の脳裏には、昨晩も確かにあったフィーからの拒絶がよぎっている。
あの時、イチヘイは去らないと決めながらも、さっき彼女に問おうとしたこと全てについて、随分悩んだ。泣いて、笑って、歌う彼女に罪悪感といたましさを覚えていた。
しかし今朝になれば、また『一緒に散歩に行こう』と言う。今もこうして、気軽に触れてくる。
イチヘイは家禽小屋に鍵をかけた。食卓のある部屋へとスキップして消える、男物の種族衣を着た背中を見つめる。
フィーのことは大事だ。
ゆえに、余計にわからなくなる。
「……何が良くて、何がダメだったんだ……?」
いつも悩む、答えの得られない問い。触れられた暖かさを手のひらで包みながら、顔をしかめる。
ただ、その刹那だった。
今日に限って、まるで風が耳を撫でていくように、ふわりと胸の奥から囁いてくる何かがある。
――おまえには〈聖宣〉があるんじゃないのか?
「っ!?」
イチヘイは思わず鳩尾を……時折ざらりとなにかが舐めて行くそこを強く掴んだ。
――花登を連れて帰ると聞かなかったあの時、フィーは確かに聖宣で、「何でも言うことをきく」と言ったじゃないか。
――そして兆嘴商会との戦いで、実際に『命令』に従わせられたじゃないか。
――ならあの時、お前は無理やりにでも命令してドアを開けさせれば良かったのではないか? 泣きわめくフィーをこの腕に閉じ込めてしまえば良かった。そうではないのか? なぜ泣くのか、答えさせればよかったんじゃないか?
そうすれば、お前自身も安心できたし、フィーだって――。
(――――は??)
しかし次の一瞬にはイチヘイはハッと目を見開き、今、風のように過って行った自身の思考に戦慄していた。
「いやいやまてまて、何を考えてる……!」
本当に何を考えている。フィーの心を無視して、力ずくで従わせようだなどと。
それはこれまでも、イチヘイが彼女に接する態度の中で、最も嫌ってきた思考のはずだった。
僅かに感じたはずのその心地よささえ認識する前に、イチヘイは歩きだした一歩目で、嫌悪と共にその考えを踏み潰している。
恐らくは夜通し起きて、少し疲れていたせいに違いない。ほんの一時の、気の迷いだ。
彼は逃げるように駆け出す。
篭をおいて勝手口から出て来たフィーの隣に立つと、そのまま二人、薄い朝靄の立つ森の中へと踏み出していった。




