「本当にあったかもしれない」部分
「本当にあったかもしれない」部分投稿。残り部分は来週投稿予定。
はじめから乗り気ではなかったのだ。
なにしろ、はじめに花音に誘われた時だって、俺は「うーん」と言ったきり、難しい顔で黙りこんでいたのだから。
付き合い始めてからこそまだ3ヶ月しかたっていないが、大学入ってからもう数年、花音とは同じボランティアサークルで活動しながら、濃い友達づきあいをしてきている。だから、俺が「いいね、それ」とすぐに答えず黙り込むのは、あまり乗り気じゃない――というか、全く興味がない――ってことだと、彼女だって分かっていたはず。いつもなら花音はそんなとき、あわてて「あ、ごめん、あまり興味なかったか」とかなんとか言って提案を引っ込め、「あ、それじゃあ、こんなのはどうかな?」と次の「デートでやりたいこと候補」を言ってくれる。控えめで、常に俺の気持ちを察し、それに合わせてなにかと気を使ってくれる、実によくできた彼女なのだ。
なのに、この時はやけに強硬だった。
「絶対楽しいから!ミヤちゃんとかゆずはとか、観に行った人は皆感動したって言ってたし。ね、だから、つきあってよ」
「でもなあ、お芝居だろ?それも、筋書きがはっきりしない、客席の素人が飛び入り参加するような。そんなテキトーな作品、面白いとは思えないんだけど」
「ううん、その筋書きのなさが逆に面白いんだって。なにが飛び出すか分からないドキドキ感があって、2時間全然飽きないんだって」
「でもなあ」
正直、そんなものを観に行く時間があれば、家にこもってコントローラーを握っていたい。
ちょうど買ったばかりの新作ゲームにドハマリしてて、ストーリーの先が気になって気になって仕方なかった時だったし、そんな「お出かけの誘い」など、すげなく一蹴したいところだった。
けれど、以前正直に「ゲームしたいから」とお出かけの誘いを断ったら、この世の終わりのような顔をされ、「ダメだよそんな不健康な!」「たかがゲームにどうしてそんなにのめり込むの?」「リアルな付き合いの方をもっと大事にしようよ!」と、「私とゲームとどっちが大事なの」的なことを言い出しかねない勢いで責められた。なので、もしまた同じ理由で断りでもすれば、べそべそ泣きながら延々なじられることにもなりかねない。
ということで俺は、歯切れの悪い言葉で「あまりその気になれない」ことを伝えることしかできず、もちろん、そんな茫洋とした理由で花音が納得してくれるはずはなく……とうとう次の日曜日、その「お芝居めいたもの」を一緒に観に行く約束をさせられてしまったのである。
今思えば、どうしてあの時、泣かれるのを覚悟でもっと強く断らなかったのか、と悔やまれてならない。俺にカノジョとの一時の不仲を耐える精神力さえあれば、あの後に待ち受けていた状況に向き合うこともなく、今もきっと、ほんわり幸せな気分で生きることができていたはずなのだから……。
「……なんだ、こりゃ?」
約束の当日、花音に引っ張られるようにして連れてこられた劇場で、俺は頭の上に疑問符を一杯浮かべたまま、客席につくねんと座っていた。
それまで数回、サークル同士の付き合いとかで足を運んだお芝居の公演では、白いカッターシャツにジーンズとか、せいぜいちょっとよさげなワンピース程度の服を着込んだ女の子が「いらっしゃいませ」と迎えてくれ、チケットの確認やら支払いやらを済ますと、そのまま連れだって客席に向かう、というのが普通だった。
ところが今回「いらっしゃいませ」と迎えてくれたのは、頭からすっぽりと巨大な布の服をかぶった「ブルカを着たイスラム女性」もしくは「怪しげな秘密結社の儀式に参加する人」といった感じの、この上なく怪しげな存在である。
だが、花音はこのお芝居を勧めてくれた友達から、あらかじめ詳しい情報を仕入れていたらしく、うさんくささ満点の受付に早くも腰が引け、もういいから帰りたい、という気分を全身で表す俺とは裏腹に、平然とした様子で受付を済ませ、荷物を全て預けると、代わりにたたんだ布を受け取り、どんどん先へと進んでいく。
仕方ないな、もう金払っちゃったし……。
花音を真似て、手荷物を全て係の人に預け、係の人が手渡してくれた布を受け取ると、導かれるままに暗幕の奥へと入っていく。
と、そこは小部屋のように仕切られており、目の前に貼り紙があって、「手渡した布袋をかぶってください。布の一部がメッシュになっており、そこから外が見えるようになっています。服や靴を脱ぐ必要はありません!!」と書いてある。特に、「服や靴を~」の部分には一文字一文字の横に大きく赤で二重丸が書かれており、今までにたくさんの人がここで身につけているものを脱ぎ捨ててしまい、後からてんやわんやになったのであろうことがしのばれる。
イベントを運営する側も大変だよな、と布の中でニヤニヤしながら示された出口へと向かい、係の人に格好をチェックしてもらってから――そしてもちろん、仕切りの中に靴や服を脱いだままにしていないかどうか確認してもらってから――受付の人たちと同じ、欧米風のユーレイそのもの(ただし色は白ではなく黒だが)という感じの姿で裾を引きずりつつ、のそのそ歩いて客席に向かう。
舞台からそのままつながっているような、ひな壇にパイプ椅子を並べただけの簡素な客席には、もう既に八割ほどの客が座っている。その中には、先にいた花音ももちろんいるはずなのだが、皆同じ黒ユーレイ姿で座っているため、どれが花音なんだか、さっぱり分からない。手を振るとかの合図でもしてくれれば分かるのにと、ちょっとイライラしながら客席を見渡すが、誰も静かに椅子に腰かけ、微動だにしない。
なんだよ、自由席なのに、連れの隣に座ることもできねえのかよ。なんだかえらく不自由な芝居だな……。
仕方なく、「おそらくコイツが花音じゃないか」と目星をつけた、小柄なユーレイの隣に腰かける。だが、他にも小柄なユーレイは何人かいたし、もしコイツが花音じゃなかったら、と思うと、気後れして話しかけることもできない。
結局、静かに座ったまま、ぼんやりしてるくらいしかできず……俺は、のこのこここまでやってきてしまったことをますます強く後悔しつつ、舞台へとぼんやり目をさまよわせる。
まず目についたのは、舞台中央奥に生えている、一本の木だった。
幹と枝だけの丸裸な木だから、樹種はよく分からない。が、太い幹が舞台の床から斜めに立ち上がっているその樹容は、年経た松か桜のように力強い。さらに、肌合いはごつごつと荒々しく、幹のあちこちにくぼみやこぶがあって、暗い茶色に染まった樹液がたまっていたり、緑のコケが生えていたり、あるいは、大きく引き裂かれた跡がやや白く残っていたり。もちろん枝振りもひねくれ、ねじ曲がって、まるで地面から空へと思い切り手を伸ばしているようだ。
あれ、本物?……いや、でもまさか……。
舞台の床に据えてあるのだから、本物であるはずもない。が、その木のオブジェには、長い間風雪や山火事、嵐にも耐え、しぶとく生き残ってきた「歴史」のようなものが、巧妙に表現されて……見てて飽きない。
というより、舞台上にはその木以外、客席と全く同じ、パイプ椅子が2脚と、真ん中の木にもたれかかり、積み上げられるように雑多な小物が統一感なく置いてあるだけなので、客はどうしても木に目を引きつけられてしまうのだ。
客をそれぞれ個別に、誰か分からないように案内し、黙って舞台に向けて座らせる。なるほど、そこまでしてあの木に注目させたいってことか。ま、それだけの力作ではあるからな。けど……もしそうなら、周りにちりばめられたあの小物が邪魔だよな。あんなモン、全部はけちまった方がよっぽどすっきりするだろうに……。
大した観劇経験があるわけでもないのに、いっぱしの批評家ぶってそんなことを考えているうち、上演時間となったのか、BGMが高まると同時に、劇場全体が闇に沈む。
ふっとBGMが鳴り止むと同時に、舞台中心にスポットライトがともり、そこに立って深々とお辞儀している一人の人物を照らし出す。
「本日はご来場いただき、まことにありがとうございます」
客と同じ、すっぽりとかぶるタイプの布を体に身にまとっているが、この人物の「かぶり布」は特別製らしく、頭の部分だけがフードのようになっており、後ろへめくり上げられるようになっている。その格好で舞台に上がっているため、男は闇の中、首だけが宙に浮かんでいるように見える。
「なにも知らずにご来場くださった方は、はじめにこのようなものを着ていただくようにお願いしたり、お連れ様とも別々でご入場いただいたりと、かなり当惑なされたのではないかと思います。合わせてお詫びいたします。ですが、この作品の性格上、できる限りお客様の匿名性を守るため、やむを得ない措置だとご理解いただきたいと思います。これより上演いたします作品は、参加型演劇といいまして、はじめこそこちらでご用意いたしましたストーリーを演じますものの、その後は皆様次第。どれだけ多くの方々が舞台に上がっていただけるかで、全てが決まります。なお、舞台に上がっていただく方のために、椅子の集音マイクにはボイスチェンジャーが仕込んであります。感極まって大声で叫んだりなさらない限り、プライバシーは完全に守られますので、ご安心ください。ではまず、こちらで準備いたしました「告白の一例」――と申しましても、作品の意図通り、劇団員が実際に抱える悩みを吐き出すものですが――からお楽しみください」
長年の修練のたまものなのか、それとも、公演のたび同じ文言を述べているためなのか――男は長い前口上をよどみなく、心地よいリズムで語り、そして一礼。それからゆっくり顔を上げたのだが、その時にはもう、男の顔は、前口上の時のリラックスしたものから、妙に緊張し、こわばったものへと変わっている。
その表情のまま客席を見渡すと、男はおもむろにたくし上げていたフードをかぶり、劇場内の他の人間と見分けのつかない姿に――男とも女とも、人間かどうかさえも定かではない「存在」に――変わる。そこへ、いきなり強い風の音が響き渡り……男はやにわに両手を高く差し上げ、朗々とした声で語り始めた。
「これよりここは暗黒の荒野。寄る辺なく、支えなくさまよう魂の吹き溜まる絶望の深淵。そが中にただ一樹そびえ立つは沈黙の大樹セレン。彼は歌わず、話さず、唱えず、ただ静穏のなか風に耳を傾けるのみ。人よ、今こそ風となり、渦巻く黒き思いを解き放つ時。胸に猛る獣に乗りて、セレンが前にその偽りなき姿をさらけ出す時……」
時代があった大仰な台詞を言い終わると同時に、振り上げていた手を胸の前に置き、腰をかがめてお辞儀。それにあわせて舞台はゆっくり暗転した。
次に舞台に明かりがつくと、既に男はパイプ椅子に端座しており、もう一人、ぬいぐるみのようなものを膝に抱えた人物が、その彼と向き合うように、パイプ椅子に座っている。
と、前ぶれもなにもなく、ぬいぐるみを抱えた方の人物が、
「私、もう嫌なんです。こんなつらい恋愛、やめにしたいんです!」
と叫んだかと思うと……いきなり、とことん重い打ち明け話をはじめたのである。
それから後のあの日、あの場所での経験を、どう言い表せばいいのだろうか。
最初に話し始めた女性の「劇団側が仕込んだ一例」だという告白は、(おそらくは)劇団内での、妻子ある男性との不倫についての話だった。
大学生となり、親元を離れ一人暮らしをはじめた女性は、かねてからの念願通り、演劇サークルに入部し、そこでどっぷりと演劇にはまってしまった。
そのサークルは、学生だけでなく社会人もかなりの数参加していたのだが、その中で公演では常に主役級の役を演じる花形俳優の一人であり、役者を志す新人たちの教育係も兼ねていた一人の男性に、彼女はすぐ、惹かれるようになった。
相手が既婚者であり、決して許されない恋だとは分かっていた。が、明に暗に気持ちを表すたび、相手からもまんざらでなさそうな反応が返ってきたこともあり、思いはただ募る一方。とうとうある晩、一線を越え、そういう仲になってしまう。
それから、つらい恋はさらにつらいものになった。
どれだけ寂しくて会いたい時でも、相手の都合が悪い時は、じっと我慢するしかない。
相手の奥さんも元劇団員で、公演の時にはよく姿を見せたし、生活圏がかぶっているから、子どもさんを連れて公園で遊んでいる姿を垣間見たりすることもあった。その幸せそうな家族を壊すつもりはなかったけれど、どうして今あの人の隣にいて笑い合っているのが自分ではないのか、とつい考えてしまう。
自分が本当に愛されているのか、その保証がほしくて、ついいろいろ無茶なお願いをする。けれど、相手は当然、困った顔をして黙り込むばかり。そんな相手を責めて、なじって、泣いて、ますます困らせて、泣きながら謝って……。
そんなことを繰り返しているうちに、だんだん相手がやってくる頻度が減ってきた。
ちょうど学年が変わり、新入生たちが入団してくる頃だった。相手はまたその子達の指導役を引き受け、頻繁に大学での練習には顔を出す。けれど、練習の延長だ、新入生歓迎の飲み会だとあれこれ理由をつけて、自分のアパートにはいっそ寄りつかなくなる。
不安が募り、些細なことで新入生たちを怒鳴りつけたり、そうかと思うと、全てが嫌になって外出すらできなくなり、三日ほどアパートにこもり、布団に潜ったままでいたり。
そしてとうとう、彼女は決定的な場面を目にしてしまう。
その夜、彼女はとあるバーで、一人酒を飲んでいた。
1年程前、不倫相手に初めて連れてきてもらって以来――その夜に彼女は相手に全てを捧げたのだった――静かで落ち着いた、ある意味素っ気ない雰囲気が気に入って、寂しい夜に時々足を運んでは、一杯の水割りを前に、本を読んだり、スマホをいじったり、音楽に耳を傾けたりしながら、長い時間を過ごしていたのである。
その日も、腰を落ち着けてから既に数時間が過ぎていた。
時刻も真夜中を回り、そろそろ帰ろうかと腰を浮かしかけた、そんなときだ。
不意にカランとドアベルの音が響き、扉が開いたかと思うと、外明かりをバックにシルエットとなった二人の人物が、ゆっくりと中に入ってきた。
背が高く、痩せ型の割には肩幅が広い男と、小柄な、けれどまっすぐ背筋の伸びた姿勢が印象的な女の子。男は優しく女の子の肩に手を置き、軽く首を傾け、女の子の顔をのぞき込んでいる。
それは、いまだ自分と誰にも秘密の付き合いを続けているはずの男と、新入生の中でも飛び抜けてかわいい女の子だった。
あまりの衝撃に、身動き一つできない自分の背後を、二人は平然と通り、店の奥へと向かう。
その途中、ちらりと顔を上げた男と確かに視線が合った。けれど男は眉一つ動かさず、自分の存在を完全に無視し、歩き去ったのである。
やがて、聞こえるともなく店の奥から女の子のか細い、不安そうな声が聞こえてきた。
内容は聞かなくても分かる。
大学の授業の不安、一人暮らしの不安、演劇サークルでうまくやっていけるかどうかの不安、不安、不安。
男はただ黙ってその肥えに耳を傾け、時折低く優しい声で慰めたり、励ましたり。
同じだ。一年前、あの女の子の席に座っていた自分と全く同じやりとりを、今はあの二人がしている。
そのことに気づいたところで、女性はゆっくりと席を立ち、そのまま店を後にしたのだった。
「……いっそ、自分とのことを奥さんに暴露して、家庭をめちゃめちゃにしてやろうか、とも思いました。でも、やめました。そんなことをしたところで、きっと気持ちは晴れないって思ったから。今こうして話していううちにようやく分かったんですけど、私は、ただ自分にあきれていたんです。あんな、ちょっと顔がいいだけしか取り柄のない男にコロッとだまされて、いいようにされてしまった自分に。それが情けなくて情けなくて、あんな男のことでどうして悩んでいるのか、どうしてこんなつらい思いをしているのか、本当に自分、バカで、どうしようもないなって。本当に私って……」
そこで言葉を詰まらせると、女性はうずくまり、肩をふるわせはじめた。
ひとしきりそれが続いた後で、それまでずっと黙っていた、もう一方の椅子に端座した「存在」が、素っ気ないほど無表情な声でささやいた。
「それで?これから、どうなさいますか?」
女性は一瞬、びくりと身を震わせた後、ぽつりぽつりと言葉をつむぐ。
「さあ……分かりません。でも、ここでこうして話せたことで、前には進めると思います。近いうちには、きっと」
「そうですか。他に、語り残したことは?」
「ありません……今のところは」
「そうですか。……では」
そういうと、端座した「存在」はゆっくりと右手を振り上げ、背後にそびえる樹を示す。
「風に耳傾けしセレンに、よすがとなるべき捧げ物を」
女性はうなずくと、両手で抱えていたぬいぐるみをぐっと差し出した。
「これは、初めてのデートの時、相手の男性がくれたものです。ゲーセンで、ちょっと待ってて、といったかと思うと、瞬く間に取ってくれて。今思えば、これ、私がまったく興味ないアニメのキャラクターで、あの人、ただ取りやすいし、手軽に女の子を喜ばせることができるからってだけで、くれただけなんだと思います。それでも私、すごくうれしくて……今までずっと、大事にしてきました。けれど、もういいんです。これを、セレンに捧げます」
聞き手は右手を差し上げたままうなずくと、
「では、長き夜の記憶を、風のよすがに」
重々しく告げる。
「長き夜の記憶を、風のよすがに」
女性もその後についてそう唱えると、立ち上がり、手にしたぬいぐるみをそっと樹の根方に置くと、誰にともなく一礼し、そのまま舞台から下りたのだった。
こんなやばい話しちゃって、大丈夫なのか?劇団の中がぎくしゃくしたりしないのか?
思わず心配になった俺は、思わず周囲を見回し、黒装束の中に混じっているはずのスタッフで、挙動不審になっているものはいないか――特に、まだ椅子に座り続けている、劇団の主宰者とおぼしき「存在」が何らかおかしなリアクションを取ったりしていないか――確認した。
が、「存在」はもちろん、他の誰一人、わたわたした素振りを見せるものはいない。皆、じっと落ち着いて、沈黙を守ったまま座っている。
どうやら、この場で語られた話は、例えどんな内容であろうとその場限りで忘れるべきものであり、後に引きずってはならないという不文律があるらしい。
神父さんに向かって犯した罪を懺悔し、許しを請う、カソリック教会の「告解」みたいなものか。でも、いくら「その場限り」の話だからって、こんな誰にも言えないようなこと、そうそう話せないんじゃ……。
そんな感慨?疑問?をいだき、俺は思わず難しい顔になったのだが……その懸念は、すぐに吹き飛ばされることとなった。
「一つの風が吹き去り、また風が吹く。猛る思いを解き放さんと望む者は、これへ」
舞台上で再び端座した「存在」が静かにそう口にすると、客席に座る何人かがすっと立ち上がったのだ。
その中の一人にむかって「存在」が手を差し伸べ、うなずきかける。と、指名されたその客?は、いそいそと舞台に上がり、椅子に座るやいなや、
「えっと、あの、あのですね、き、聞いてほしいんです!私には、ずっと、ずっと、親にも内緒にしてきた秘密があります!私は、私は、女の人そのものより、女の人の靴や、ストッキングが好きで好きで、たまらないんです!」
これまたかなりハードな性癖を告白しはじめたのである……。
15分ぐらいで終わる短い話もあれば、30分以上かかる長い話もあった。が、どの話も、そうそう誰にも打ち明けられないような話であるという点は共通しており、そんな重たい話を続けて聞かせられるうち、俺は、心の中にどんどん黒い疲れが溜まってくるのを感じていた。
が、聞き手の――観客の大部分はそうではないようだった。
話し手が言葉に詰まると、ささやくような声で「頑張れ!」と声援が飛んだり、どこか慎ましげな拍手が湧いたりして、そっと話を促す。いい話――というより、口に出すのもつらそうな、ずんと心にのしかかる話――をどうにか語り終えた人に向かっては、遠慮のない、心からの拍手が贈られる。
自分の子どもなのにどこか疎ましくて、他の兄弟に比べやや素っ気ない態度で接していた長男に自殺されてしまった母親が、自分の後悔や、それでもまだ、息子を好きだと思えない今の気持ちを赤裸々に語った時など、5分以上もの間拍手が鳴り止まなかった。
寄り添い、共に泣き、励まし励まされ、日常生活ではまず経験することのない、濃密な時間。
それを、「演劇」といっていいのかどうかは分からない。が、間違いなくあの日あの時あの場所には、ドラマがあった。
何度公演を重ねようとも、決して繰り返されることのない、その場に居合わせた者にしか決して分からない連帯感が、確かに生まれていた。
やがて。
誰かが告白を終え、樹に供物を捧げると同時に、地の底から響くような鐘の音がごうんと響いた。
「さてはや鐘響く刻限。風はいずこともなく消え、樹のもとを去りゆく。後に残るは風の音の記憶と、そのよすがのみ。よすがを抱きてセレンは静かにたたずみ、眠る……。」
一人舞台に残された「存在」が仰々しいセリフを呪文のように唱え、大樹そのものに成り代わったかのようにしばしたたずむ。
その後、「存在」はやにわに頭のフードをするりとはねあげ、顔をさらすと、
「本日の公演は以上で終了となります。ご来場、ありがとうございました」
劇団の主宰者の顔へと戻り、深々とお辞儀をした。
同時に、劇場内は暗転。次に照明がついた時には、舞台上や劇場の要所要所にスタッフらしき人物がたち、退場の案内をはじめる。
その声に促されるまま、かぶらされた布を脱ぎ捨て、受付で預けた荷物を受け取ると、俺は劇場のすぐ外に出たところで、大きく伸びをした。
入場時にはわずかに残っていた残照は――当たり前だが――すっかり消え去り、どこか物寂しい街明かりの他は、宵闇だけが周囲に満ちている。
時計に目をやると、もう午後9時を回っている。話に耳を傾けている時は気がつかなかったが、いつの間にか、それほど時間が経っていたのだ。
それにしても、重かった……。
数々の告白が脳裏に再び浮かび上がり、肩がどんと重くなる。少しでもその重みを振り捨てようと、力ないため息をつく。
そこへ、
「ごめん、待った?」
花音が、そっと俺の左手をつかんだ。
「少し」
彼女の妙に晴れ晴れとした顔にかすかないらつきを覚えながら、帰途につく。
人通りの少ない、早くも眠りはじめているような街を、他の観客たちと前後しつつ、駅へと歩いていく途中で、
「……どうだった?」
俺の顔をのぞき込むようにして、おそるおそる彼女が尋ねてきた。
途端に、劇場を出た時の疲労感がよみがえり、俺は浮かない表情となる。
「どうって……どうかな」
「どうかなって。面白かった?つまらなかった?」
「……重かった」
正直な感想を口にすると、花音は「もう……!」といいながら、絡めた右手を離し、軽く背中を叩いてくる。
「面白かったかどうか聞いてるのに、それじゃ答えになってないじゃん!」
「しょうがないだろ、それしか思わなかったんだから。面白いとかつまらないとか、そういうことを思っていいのかさえ、よくわかんなかったし」
途方に暮れた声でそう応じると、彼女、「へえ」という感じで目を見開き、なぜだかちょっとうれしそうな様子になる。
「じゃあ、ともかく印象は強かったんだ」
「そりゃあそうだろ。全部、本当の話みたいだったし」
あの話全てが作り物だったとしたら、それはそれで尊敬に値する。それぐらい、リアルな空気が話し手たちからは伝わってきた。
「それなら、無理矢理引っ張ってきてよかったかな。とりあえず、見にきて損した、とは思わなかったみたいだし」
「まあな」
「前に友達連れてきた時は、泣きながら、『もう二度とこんなお芝居に誘わないで!』って怒られちゃったから。あ、いっとくけど、俺君とつきあう前の話だからね」
慌てて花音がそうつけ加えたところからして、無意識のうちに「誰かを俺より先に誘ったのかよ」という不満が顔に表れてしまっていたらしい。ケツの穴の小さいところをしっかり見られてしまい、我ながら、かなり恥ずかしい。
その恥ずかしさをごまかそうと、わざと平気な顔で、
「いや、誰と行こうと構わねえけどさ。そんなにお前、何度もこの芝居、見に来てるのかよ」
そう尋ねる。と、花音はにっこりと笑い、大きくうなずいた。
「うん。私、好きなんだ」
その姿を見て、俺は一つ、確信したことがあった。
先ほどの芝居の話し手の中に、妙に花音に似た話し方をする女がいて、ずっと気になっていた。
その女は「皆さんに比べると、軽い悩みなんですけれど」と前置きした上で、友人関係の不器用さについて話し出したのだ。
曰く、結構誰とでもすぐ仲良くなれるのだけれど、しばらくするとすぐにぎくしゃくしてしまう。
私自身は、せっかく仲よくなれたのだから、どんどんその関係を深めて、できれば悩み事を打ち明けたり、お互いの嫌なことを指摘し合ったりという仲にまでなりたいのに、ちょっとでも距離を縮めようとすると、皆こわばった顔で身を躱し、それからよそよそしい態度しか取ってくれなくなってしまう。
一人で悩みを抱え込んで生きるのは寂しいと思うのに、誰も分かってくれない。みんな、うわべだけの付き合いは上手だけど、それで満足できているのか。それで満足できない自分はおかしいのだろうか……といった内容の話で、最後にその女は、その友達からもらった誕生日プレゼントだというオルゴールを樹に捧げ、退場したのだった。
話す時に両手が大きく動いてしまう癖や、やや語尾に力を入れる話し方、歩く時のポテポテとした感じなど、妙に見慣れた感じがしていたのだが……おそらく間違いない。あの打ち明け話をした女は、花音だ。
だが、これがあの芝居のシステムのいやらしいところだが、どれだけ強く確信したところで、その姿を姿を布で覆い隠し、声を変えている以上、100%「あれは花音だった」と言い切ることはできない。本人を問い詰めたところで、白を切られてしまえばそれまでだ。
だから、
「そうか。まあ……それじゃあ、次またいきたくなったら、まず俺を誘えよ。時間の都合がつくならつきあってやるから。それから、悩み事なんかもあれば、俺に話せよ。時間があれば聞いてやるし」
ぶっきらぼうにそう伝えるだけが精一杯だった。
だが、それだけでも花音は十分うれしそうで、「うん!」と元気いっぱいにうなずき、俺がよろけるぐらいの勢いで飛びついてきたのだった。
それからというもの、花音は毎晩のように通話を求めてくるようになった。
初めのうちこそ、「どうしたの?」「ううん、なんとなく声が聞きたくなって。ごめん、迷惑だった?」「いや、全然」というような、いかにもバカップルが交わしてそうな意味のない、ただただ甘いだけの会話を繰り返していたのだが、すぐにその様相が変わってる。
「ねえ、聞いてくれる?今日ちょっとバイト先で失敗しちゃって」
「ねえ、今日サークルの同期の子に『花音って本当に変わってるよね』ってまた言われたんだけど、どういう意味かな?」
「今日教授から怒られちゃったの。君は本当にやる気があるのか、って。そりゃ、演習できっちり下調べできなかったのは私が悪いけど、そこまで言わなくてもいいと思わない?」
通話をつなぐなり、些細なことから大きなことまで、悩み、悩み、悩み。
一通りそれらに耳を傾けた上で、自分が思った通りに「それは、お前が悪いよ」とか「それは言いすぎだろう」とかを口にすると、その途端「あ……うん、そうだね。そうだと思う」声は小さくなり、口調は平板になり、そして「ごめん、やることあったの思い出した」などと、早々に通話を切ってしまう。
だからといって「そうか。大変だったね。気にすることないよ」などと、花音が求めているであろう返事をすれば「うん。でも、本当にそうなのかな?そんなんで、これからさきうまくやっていけるのかな?」などと、どう返答しようか困る問いを延々と、自分の気持ちが軽くなるまで投げつけ続けるのだ。
時には俺自身、疲れていて、素っ気ない返事をしてしまうこともある。と、花音はそれをめざとく聞きつけ、
「あ、ごめんね、疲れてる時に……ごめんね」
涙交じりの声でそういうと通話を打ち切り、こちらが気になってかけ直さないではいられない状況を作る。あるいは、俺自身悩みを抱えており、相談を持ちかけると、「ごめん、私そういうのよく分からなくて。それよりも聞いてほしいの。今日ね……」と、すぐに自分の話へ没入していく。
結局この女は、俺を都合のよい「悩みのゴミ捨て場」と無意識に見なしている。この女の言う「悩みを打ち明けられる相手」とは、あくまで一方的に自分が甘え、寄りかかれる存在なのだ。
そう気づいてしまうと同時にすうっと気持ちが冷め……通話の応対も、自然素っ気ないものになった。
花音は慌てて「ねえ、最近冷たくない?」だの「どうかしたの?私なんかやらかした?」だのと、うるさく尋ねてきたが、それにも素っ気なく対応し続けているうち、毎日だった通話が、二日に一回、三日に一回と減っていき、やがて、月に1回もかかってこなくなった。
その頃ちょうど、俺自身もバイトやら新しいボランティアサークルの立ち上げやらゼミでの研究発表やらが続き、かなり忙しい生活を送っていたところだった。なので、最近花音から通話かかってこなくなったな、とは思いながらも、ずっと放っておきっぱなしにし、目の前に次々現れる雑事をこなすことだけに夢中になっていた。
あまりにつれないからと言う理由で自然消滅することになったとしても、それはそれで好都合だと、あえて自分からは連絡しなかったのである。
そんなこんなで三ヶ月が過ぎ、もはや自然消滅は確定かなと独り決めし、新たに立ち上げたサークルでできた気になる女の子とも数回デートを重ね、そろそろつきあおうか、となりつつあった頃。俺の目の前に、一人の女が現れたのだった。
「俺さんて、いますか?」
部室で次のボランティア計画について皆と話し合っていたところに突然現れたその子は、傍目にもはっきり分かるくらい、険しい目をしていた。
つっけんどんな口調に若干気圧されながら「……俺だけど」と答えると、その子はそれまで以上に険しい、親の敵でも見るような目で俺をにらみつけながら、
「ちょっとつきあってもらえますか?」
早口でそう口にする。
その剣幕に対抗できるはずもなく、おっかなびっくり付き従って外へ。どこか喫茶店かファミレスにでも入るのか、と思っていたら、学内の、やや人がまばらな池のほとりで、彼女はいきなり振り向く。
「俺さん。一体どういうつもりなんです?」
そう聞かれ、面食らったまま「え、一体なんのこと?」と聞き返すと、彼女は大きくため息をついた。
「なんのことって、決まってるじゃないですか、花音です!」
「え?花音?アイツがどうかしたの?」
「もう!彼女が今どうなってるか、知らないんですか?」
「全然連絡ないし、サークルにも顔出さないし、もう俺のことなんてどうでもよくなったんじゃないかと思ってたんだけど」
「違いますよ!彼女、俺さんをずっと待ってるんです!」
「待ってる?俺を?それって一体どういう……」
そこでようやく、彼女は詳しい事情を話してくれた。
自分は、大学に通いながら、花音と一緒に観に行ったあの公演を行っている劇団に、スタッフとして参加していること。その劇団は、劇場を借りて大々的に行う本公演の他、さびれた倉庫街にある自分たちの事務所兼稽古場で、熱心なファンを集め、毎日のように「稽古場公演」を行っていること。その稽古場公演に二ヶ月ほど前から、ずっと花音が参加し続けていること。
「花音、毎回毎回必ず舞台に上がって、あなたの話をするんです。どれだけあなたのことが好きか。どれだけ尊敬しているか。なのに、つい甘えすぎてしまって、どれほど迷惑をかけたか。本当は支えてあげたかったのに、自分が弱くて、すぐ折れてしまいそうになるから、つい寄りかかってしまったこと。そして毎回毎回、自分がどれだけ弱くてダメな人間か話し、そんな自分と決別すると言っては、いろんなものをセレンに供えて、号泣しているんです。そこまでして、もう一度あなたとやり直したい、あなたと一緒に過ごしたいと思ってるんですよ?健気だと思いませんか?それなのにあなたは花音のことまるでほったらかしにして、なにをやってるんです?」
目に涙を浮かべ、体を震わせながら声を絞り出すその様子から、彼女のいっている言葉に嘘はないとすぐに分かった。
そうか……花音、そんなに俺のこと……。
不思議な感動が、胸の内から湧き上がる。そして同時に、そこまで俺のことを思ってくれていた女を放っておいたことに、罪悪感がつのる。
「お願いです。彼女を、迎えに行ってあげてください。ずっとずっと、あなたのことを待ってるんです」
「分かった。どこに行けばいい?」
「ご案内します」
再びきびすを返した彼女に付き従い、俺は急ぎ足で大学を後にしたのだった。
その後のことは、まるで夢の中の出来事のように思える。
スタッフを名乗る彼女の後についてとある倉庫跡にたどり着くと、今まさに俺とのつらい恋愛について、花音が告白しているところだった。
あらかじめ聞かされていたとおり、花音は、布もなにもかぶらず、普段着のまま、舞台に上がっていた(稽古場公演には「気心の知れている仲間」しか来ないから、ということから、そういうルールになっているのだそうだ)。
顔中を涙でぐちゃぐちゃにしながら、でも精一杯の笑顔を浮かべ、唇をわななかせ、身を震わせて俺への気持ちを訥々と語り続ける花音の姿は、神々しいまでに感動的で、俺は思わずその場に跪き、目から熱い涙を流していた。
「花音!俺君、来てくれたよ!」
案内してくれたスタッフの子がそう声をかけると、花音ははっとした表情で両手で口を塞ぎ、二、三歩後じさる。
「花音……」
俺も、そう声をかけるが、後が続かない。
ふたりが、黙って見つめ合っていると、観客やスタッフから、がんばって、勇気出して、きちんと声かけてあげて、などという優しい声が、小さく耳朶を打つ。
それらの声に励まされつつ、俺は必死に声を振り絞る。
「花音。ごめんな。俺……俺は全く気づいてなかった。お前が、こんなに一途に俺のこと、思ってくれてたなんて」
「ううん……あの……私こそごめんなさい。ずっと、ずっと頼りっきりで……」
「いや、俺こそ、お前を支えられなかった。自分が情けないよ」
「ううん、そんなことない……ありがとう、きてくれて」
「当たり前だよ!今まで放っておいて、本当にごめん!」
二人同時にわっと泣き出しながら、舞台上で、俺と花音は固く抱き合う。
嵐のような拍手と歓声。
それに答え、俺たちは静かに頭を下げる。
「皆さん、済みませんでした!そして、今まで花音のことを支えてくださって、本当にありがとうございました!これからは……俺がコイツを支えます。もう二度と、寂しい思いなんかさせません!」
「私も、私も……もっと強くなって、俺君に迷惑かけてばかりじゃなくて、対等の関係で話ができるようになれるよう、がんばります!」
「本当に、ありがとうございました!」
もう一度頭を下げ……それから、俺たちは互いに向き合うと、鳴り止まぬ拍手の中、ゆっくり舞台を下り、劇場を後にし……互いにずっと見つめ合ったまま、家まで帰ったのだった。
それから2年も経たないうちに、俺は花音と別れた。
あれからすぐ、俺たちは勢いのまま、半同棲のような感じでほぼ一緒に暮らしはじめた。だが、花音はそれでも安心できなかったのか、大学やサークルで遅くなるたび、朝に「遅くなるよ」と告げていたにもかかわらず、今日は一体なんで遅くなったのか、どんなことがあったのか、なんをしてきたのかと、根掘り葉掘り、どんな細かいことでも聞きたがった。そして、聞き出すだけ聞き出すと今度は、今日はスーパーでなにが安かっただの、公園でかわいい犬と出会っただの、すごくいい雰囲気の喫茶店を見つけただの、どうでもいいことを微に入り細にうがって話したがったのだ。
毎日毎日続く、告白と傾聴。今日は家でやることがあるから、と机に向かっても「聞くだけ聞いててくれればいいから」と横で延々話し続ける。気が散るから黙っててくれ、と言えば、涙目でうなずくものの、深夜、ようやく作業が終わって寝床に入ると、待ってましたとばかりに話し始める。
ワンルームの狭いアパートでは逃げ場もない。情け容赦なく襲いかかる重たい言葉の数々にいい加減うんざりした俺は「卒業研究に集中したいから」というのを口実に、花音を迎えに行ってから半年後、また別々に暮らすようになった。
すると花音は、離れたことでまた不安に襲われるようになったのか、毎晩毎晩、電話をかけてくるようになった。
今忙しいから、と短時間で切ろうにも、もう少し、お願いだからもう少しと粘り、自分の話したいことを話し終えるまで、決して切ろうとしない。電話に出なければでないで、延々とコールし続けるし、それでも出ないと、家に押しかけてくる。
もちろんメールは一日中、のべつ幕なし送ってくるし、返信しないとすぐさま追撃がくる。それでも無視していると、今度は通話のコール。それもしばらく無視した後で出れば、「よかった!どうして無視するの、心配したじゃない!」と泣きじゃくる。
それでも、なんとか1年、我慢したのだ。だが、なにがなんでもつながっていないと――それも、自分に都合よく、心地よくつながっていないと気が済まない彼女と、この先ずっと一緒にいて、支え続けるのは無理だ、と思った。現に、大学院へ進学するつもりが、花音の「お願いだから」攻撃に妨害され、院試に落ちてしまっていた。この先も同じようなことがずっと繰り返され、俺の将来がどんどん狭められるのか、と思うと、到底我慢できなかったのだ。
で……大学卒業と同時に、全ての連絡手段を断ち切り、俺は彼女の前から完全に姿を消した。
その後の噂によると、花音はしばらくの間、半狂乱になって俺の行方を捜していたそうだ。
だが、こうなるまでの間、俺がどれだけ彼女の怒濤の「聞いて守って慰めて」攻撃に悩まされてきたか、よく知っている友人たちは、ありがたいことに揃って沈黙を守ってくれた。
それでもなお、彼女はありとあらゆる手段を使って俺を探そうとしていたようだが、ある時から、ふっと姿を見せなくなったそうだ。
それまでずっと、毎日のように泣きじゃくりながら大学内や近くの商店街をほっつき歩いたり、行きつけの喫茶店やバーで泣き崩れていたのが急にいなくなったことで、周囲は(それなりに)心配した。が、「私哀れな女なの」アピールを連日連夜繰り広げていた迷惑な女がいなくなってくれたことで、周辺一帯に平和が戻ったこともまた明らかで……花音は速やかに、皆から忘れられていった。
そのせいで、彼女がその後どうなったか、はっきりしたことはなにも分からない。
だが、俺にはなんとなく、予想がついている。
花音はおそらく、あの劇団に戻ったのだ。
あの劇団の、あの芝居の舞台に立ち、毎晩毎晩、自分の「つらい恋愛」について、自分の至らなさについて涙を流しながら語り、同じ「つらい悩みを抱えた」スタッフや観客から、慰めや励ましの言葉をもらって、ぐしゃぐしゃの顔に笑みを浮かべているに違いない。
互いに傷をなめ合い、抱き合って支え合うことで、「そのままの自分」を肯定し合い、一切の成長を拒む。甘ったるい、保育園のような狭い社会で、なんの役にも立たないご神体の樹木にすがり、ぬくぬくと「悩み」をなめ合い、しゃぶりあうことがなによりの幸福と考える人たち。
花音は、その気持ち悪い集団に絡め取られ……再びその仲間入りを果たしたのだ。
……勝手にやっててくれ。俺はもう、つきあっていられない。
会社に入り、仕事を覚え、新しい付き合いを増やしていくだけで、今は精一杯。甘ったれた女のシモの世話までは、とても手が回らない。
俺は、一人の大人として、自分一人で立ち、社会で生きて行く。
さようなら、花音。