10.世話係はそれを阻止したい① ~捨てたい過去~
読了目安→3~4分
⚠️注意⚠️
文字数は少ないですが、小児虐待を含む激重い内容です。トラウマのある方や、心が弱ってる方にはホントにおすすめしないです。ご自愛ください。
――――今はここで、〈祝福もち〉の傭兵として生きるこの青年…………、イチヘイだが、それより以前はとある国の片隅に暮らす、本当に何者にもなれないただの子供だった。
しかし当時の彼が生きた場所を、イチヘイ自身が「帰るべき家」として懐かしむことは、今でも決してない。
彼が生まれた家は、古いアパートの二階にある、2DKのせま苦しい一室だった。
部屋の壁ぎわにいくつも引き出しや棚が並び、それでも溢れかえったモノたちが乱雑に積み上げられている。床のそこかしこには食べ散らかしのごみがコンビニの袋に詰められたまま転がり、時折ゴキブリが潜んでいる。
汚い……思えば本当に汚い部屋だった。
そしてその日、血縁で言うならば彼の父親にあたるその男は、「金が入った」とスマホを弄りながら、朝から隣室で酒をくらって寝入っていた。
また彼を産んだ女は夫にも子にも関心がなく、夜は仕事、朝に帰ってきたかと思えば、おざなりに我が子へ買ってきたパンやおにぎりを渡し、またすぐどこかへ消えていなくなるような人間だった。
帰って来ない日もあった。
外に男がいるからだ。
その日も、それは何一つ変わらなかった。
《――いいね? それ食べて大人しくしてて。お父さんのいうことちゃんと聞いといてよ? めんどいから》
『うん……』
時刻は午前十一時ごろだ。
玄関の上がりかまちに立つ九才のイチヘイを、二十半ばの女が細めた両目で迷惑そうにみつめる。
《……まったく、あんたさえ産まなければ、あたしだってもっと幸せになれたのに》
紅をさした唇から鋭く吐き捨てられる、ナイフのような、そのことば。
《……んじゃ、とにかく行ってくるから。留守番よろしくー》
「……わかった、母さん」
表情の見えない虚ろな目で、イチヘイはただ返す。ひどい言葉を浴びせられたところで、悲しみも驚きすらもすでにそこにはない。
気持ちがどこかで揺れ動いた気もしていたが、こんな心ない言葉はもう日常茶飯事だった。イチヘイはそれ以上は何も思わない…………正確にはこの頃には、もう何も思えなくなっていたのだ。
そしてそのうち隣の部屋から、呑んだくれていた男のほうが再び起き出してくる。
また酒をのみ始めるのだと彼は察した。すばしっこい足で男が出てくる部屋の隣室にある、押入れの下に飛び込んだ。隠れるように丸くなる。
父親と二人きりになったら、その半畳もない狭い空間だけが、子供だった彼が息をしていても許される場所だった。
イチヘイは素早くいつもの定位置にうずくまると、物音を立てないようにじっとする。下手に騒がしくすれば殴られるからだ。
季節は八月の真ん中の日、エアコンのきかない和室の中は息のつまるような湿気と暑苦しさだが、痛い目に遭うよりはマシである。
この家で、いちばん『家族』に気を遣っているのは、常に一番幼いはずの彼だった。だが、
《……おい、壱平》
食卓のあるキッチンから野太い声で名を呼ばれれば、出ていく以外の選択はなくなる。
《なあ、たまには父さんに酌をしろよ》
『わ、わかった……』
びくびくしながらイチヘイは隣室を出てその頼みを引き受けに行く。小さい手で、ずっしり重たいガラスの酒瓶を受け取る。
陽の差し込まない北向きのキッチンだ。太陽がでていても、明るいのはいつも外だけだ。
油とホコリに汚れた磨りガラスの窓から目に飛び込む真夏の光は眩しいくらいなのに、この場所はいやに薄暗い。
イチヘイは見慣れない瓶の、初めて触る形と重さにぎこちなく動く。懸命に細身のガラスコップと注ぎ口を見つめる幼い彼の顔に、泥酔した男の酒臭い息がかかる。
そして嫌な緊張感のなか手にする酒瓶は、子供の彼が思うよりずっと重たかった。加減が分からないまま傾けすぎた酒はコップの縁を乗り越え、ばしゃりと男の脚を汚してしまう。
《オイ何してんだよ!!》
とたん手から瓶は引ったくられた。
同時に脳を揺らされるような衝撃が頭にはしる。一瞬なにも判らなくなる。
イチヘイは食卓の上に置いてあった、中身の入った調味料のプラボトルで頭を殴られていた。
痛くはないが衝撃が重い。脳だけを揺らされる。
そしてわが子を甚振るこの男は、服で覆えない部分に加える暴力にだけは傷跡を残さないように振る舞う、信じられないほど姑息な人間だった。
こうやってずっと、彼は虐げられ、殴られてきたのだ。
《この役立たずが! この酒 高かったんだぞ?!》
『――――ごめん、ごめんなさい! ごめんなさい!』
両手に持ったものを置き、椅子から立ち上がる男。
『いやだ! やめて! ごめんなさい! ごめんなさい!!』
いくら謝っても、許してもらえるかどうかは解らない。相手の気分次第で結果が変わる、博打のようなその謝罪。
次いで飛んでくる理不尽な膝蹴りが、細い横腹にめり込む。
身構えて受けてもあばらの横が軋んだ。
痛かった。蹴られた反動で反対側の腰まで食卓にガツンと打ち付ける。
痛い。痛い。やめて。
こうして胴体にだけ、また痣が増えていくのだ。
《おめぇのせいで汚れたじゃねえか! 拭けよオイ! 親がいねえと何もできねえクソガキのクセに! 迷惑かけやがって! 死――――――――》
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