9.狂人うさぎは幼女をうちの子にしたい⑧ ~闇は、重なっても闇~
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「?! どれいちゃんっ!!」
新たな〈虚棲ミ〉の襲来に気付き、コンマ数秒。遅れて振り返ったフィーの翠の瞳は見開かれる。彼の相棒は即座に駆け出した。
《きゃあああああっ?!》
新緑鮮やかな森に響く悲鳴。同時に、『イチ!?』と叱咤するように名を呼ばれ、イチヘイは我に返った。ついで、やけにこの幼女へ執着するフィーの、血の気が引いたような表情に引かれて駆け寄っていく。
「っ、くそ!! もう一匹居やがった」
その間に、巨躯の〈虚棲ミ〉の薄く鋭利な門歯が、子供のうなじにかかる。
《ギャー! ギャー!》
《いっ、やっ! やめ、で!! ケホッ!》
見たところ薄着のその着衣に噛みついた〈虚棲ミ〉は、彼女を引き倒そうとしている。しゃがれた声でむせながら、何とかその場で抗う幼女。しかしその光景は、イチヘイにはとても異様なものに映っていた。
(――?! なんでコイツの身体には噛みつかない?)
先ほどまでの別個体とは、幾撃となく剣と爪牙を交わらせたが、あの〈虚棲ミ〉は明確な殺意と食欲をもってイチヘイとフィーに突進と噛み付き攻撃を繰り返していた。
《きゃぁぁぁあ!?》
しかし目前の大きな〈虚棲ミ〉はその衣服に噛み付き、ついにバランスを崩して倒れる彼女を、どこかへ引きずっていこうとしていた。
ただ、荷物がある分動きは遅い。イチヘイは〈虚棲ミ〉の歯牙の範囲外にぴったりとつけ、追尾しつつも、どうするのが最善か様子を伺いだす。
《ギャー! ギャー! ギャー!》
恐怖に染まった榛色の瞳が、助けを乞うようにこちらを振り向く。
「どれいちゃんっ!」
だが対するフィーは、イチヘイほど冷静にはなれなかったようだ。とっさに短刀をかなぐり捨て、長い槍のリーチで子供をひきずる〈虚棲ミ〉の行く手を塞ぎにかかる。
しかし目前の障害物を前に〈虚棲ミ〉はいっそう興奮し、尾と背の毛を逆立てた。かと思えば突きつけられた槍の穂先の楯にするがごとく、口に咥えた子供をブンブンと振り回し始める。
《きゃああぁぁ?!》
悲鳴と共に時折キュリ、キュリと細く聞こえる。それは元よりぼろぼろだったハナトの衣服が、じわじわと千切れていく衣裂きの音だ。
自らの武器の前に守るべきものを振りかざされれば、さすがのフィーもたじろぐ。
と、そこで〈虚棲ミ〉が、まるで蛇が鎌首を持ち上げるかのごとく、長い胴体でゆらりと立ち上がった。
イチヘイには既視感のある、その動き。
「っ! フィー、避けろ!!」
さっきの戦闘中にも見た。強靭な胴の筋肉をムチのようにしならせ、前足で切り裂きにかかる大技だ。しかもこの〈虚棲ミ〉は、立ち上がってみれば先ほどのものよりも一回り大きい。
イチヘイの背を瞬時に寒いものがはしる。とっさに駆け出していた。
先程は頑健な体格に防具も装備したイチヘイが受けたゆえにどうにかなったが、この巨体の一撃をフィーが受けとめた先には、血を見る結末しか思い浮かべられない。
その上フィーは子供の安否に意識を割かれ、イチヘイの言葉も耳に入っていないようだ。
と、そこで宙ぶらりんにもがく幼女を、〈虚棲ミ〉が首の上下の動きで振り回しはじめる。次の振り下ろし攻撃に備え、彼女を利用するための予備動作のようにも見えた。
確かに先端に「振り子」が増えれば、それはその分攻撃の勢いも増す、が……知性があるように見えて、不気味だった。
《ひああっ?!》
「ど、どれいちゃん!」
「チッ!」
すぐさま始まる振り下ろし攻撃。遠心力で、子供の身体がふわりと浮く。
と同時に祝福を身の内に込め、イチヘイは身をねじりながら大きく跳躍した。
ざらり。
この、病んだ相棒だけは傷付けさせない。
「――させねえ!」
回転する身体のひねりに込められる、渾身の一撃。イチヘイはその赤錆色の喉元に、強烈な切り上げを見舞っていた。
肉を断ち、間接のの隙間に食い込んだ重たい刃がそのままソイツの頭を刎ねる、確かな感触があった。
目前に妖獣の青い血が迸る。
子供の身体が、胴体を失くした〈虚棲ミ〉の頭と共に宙に放り出される。
元からぼろぼろであった彼女の衣服は、その一瞬に身体を包むという最低限の用すら足さなくなっていた。
その小さな身体ががもんどりうって地面に落ちるのと同時に、どさりと倒れ込む赤錆斑の胴体。切り口の一部からは、濁った灰色の核が血に染まることもなく艶めいて顔を覗かせている。
……ギリギリ外した。
着地を決めて振り返るイチヘイがそんなことを確認している間に、大人の太ももの丈ほどはある森のみどりの下生えの中から、《うう、げほっ》と呻き声をあげながら子供が起き上がってくる。
降った蒼血に汚れた、土埃と垢まみれの肌。
それを隠していたものは、いまは彼女の足元にしわくちゃに丸まっていた。
もとより大人の獣人種向けだったぶかぶかのこの服は、本来はシャツではなく羽織りものの上着として用いる用途のものだった。ゆえに留め紐自体が少なく、あるのは縫い目のほつれかけたぼろぼろのものが背中側に二本。
その、どちらもが今の乱雑な扱いで引きちぎれ、そして彼女は着ている衣服も、その一着きりだったのだ。
「――……ああっ?!」
「ぁ゛? あー……?」
気づいたフィーが叫ぶ。
その声につられてイチヘイも一瞬だけそれを凝視してしまったが、子供の裸体には全く興味は持てなかった。
一方のフィーは、素早く、そのくせ妙に丁寧な動きで愛槍を地面に横たえ――……次の瞬間、稲妻のような素早さでイチヘイの背後を取りに来る。
それを目にしたイチヘイは先ほど自分の愛刀が、フィーの手から乱雑に放り捨てられていたことをはたと思い出し、
「あ゛! フィーおまえ! 俺の短刀どこやった?! 大事に扱えって言ったよな! なんでお前は自分の槍ばっかり――」
しかし彼女はイチヘイの話など聞きはしない。
次の瞬間に、彼の両瞼が背伸びしたフィーの手に塞がれるのと、少女がやっと自分の現状に気づいて、《ひゃっ……?》とちいさな悲鳴を上げるのはほぼ同時だった。
「ちょっとちょっとだめだよだめだよイチヘイ?!」
「いや、全っ然目ェそらしてたっていうかお前の方見てただろ俺?! ガキのハダカに興味ねえって!! あったら逆にダメだろ?!」
それでも結局はそれ以上フィーを刺激しないよう、後ろを向いてその場にしゃがみこむイチヘイである。
……みどりの草と、湿った落ち葉の匂いが近くなる。背後では、フィーがあわあわと動き回っている気配がする。
落ち着かない気持ちで目前の草むらに目を落とすと、運良く目前にはフィーの捨てた愛刀が転がっていた。イチヘイは軽く舌打ちしながらとそれを後ろの鞘に納めた。
……結局、この異常サイズの〈虚棲ミ〉がなんだったのかはわからないが、核は一つ残った形だ。
(後でこのバカでけえ核だけ下の村に見せに行って、こういうのがいた、と報告だけするか……?)
そんなことを考えている間にも、フィーはなにやら子供にはなしかけている。
「ごめんねごめんね、大丈夫? びっくりしたよね? ああ、背中に傷できてる……すりむいちゃった? でも、そんなに血出てないねえ……とりあえずほら、ボクの服も着てよ…………足の傷はとりあえず縛るよ……────ちょっと、こっちみないでようイチ?!」
「へーへーみてねーだろうが……」
辟易しつつも返した。
イチヘイの耳に、ごそごそとフィーが自分の裾長の上着を脱いでいる音が聞こえる。
ただ、そうしながらもイチヘイの脳裏には、やはりどうしても、いま思わず凝視した光景が焼き付いてしまっていた。
はだけて露わとなった少女の胸郭。
しかしそれに、やはり色めいた感情なぞ一切おぼえないのだ。沸き上がってくるのは、ただひたすらに苦い感情である。
確かに、フィーから「奴隷の子かもしれない」と聞かされたときから、『それ』が存在するかもしれないことは彼の頭にあった。
そしていま、実際に目にしてしまった彼女の身体にも、たしかに有った―――― イチヘイはそれを見てしまった。
森の明るい日差しの中。彼女の白い鎖骨の下、あるいは膨らみかけの胸の上。
まだ治りきりもしないその火傷の痕、無残な火膨れが象るものは、目をくり貫ぬかれた人族の男の生首だった。
その印は、彼女の手足に嵌められた鎖枷より、短すぎる前髪より何より明らかに────少女が逃れようもない奴隷の身分に落ちていることを示している。
加えて彼女の胴体や、胴体に近い四肢の部分にだけ無数の打撲痕やムチの痕のようなものがいくつもあることにも、イチヘイは大きく意識を割かれていた。
「…………くそ」
────やはり可哀想、などと思う感情は彼には湧かない。
────身体中にある傷を見たからといって、この子供を保護してやりたいなどという哀れみに、彼の気持ちが染まることもない。
けれど自身の内側を走る思いに対してすら鈍い彼は、黙ったままの自分が、先ほどより小さく身を縮こめていることにも気付いていなかった。
この奴隷の少女の境遇に、本当はもっと心の深い部分で、頭を殴られたような衝撃を受けていることにも気付いていなかった。
そうしてふと、意識もせぬまま、彼は忘れたはずの記憶を脳裏に過らせているのだ。




