4. 悔恨の檻 (2)
それからマグリットのデビュタントを迎えた。
貴族の子女たちが集まる華やかな宴の中、ある疑問がささやかれ始めた。
「エレノーラ様はどこに?彼女もデビュタントではないの?」
「ええ?妹なんていたかしら?」
噂は瞬く間に広がっていった。
それとほぼ同時に、リュカ――かつて納屋に出入りしていた庭師の青年が王都で「懺悔」を口にする。
神殿の司祭に向けて、リュカは静かに語った。
エレノーラは納屋に隔離され、与えられたのは干からびたパンと水だけ。
誰からも声をかけられず、熱を出しても放置され、冬には凍える寒さに震えていた――。
あまりにも非人道的な、地獄のような日々だった。
「……俺は、止められなかった」
彼の言葉には、自責と後悔がにじんでいた。
「階段の下でエレノーラ様は……血を流して、かすかに息をしていました。でも……もう、声を出すこともできないくらい、弱っていて……」
必死に駆け寄り、助けを呼ぼうとした。
だけど――
「使用人たちが、彼女を抱え上げて……そのまま、どこかへ運び去ってしまったんです。俺は、止められなかった……!」
リュカは唇を噛みしめた。
「その後、何度も彼女の姿を探したけれど……どこにもいなかった。
誰に聞いても“そんな子はいなかった”としか言わない……」
「まるで最初から、いなかったことにするみたいに……」
その証言が騎士団の耳に届いたとき、とある老人がすでに封鎖されたカーヴェル家の旧邸にて、古い石造りの枯れた井戸の底から白骨化した少女の遺体を見つけてきた。
衣服の破れた布に、カーヴェル家の家紋、少女のものと思われる長い髪、歯並び、骨格の特徴――
それは、間違いなく“カーヴェル家の令嬢・エレノーラ・カーヴェル”のものだと判定された。
かつてこの屋敷の正統な令嬢として生まれ、
だが家族にも、使用人にも見捨てられ、
その死さえ隠されようとしていた少女の、最期の場所だった。
マグリットはその後も、使用人たちを次々と追い詰めていた。
気に入らない者は辞めさせ、周囲には自分に従う者しか残そうとしなかった。
だが、その傲慢さが仇となり屋敷を追われた使用人たちが、次々と口を開いたのだ。
「あの屋敷では、本当に何かがおかしい」と。
噂は、やがて真実の影を帯びて広がり、騎士団による強制捜査が開始された。
信じていた“真実”が、音を立てて崩れていく。
守ろうとした従妹の涙は演技で、
切り捨てた妹の悲鳴こそが、本物だったのだ。
騎士団による強制捜査ののち、王都中でカーヴェル家の醜聞は広まり、やがて調査はマグリットの出生や過去にまで及んだ。
マグリットの両親は事故死ではなかった。
実の娘の異質さを親として危険だと判断し、マグリットを修道院にいれようとしていた。それを知ったマグリットは自らの手で、ほんの少し馬車に細工した事が明らかとなった。
すべてが崩れた。
今や、カーヴェル家を擁護する声はどこにもない。
気づけば、名門と謳われた一族は、王都の笑いものとなっていた。
そして、牢の中。
床に伏し、うわ言のように妹の名を繰り返す男がひとり。
「エリー……エリー……」
彼女がまだ、兄を“信じ、慕っていた”あの頃。
庭で共に笑った日々。
髪を結ってやると、照れながら逃げたあの日のこと。
それらすべてが、もはや手の届かない遠い記憶だった。
涙を拭うことすら忘れて、彼は床に崩れ落ちーーー
「……え?」
カルザラットが目を開けたとき見慣れぬ天井があった。
違和感を感じたカルザラットは飛び起き、辺りを見渡す。
窓の外から聞こえるのは、マグリットの笑い声。
季節の匂い。木々の緑。
見慣れた屋敷の、自室。
だが、確かに“何か”が違う。
「これは……」
理解が追いつかない。だが、胸が熱くなる。
――やり直せる。
エリーを救える。もう、何もかも失わずに済む。
彼は部屋を飛び出した。
途中同じく部屋から飛び出してきた父と母と共に懐かしくも、遠ざかっていた廊下を駆け抜ける。
「エリー……!」
妹の名を、呼んだ。
今度こそ正しい未来を歩むのだと胸に抱いて。
*
そして現在のカルザラットは、膝を抱えたまま牢にうずくまり、嗚咽を漏らしていた。
「やり直せるはずだったのに……っ」
一度の人生は夢だったのか、それとも与えられた“救済”だったのか。
ただ確かなのは、あのとき彼は確かに叫んでいた。
もう二度と、妹を手放さないと。
「エリー……ごめん、ごめんな……!」
返事はない。
彼が叫ぶその名は、もうこの世界には存在しない。
ただ、悔恨だけが――牢の中に、沈殿していく。
あの夢は、せめてもの罰だったのか、それとも――。