98.遠い日⑤ -愛-
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黄昏の空の下、火の手はあちこちから上がり、木と岩で出来た家々を赤い舌で嘗めている。
崩れた砦の前から、何か巨大なものが這いずったような痕跡がずっと続いて、行く手を阻むものを悉く破壊している。
フィーのお師匠さまはその後を追うように、無事な家々の屋根や、道の脇に突き出た岩の頂きを転々と跳ねて駆けていた。フィーはその腕に抱えられながら周囲にじっと意識を張る。
けれどんなにど小さな物音ひとつ聞き逃さぬよう耳を澄ませてみても、人の気配はどこからもしない。
無惨に崩された家の脇を通ったとき、道の前に、瓦礫に混じって切りかけの野菜や、捌きかけの青頭巾が散らばっているのがフィーの目に映る。
きっと夕食の支度の時分に、あの砦を崩した何かに襲撃を受けたのだ。フィーがそれを話しながら指さすと、モニススは立ち止まる。
「この火事はそのせいかもしれないね……」
フィーは改めて、壊された岩と木組の、こじんまりした家へと顔を上げる。
アビ士族は、血縁と共に横の繋がりもとても強い。
自分の家族のことも死ぬほど心配だが、この家に住んでいた若い夫婦も一体どうしてしまったのだろうと思うと、フィーは気が気ではなかった。
翠の瞳には炎と静寂ばかりが映る。
不安に駆られた時だった。山の上からざわりと吹き下ろして来た風が、わあっ! と上がる怒号と、《キャーイキャーイ》と叫ぶ甲高い声のようなものを運ぶ。
フィーの耳がピクリと動いた。
「お師匠様、今の聞こえた? あっちだよ!」
「流石、フィーは頼りになるね」
カツンと、石畳の上で黒い蹄が向きを変える。直後フィーの指さした先へ、モニススは走り出していた。
◆
「――囲め!」
「――今だっ! 後ろをおさえろーっ!」
たどり着いたのは坂が続いて細長いこの村の中腹。そこには〈耳長族の守護神〉を祀る聖堂と、山の水が湧く石畳の広場があった。
常ならば春と秋の大祭や住民たちの憩いの場だったそこが、今や阿鼻叫喚の戦場と化していた。
〈キャーイキャイ! キャーイキャーイ!〉
「――お師匠さま、なんなの、あの妖獣……」
辺りに響く、わー?! という怒声。吹き飛ばされる大人たち。その間にも妖獣の巨体に潰され、あるいは蹴られ、気を失ったのかあるいは死んだのか、動かなくなる者が出る。
周辺で一番背の高い岩の上に降り立ったモニススの腕の中で、フィーは思わず震え上がっていた。
数えて、四体。とにかく一頭が小さな小屋くらいの太さがあり、芋虫のような長い身体を持っている。角質化した節ごとに尖って醜悪な見た目の脚を生やし、身体の比率は芋虫でも、見た目は百足を彷彿とさせた。
しかし、最も醜悪なのはその頭部だ。形は人族の上半身に似て、顔の造作も、髪や眉毛を失った人族のそれに似ていた。ただ、長く黒い触覚が目の間から二本垂れ、
〈キャーイキャーイ!〉
と鳴き出すとき、縦に避けたその口は、人で言うなら喉仏の辺りまで赤黒く裂けるのだった。
なにより、鳴くのと同時にぱちぱちと瞬く複眼の瞳は、瞼の奥にもう一つ瞼をもつ、どの種族にもあり得ない形状をしている。
「すまない、吾も長く生きてきたが、あまり他国へは長く住んだことはなくてね。
……フィーが知らぬのであれば、おそらく何かの拍子に、エナタルの地とは交わらぬ遠いところから来た、異物なのやもしれない」
「でも、でも、そんなこと……」
フィーは困惑する。
モニススの言うように、妖獣にも普通の獣と同じく生息域や縄張りがちゃんとある。どこかでその均衡が崩れると、隣の地域から普段は見知らぬ種が流れて来ることも、稀にある。
しかし立派な戦士になる為の学びの一貫として、代々行ってきた狩りの記録から、年寄りたちの狩りにまつわる思い出話まで、見聞きして大きくなったフィーだった。周辺の地域に出る妖獣も、フィーは幼いながらもたくさん覚えている。
けれどそれらの特徴に、この妖獣はなにも当てはまらない。
普段なら『知らないなら学び直せばいい』などと思えるフィーだけれど、いまこの場でその無知は不安を煽るものでしかなかった。
先ほどから男女問わず、成人し戦士となった大人たちが挑みかかっているが、攻撃が通っている様子が一切ない。幾度か頭が落ちるのを見るが、その度に切断面が盛り上がり、元の形に再生する。
胴体に開いた穴もまた同じだった。
と、その時だ。フィーたちから一番近く、距離にして十メートル程の位置で戦士たちに囲まれていた妖獣が、蛇のように鎌首をもたげる。
裂き広がる口から、カチカチカチ……と小石を打ち合うような音が鳴った。その、次の瞬間。
《ギャキャ、キャ――――! ギャキャ、キャ――――!》
その声には、得体の知れない嫌な響きが混じっていた。亜人種の聞き分けよりはるかに高い音までを拾う耳長族にもギリギリの間での絶叫、音の暴力であった。
途端、フィーは耳の奥がキーーー――ン! と鳴り、その音の響きに頭の奥の奥までを強烈に揺さぶられる。
一瞬、何も判らなくなる。
「~~~~~~?!」
そして、次に気付いた時にはフィーの目線の高さに、ぐったりと意識のない若い女戦士が、妖獣の触腕に持ち上げられていた。
「っ、見るんじゃないっ――!」
直後、モニススに塞がれ暗転する視野の外で、ごきり、ばちゃりとなにかが割れて弾ける音。
おそらくその少女の名を呼ぶ、誰かの絶叫が広場の混乱に溶け去ったあと、
「――うおおお! 怯むな!! かかれええーーー!!」
「一歩も退くな! 子供たちもああさせたいのか!!」
「行け! アビ士族の誇りにかけて!!」
広場の士気が、刹那の動揺すら合わせ呑んで一気に上がる。
それを目下にするフィーは、怒りのような恐怖のような、得体の知れない感情に胸を染められてざわざわと後ろ首の毛を逆立てていた。気付いたモニススが、戸惑いの視線を彼女に向ける。
「フィーゼィ……?」
しかしそこに一人、彼女を呼ぶ声が増える。
「――フィフィ!? それに先生まで!?」
喧騒から浮かび上がるように近づいてくる野太い声は、低い家の屋根を伝って二人のいる平たい岩の上に着地する。
右耳から赤い血を流しながら焦ったような視線をフィーに向けるのは、彼女の父親にしてアビ士族の士族長、タリケラスの他になかった。
「父……さま!」
身じろぎして、モニススから滑り降りる。フィーは安堵に涙を浮かべそうになりながらも、父の胸に飛び込む。
「フィフィ……いやフィーゼィ! 先生のところに行っていたのか、心配したんだぞ! だが今は此所に来てはいけない……!」
「――やあタリケラス。手助けはいるかな?」
つ
しかし眉間に皺を寄せてフィーを叱りだす彼の顔を、モニススが横から身を屈めて覗き込む。
「先生……。ありがとうございます、貴女がご助力くださるならば心強い。だが、今はまず、己れの娘を避難壕へ押し込んで来てはくださらないか。
戦えない者はすでに一人残らず、あそこに避難させてあります。加勢して下さるならばその後で」
「いいよ、長さまの頼みとあれば喜んで。
それで、タリケラス、結局あれがなんなのか、君にはわかるかい――」
フィーの頭上で、手短に大人の会話がはじまる。
避難壕は、まだ戦えない子供や、一線を退いた年寄りたちを匿うために、村の最奥に用意された穴蔵である。
フィーはまた、フィーの意思など無視して話を進められてしまう前に、精一杯、声を張り上げた。みんなを助けたかった。
「――父さま、私も戦う!」
「成人どころか、十にも満たないガキンチョがなにを言ってるんだ、潰されて終わるぞ」
にべもなく、こつりと頭を小突かれる。それに後ろからは、浅い夜色の瞳が嗜めるようにフィーを睨んでいる。
「……フィーゼィ、吾との約束は??」
それ以上はがんじがらめ。返す言葉などない。悔しい。全然納得なんかしていない。
けれどフィーはもう、泣きも怒りもしなかった。
代わりに、ならばせめてこれだけは言っておかなければならないと思って、父を見上げる。
「父さま、あのねっ!」
「もう行きなさい」
「違うのあのね、大嫌いなんて言ってごめんなさい。私、大好きよ、父さまのこと」
「……フィーゼィ……」
モニススに返却されながら、一息に言いきる。カチリと目が合った。
その先で、フィーに良く似た半月の瞳は、本当に愛おしげに彼女を見ていた。
「ああ。言い忘れていたが、その服……、良く似合っているぞフィフィ」




