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「ある意味怖い話」部分

 あれから、20年近くが経った。

 俺はいまだになんとかサラリーマンを続けている。

 新卒で入社した会社で、現在の妻と出会い、2年後結婚。一年後には一人娘も生まれた。

 その後、何度かの転職を経て、今は中堅のメーカーで管理職に就いている。

 仕事柄、ストレスは多いし、拘束時間は長く、帰宅はしばしば深夜になる。が、どうにか家族を養うだけの収入はあるし、休みもそれなりに多く、趣味や家族サービスに費やす時間にも事欠かない。

 数年前には郊外に一戸建ても購入した。おかげで通勤時間は大幅に伸びたし、残り数十年間、ローンを払い続けなければならないが、妻も娘も落ち着いた環境でのびのび暮らせることを、とても喜んでいるように思える。

 やりがいのある安定した仕事。やりくり上手で家庭的な妻。大きな躓きを経験することもなく、健康に成長している娘。平凡だが、そこそこ満足できる人生。

 時に大きな失敗を犯したり、深刻な問題に見舞われたりもあったが、幸運にもなんとかここまでやってこれた。今落ち着いて暮らせることに感謝し、これがずっと続けていけるよう、まだまだ頑張らないとと自分に言い聞かせ、励み、走ってきたのだが……。

 最近、どういうわけか、ふと不安を覚えることが多くなった。

 会社の部下たちは、俺に対してすごく素直だ。

 会議に上がってくる問題に対し、この部品についてはもう少し考え直す必要があるんじゃないかとか、形状は問題ないが、もう少し小型ができないと厳しいね、なんて(自分としてはかなり安直な)意見を述べても、確かにそうですね、すぐに検討し直してみます、おっしゃる通りですね、などといった教科書通りの答えが返ってくる。そして実際、その通りの方針で開発が進んでいく。

 だが、俺が彼らに背中を向けた途端、くすりと笑い声をもらす声が聞こえたり、部屋を後にした直後、ふふん、と鼻でせせら笑うような声が漏れ聞こえたりする気がしてならない。

 慌てて振り向いても、そこには無表情にディスプレイを見つめる顔が並んでいるだけで、別段、何らの悪意も――それどころか、何の感情も――感じ取れない。

 仕事が一段落した後に、どうだこのあとちょっとつきあわないか、と皆を誘ってみても、決まって「済みません、ちょっと今日は都合が悪くて」という返事ばかり。そして、「ああ、そうか」と言って彼らの机を後にすると、やはり同じように笑い声が漏れ聞こえる気がするのだ。

 年に数回の忘年会にはさすがに彼らも顔を出すが、そこでも彼らは行儀よく出された料理に口をつけ、アルコールではなくウーロン茶やミネラルウィーターを飲み、おっさんらが赤い顔で大騒ぎしているのを、にこにこと落ち着いた様子で見守るだけ。

 どこからどこまでも作り物めいた、決してその生身を見せようとしない、作り物の「なにか」。

 その「なにか」の本心すらつかめないまま、俺は「上司でござい」という顔で、偉そうに指示など出しているのだ、と思うと、なんだかうそ寒い気がしてならない。

 同じことは、職場だけでなく家でも、時折感じてしまう。

 予期しなかったトラブルで仕事が長引き、帰宅が深夜になった時のことだ。

 さすがにこの時間だし、もう休んでいるだろうと思っていたのだが、あに図らんや、タクシーを下りると、居間に煌々と明かりがともり、いかにも楽しそうな妻の笑い声や娘ののびのびはしゃぐ声が聞こえてくる。こんな夜更けに二人で何をしているんだ、と不思議に思いながら玄関をくぐり、居間に入ると……そこには誰もいない。

 呆然としているところへ「あら、お帰りなさい」と、たった今寝床から起きてきたばかり、と言わんばかりに、パジャマ姿の妻が姿を現した。

「……寝てたのか」

「ええ、こんな時間ですから。ご飯、あたためますか?」

「……いや、いい」

 短くそう答えると、妻はかすかにほほえみながらうなずき、そのまままた、二階へと階段を上っていく。

 その時の笑みには、かすかながら、確かに嘲りの臭いが含まれていた、と俺は今でも確信している。

 妻でさえその様子だから、娘は、もっとあからさまだ。

 休日、久々にゆっくり寝た後、のそのそとパジャマ姿で居間の扉を開けた途端、それまで勢い込んでなにからしゃべっていた声が、ぴたりと止まる。

「……おはよう」

「おはよ」

「おはようございます。朝は、トーストで構いませんか?」

 答えるより早くトースターに食パンを放り込む妻を横目で見つつ、カチャカチャと食器が鳴る音とケトルがしゅうしゅう白い息を吐く音のみが虚しく響く中、のそのそとダイニングチェアへと向かう。

 新聞を開くついで、という体でおもむろに口を開き、

「どうだ、高校は?もう慣れたか?」

と問いかけると、娘は妙に速いテンポでトーストをざくざくかじりながら、

「ん。まあ」

などと答える。

 そして、無言。

 白茶けた今の壁にトースターの「チン」という音だけ響き、いつの間にか目の前に置かれているトーストに、無言でかじりつく。

 焦げ臭さのみが鼻につくそれを味のない紅茶で胃に流し込んでいると、

「ごちそうさま」

 娘がさっさと席を立ち、自分の食べていた皿をシンクへと運ぶと、その足で居間から出て行こうとする。

「出かけるのか」

と声をかければ、

「うん。約束があって」

 足を止めぬまま、妙に早口のそんな答えと、かすかな含み笑いだけを残し、娘は扉の向こうへと消えるのだ。

 一体いつから、こんな風な、妙に居心地の悪い家になったのだろう。

 書斎に戻り、椅子に深く腰かけて、黙然と記憶をたどる。

 ……娘が中学生だった頃は、もう既に、会話は最低限になっていた。まあ、それは反抗期だし仕方がないと思っていたが……だが、あの時期俺は、妻とどれだけ話を交わしただろうか?

 いや、まて。

 娘が小学校の時だって、生活上どうしても必要なやりとり以外に、妻とどれだけ会話した?

 せいぜい、トイレの紙が切れていたぞ、とか、明後日から出張することになったから、準備を頼むとか、その程度のことしか言ってないんじゃないか?

 いやいや、待てって。

 娘が保育園の時……いや、娘が生まれる前なら……。

 そこで俺は愕然とした。

 どれだけ記憶をたどっても、妻となにかについて話し込んだ覚えがないのだ。

 こうしてくれ、ああしてくれ、と言ったり言われたりした覚えはある。けれど、思いの丈を長く語ったことは?

 これはいい、あれをしたいと主張したことも、お願いされたこともある。だが、どこがそれほど気に入ったのか、なぜそれをしたいのか、理由をぶつけ合ったことは?

 ない。一度もない。

 それどころか、よくよく考えてみれば、これだけ長く一緒に暮らしているというのに、妻と――そしてもちろん娘とも――5分以上の間会話したことなど、一回もないのではないか。

 俺は一体……今までなにと一緒に暮らしてきたんだ?

 そして、これから先もおそらくは死ぬまで、こんな得体の知れない「存在」と共に、暮らしていくのか?

 今まで手足のようによく知っているとばかり思い込んでいた家の壁が、床が、机が、天井が、見たこともないなにかにいきなり変化したような不気味さに襲われ、俺は思わず、ひっ、と小さく声を上げていた。


 それ以来だ。

 妙に傲慢な、偉ぶった、侮るような、おとしめんばかりのひそかな笑みに出会うたび、俺の脳裏に、花音が思い浮かぶようになった。

 心の中にある不安を全て言葉で埋め尽くそうとしているかのように、ずっと悩みを吐き出し続けていた、小柄できゃしゃな女の子。

 側にずっといてもそれでも不安をなくすことができず、自分をもっと知ってほしい、あなたをもっと知りたいと、部屋の空間全てを声で塗りつぶそうとしていた、感じやすい、自己評価の低い女の子。

 どれだけ邪険にされても、いや邪険にされればされるほど、ただの誤解なんだから、もっと話して、もっと自分を知ってもらえばきっと分かってもらえる、わかり合えるはずと、ますます熱意を込め、速度を上げてしゃべり続けた、心弱いのに妙に前向きな女の子。

 あいつと一緒にいた数ヶ月――半年――数年は、確かに俺とあいつは、わかり合っていたように思う。

 わかり合えない時にはとことん語り合って、互いの理解のすき間を埋めて、それはまるで、一心同体のようにぴったりくっついて……俺の人生であれほど充実し、満ち足りた時はなかった。

 なぜあれほどの満足感を惜しげもなく振り捨て、得体の知れない「存在」ばかりが満ちた場所で生きることを、俺は選んだのか。選んでしまったのか……。


 つい先日、取引先から帰る途中、ふと目を上げると、そこに懐かしいものが目に入った。

 四半世紀前、花音に連れられてしぶしぶ観に行った、あの芝居のポスターだ。

 思わず立ち止まり、近寄って目をこらす。

 と、それはまさしくあの劇団の、最新公演の案内であり……四半世紀が経過した今でもあの作品は、劇団の看板演目として、定期的に演じられているようなのである。

 公演日時は……来週の土日。

 今のところ、何も予定はない。

「……行ってみるか」

 思わず俺はそうつぶやいていた。

 そして、つぶやくと同時にその思いは希求となり、何があろうとも絶対に行く、という強い決心へと変わる。

 そうだ。あの公演に行って……今度は俺も、舞台に立とう。

 いままでずっと、会社に、家庭に、社会に感じていた不安を告白し、そして……あれだけ俺を思ってくれた花音をすげなく見捨ててしまったことを、心の底からわびよう。

 そうすればきっと、スタッフも、他の観客の皆さんも、俺の気持ちを分かって、慰め、励まし、拍手してくれる。

 その拍手の向こうから、きっと花音が現れて、

「俺君。ようやく分かってくれたんだね。ありがとう。ずっと待っていたよ」

目を潤ませながらそう言って……俺を抱きしめてくれるに違いない。

 なに、その時万が一現れなかったとしても、毎日のように稽古場公演に顔を出し、自分の後悔と花音への思いを口にし続けていれば、きっとそのうち会える。

 そうとも。

 この年になってようやく分かった。俺と花音は、セレンによって固く結びつけられた、決して離れることのない「存在」なんだ。

 待っててくれ、花音。

 今度こそ、今度こそ話さない。ずっと二人で、二人だけで暮らそう……!

 胸の奥からどんどん湧き上がる熱い思いに縛りつけられ、俺は、涙に潤む目で天を仰ぎながら、ずっとその場に立ち尽くし、ほほえんでいたのだった。


「ある意味怖い話」部分投稿。これでこの作品は完結。

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