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107.断章:それでも、わらっている。

読了目安 6~8分

 ――フィーは別に、狂ってなんかいない。


 フィーが目覚めると、空を巡って月が二つ、部屋の窓からこちらを見ていた。それはフィーがどこに逃げても、トルタンダのあの夜と同じ月明かりだった。

 

 ――白い雪。赤い血。思い出す。思い出す。


 フィーは、罪もない人をたくさん殺した。

 あの日、あの夜も、フィーの家族や同胞(なかま)達にも、なにも罪はなかった。


 だから殺していたものが敵ではなかったのかもしれないと思い至ったあの瞬間――――、彼の体温に縋り付いて、ずっと塞いで隠してきた傷が蘇り、フィーはあの妖魔たちが殺したように、今は自分がこの人達を殺しているのだと、気付いてしまった。


 それは聞こえる悲鳴と断末魔の中で、過去の自分の心をもう一度殺しているようだった。

 それからは、何もかもが耐え難かったのだ。


 こちらを見つめる天上の青と白の瞳に、押さえきれない恐怖を喚び起こされてフィーは震えだす。


 ……だけどフィーは彼に、助けてなんて言えない。言えるわけがない。恐い。


 だから、久しぶりに扉の向こうからかかった優しい声も、フィーは『あっちに言って』と突き放した。行かないでと思いながら突き放した。


 ――そこまでは、よかったのだ。


 けれどもう一度階段を上がってくる気配がフィーの部屋を(おとな)ったあと、彼女の『相棒』は、扉の前から離れなくなってしまった。


 もう一度『あっちにいって』と怒っても、もう去ってくれない。


 こわい。


 前と違う。


 こわい。


 困惑しながらも、ずるずると扉の内側に背中を預けてしまう。それはあるいは、扉ごしには伝わる筈もない温もりに追い縋っているのかもしれない。


 膝を抱える。


 イチヘイが贈ってくれた、綺麗な箱に目を落とす。


(まだお師匠さまと住んでたちっちゃかった頃には、記憶を失くす日の前に贈り物をしてくれたこともあったっけ……)


 それは時に花だったり、木の実だったり、小石だったりした。今もそっと部屋の引き出しに隠してある。


 この箱も、寝落ちてしまった間にもずっと大事に抱き締めていた。けれど目にすれば、これを彼から渡されたことにやはり涙と嗤いが止まらなくなる。


 心臓を磔にされたような気持ちだった。


 フィーはあの『終わりの日』から、ずっと側でイチヘイを()(まも)ってきた。

 『傭兵になる』と彼が言い出した時にも、側を離れたくなくて『相棒』になった。


 だから本当にイチヘイを護りたいのならば、この先も彼のそばに居るためには、フィーもきっと、()()()()()()()なのだろう。


 彼女はどこにもない寄る辺を探すように、思わず首元に手を伸ばす。先日霧散してぽっかりと残った台座の空白を指先でなぞった。


「んん、え……?」


しかしそのまま続けて、残っている石へと指を這わせたときだ――――フィーは、その異変に気付いてしまった。


「……え、そんな……、欠けた??」


 こんなの、昼間は絶対になかった。


 はやる手付きで首から外して、脇に置いたランタンの淡い光の下に晒す。


 傷がついたのはチョーカーの真正面、一番大きい青い石だった。青白い月明かりの恐怖がどうしてか、そっと遠のく。


 確かめるように指先がもう一撫でする。

 小さくて硬質な冷たさの中に、薄く剥がれたような欠けが増えていることを、そこでようやく心も理解する。


「あ…………」


確信が持てた瞬間、声が漏れた。


「……っ、ふふっ……?」


さらに一拍おいて、フィーの喉の奥からは、自分でもどんな感情なのか解らないままの心がせりあがっている。


「ふ、ふふっ、えへへへっ、あははははっ!!」


それはフィーを狂人といわしめるものがまた育って、笑い声の形をとっているのかもしれなかった。


 だってこの石にヒビが入ることに対して、最初の二つが割れた時みたいに、フィーはもう『これ以上はダメ』だとも、『進めてはいけない』とも、思えなかったから。


 フィーは、イチヘイが好きだ。


 愛してはいけないのに、愛している。


 お師匠さまは頼れるし理解もしてくれるけれど、こんなフィーの、在るべきではない心までは許してくれない。


 今のフィーは夜が怖い。二つの月が怖い。


 自身の盲目的な「愛」の為に、自分が犯したその罪と、浅ましさを思い出すからだ。


 だから夜毎苦しんでも、フィーは一番お願いを聞いて欲しいイチヘイに助けてなんて言えない。


 この瞬間も、彼は扉の向こうにいる。微かな気配が聞こえる。


 フィーはとても苦しい。


 ケラケラと笑いながら、本当は苦しい。


 ともすればふたつの月明かりに影をつくる自分の(とが)に怯えて、今だって喉首をかききって、死んでしまいたい衝動に駆られる。


 それでも、こんな夜をいつも乗り越えられるのは、全部〈半成リ〉の彼がまだ隣に居てくれるから。昔、お師匠さまと交わした約束のもと、フィーが彼をまだ人でいさせたいからに他ならない。


 それなのに弱った心でドアを開けて、「助けて」なんて言い出せば、それを最後にフィーはきっとイチヘイへの想いで(たが)が外れてしまう。


 お願い。苦しい。

 壊れてしまいそう。

 慰めてほしい。

 抱きしめてほしい。


 ――……愛してほしい。


(……でもそれをしたら、終わるんだ……)


 フィーを大事にしてくれる『相棒』は、きっと拒まない。


 削がれたままの心で――、恋情なんて理解できなくても、フィーが相棒でないなら何なのかなんて解らなくても、初めは戸惑っても、最後はきっと抱きしめてくれる。

 だってイチヘイは、優しいから。


 けれどそれはお師匠さまとの約束の、最後の壁を突き破る禁忌の行いだった。


 そして同時に、『自分の負うべき罪』を武器にして彼に愛を乞う、最も忌むべきおぞましい行為だった。


 そんなことをしたら、フィーは今度こそ自分は、その罪の重圧に耐えきれず壊れてしまうだろうと思った。


 だからフィーはいまも(まも)りたい彼の為にここに踏み留まり、その彼の為に、この心は永遠にどこへも行けはしない。


 ……箱の中の蝶が、もう羽ばたくことはないように。


 考えれば考えるほど、彼女の喉からは壊れた笑いしか出てこなかった。


 ふふ、あははははは! あははははは!


(もし……、もし、この大きい青い石も、この前の時みたいにまた霧散したら……、そのときになってやっと、ボクは後悔したりするのかなあ……)


 笑いながら、そんなことも思う。


 けれどお師匠さまの話の通りなら、この石が割れるのは何があっても本当に最後だ。


 最もあってはいけない結末の、いちばん最後の瞬間にこれは割れる。

 そうしたら。


 ……そうしたらもしかしたら本当に、フィーは大好きな彼に殺してもらえるのかもしれない。


 『決して愛してはいけない』と、魔女に警告されながら見つめた幼い日のあの幻影が、今のフィーには別の意味を持って響く。


 ……でも、それはまだまだきっと、ずっと先だ。

 だからまだ、踏み留まれるし、安心しても良い。


 だって、折れかけてささくれた心で彼に擦り寄ってみても、これまで彼の表情が大きく揺らぐことはなかった、のだから。


 あは、はははははっ! うふふふふふっ! ふふっ……。


 それでもそう思うと、麻痺した心のどこかが恐怖や悲しみ以外の何かを伝えてくる。笑いを止められない。


 同時にその音はどこか、聞くものにとっては切なさにすすり泣くようにさざめいていた。


「――……おは、なを、つみーましょ、可愛ーや可愛……」


 そうして彼女自身も知らぬ内に、その唇の隙間からはまた細く綺麗な歌声が滑りでている。闇に沈んで潤んだ翡翠の瞳が歪み、細まる。


 ――マロ蜂 (むぐ)れど 実らぬままの

 徒花 愛しや 私のものよ

 それでも愛しや 私のものよ――。


 ドアの外で『相棒』はどんな顔をしているのだろう。また困らせてしまっているのだろうか。


 ふと考えてしまった、見えてしまった――堕ちていく砂鉢の底で赤い口を開け出す一つの末路。そこに、どこかで淡い期待を抱く心は、もしかしたらあるのかもしれない。


 でも今のフィーにはその結末を遠ざけて、目を合わせることを恐れるだけの理性が、まだ残っている。少なくとも彼女自身は、そう思っている。だから今夜もこう考える。


 ――明日も笑って、いよう。


(昼間はせめて明るく笑って、前よりちゃんとイチの『相棒』で…、家族でいて、ハナトちゃんに世話を焼かなくちゃ。

 あの子がいてくれたら、ボクはイチヘイと一緒に、あの子のお父さん(パァパ)お母さん(マァア)でいられるから……)


 イチヘイも、結局はあの子のことを受け入れてくれた。結果として封印の度合いを示すこの石が割れてしまったのは恐ろしかったが、それだけは、今の彼女は素直に『嬉しい』と思っている。


 だからフィーは、ハナトのこともこれからもっと大事にしてあげなくてはならない。――フィーが、(パァパ)(マァマ)にそうして貰ったのと同じくらいには。


(縞は……まあ、ムカついたら適当に蹴っ飛ばしとけばいっか……)


 それから、もしお師匠さまが帰ってきたら、その時は全力で誤魔化すのだ。


 歌い終わりに、フィーはそっと扉に手を添える。向こう側にいる人の気配に意識を向ける。



「……だいじょうぶ、だいじょうぶなのよう……」


 震えながら、彼女はまだ残る理性で彼に、あるいは自身に言い聞かせる。


 大丈夫。だってこれより下に堕ちていくことを、フィーはまだ、ちゃんと怖いと思っている。今にも壊れそうなこの日常を、まだ愛しいと思っている。


 大丈夫。

 大丈夫。

 きみをまもるよ。

 絶対、これ以上は、進めさせたりしないから……。

 

 だからそれが、フィー自身が皆にどう扱われようとも、自分は『狂人などではないのだ』とフィーに思わしめる、たったひとつの証左なのであった。


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アッアッアッ アッ……(言葉にならないオタクの鳴き声) 愛してはいけない、なんてわかっていても 愛してしまう気持ちを押し殺すのって どんなに苦しいことだろう。 しかも誰よりも1番そばにいるのに。 …
フィー……そのように苦しんでいたんですね……。 (´;ω;`) 彼女の心が壊れていく過程が良く分かりました。 最初は実感が無かったのに、傭兵の体験を通してそれが実感にアジャストされたんだろうなぁ。 …
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