『食管法廃止と米の行方一倉庫管理者の証言』
『食管法廃止と米の行方一倉庫管理者の証言』
##プロローグ:山積みされた米袋
1994年秋、千葉県の松戸食糧事務所の倉庫内部は、白い米袋が天井近くまで積み上げられていた。広々とした倉庫内には、全国各地から集められた米が整然と並び、在庫管理のために厳格な温度・湿度管理が施されていた。
野村隆志(当時45歳)は、この倉庫に出入りする燻蒸技術者として、17年間にわたり政府米の品質管理を担当してきた。彼は「フジ倉庫」という中小の倉庫業を営む会社に所属し、害虫や微生物から米を保護するための燻蒸作業の責任者だった。
「当時は、食糧事務所の倉庫に入るだけでも身分証明書を提示して、記録をつけなければならなかった」と野村は振り返る。「それほど、米は国家にとって戦略物資だったんですよ」
しかし、その日の作業終了後、食糧事務所の佐々木課長が彼に重要な情報を伝えてきた。
「野村さん、来年、食管法が完全に廃止されるよ。この食糧事務所も、今の形ではなくなるかもしれない」
その言葉を聞いた野村は、複雑な思いに駆られた。戦後の日本の食料安全保障を支えてきた食糧管理法が廃止されるという現実が、彼の目の前に迫っていたのだ。
## 第一章:食管法と共に歩んだ日々
野村が食糧事務所との関わりを持ち始めたのは1977年、彼が28歳の時だった。大学で農学を専攻した後、縁あって燻蒸技術を学び、フジ倉庫に就職した。当時の日本は、すでに経済大国への道を歩み始めていたが、戦後の食料難の記憶はまだ社会に残っていた。
「私の父は、戦後の食料難を経験した世代でした。家では『米一粒、塩一粒』という言葉がよく聞かれました。食べ物を大切にする、その教えは私の血肉になっています」と野村は言う。
当時の食糧事務所は、食管法の下で全国の米の流通を一元管理していた。農家は収穫した米を政府に売り渡し、政府はこれを適正価格で消費者に分配するという仕組みだった。野村の任務は、その保管中の政府米が虫やカビの被害を受けないよう、定期的に倉庫内を燻蒸処理することだった。
「月に何度か、夜間に倉庫を密閉して燻蒸ガスを注入する作業を行っていました。朝になると倉庫を開放し、ガスを排出させる。この繰り返しです」と野村は当時の仕事ぶりを説明する。
食糧事務所の仕事は規則正しく、厳格だった。米の品質検査、保管方法、出庫手続きに至るまで、すべて法律で定められた手順に従って行われていた。野村にとって、その秩序正しさは安心感をもたらしていた。
「食糧事務所の職員たちは、本当に真面目でした。彼らは単なる公務員ではなく、国民の食を守る『食の番人』という誇りを持っていました」
## 第二章:変化の予感と不安
1980年代後半から、食管法を取り巻く環境に変化が訪れ始めた。米の消費量は減少し、生産量は増加していった。いわゆる「米余り」の時代の到来である。政府は米の生産調整(減反政策)を進め、農家に耕作面積の削減を求めるようになった。
この頃から野村は、食糧事務所内での会話の変化に気づき始めていた。
「以前は『いかに公平に分配するか』という話題が中心でしたが、次第に『余った米をどう処理するか』という話題が増えていったんです」と野村は回想する。
1993年、日本は記録的な冷夏に見舞われ、米の不作が発生した。政府は緊急措置としてタイなどから米を輸入したが、国産米と品質や味が異なる輸入米は消費者から不評を買った。いわゆる「タイ米騒動」である。
「あの年は大変でした。食糧事務所も対応に追われていましたね。でも、私にはこれが食管法の限界を示すものではなく、むしろ食料安全保障の重要性を再確認するものだと思えたんです」
しかし、時代の流れは食管法の廃止へと向かっていた。国際的な自由貿易の流れ、財政負担の軽減、市場原理の導入を求める声が高まっていた。
1994年末、食糧事務所での打ち合わせの場で、野村は佐々木課長から食管法廃止の具体的なスケジュールを聞かされた。
「実は来年の10月末で食管法は廃止されて、新しい食糧法に移行するんだ。我々食糧事務所も統廃合されるし、政府の役割も大きく変わる」
野村はこの知らせに衝撃を受けた。「本当にそれでいいのでしょうか」と問いかける野村に、佐々木課長は複雑な表情を浮かべた。
「時代の流れだよ。政治的にはもう決まったことだ。でも正直、食料の安全保障という観点では心配だな」
## 第三章:廃止後の現実
1995年10月31日、食糧管理法は正式に廃止され、新たに「食糧法」が施行された。食糧事務所も再編され、その多くは統廃合された。野村の関わっていた松戸食糧事務所も、規模が縮小され、やがて完全に閉鎖された。
野村の会社・フジ倉庫にも影響が及んだ。政府米の保管業務が減少したため、民間の倉庫業務へとシフトせざるを得なくなった。幸い、野村の燻蒸技術は民間でも需要があり、何とか仕事を続けることができた。
「食管法廃止後、私たちの仕事の性質は大きく変わりました。以前は国の指示に従い、決められた手順で粛々と業務を行っていましたが、廃止後は民間企業との契約ベースの仕事になり、コスト競争も激しくなりました」
野村は時々、元食糧事務所の職員たちと飲みに行くこともあった。彼らの多くは農林水産省の別部署に異動していたが、中には民間企業に転職した人もいた。
ある夜、元食糧事務所の小林元課長と酒を酌み交わしながら、野村は本音を漏らした。
「小林さん、本当にこれでよかったんでしょうか。食管法がなくなって、日本の食料安全保障は大丈夫なんでしょうか」
小林元課長は深いため息をつき、こう答えた。
「野村さん、僕も正直言って不安だよ。確かに食管法は古い制度で、非効率な面もあった。でも、食料は単なる商品じゃない。国民の命に関わる問題だ。市場原理だけに任せていいのかな。特に、これから世界の食料事情が厳しくなる可能性があるのに...」
## 第四章:予言的な危惧
2000年代に入り、野村は50代となった。この頃から彼は、自分の子供たちや若い社員に向けて、食料安全保障の重要性を説くようになっていた。
「日本の食料自給率はどんどん下がっている。世界的な気候変動や人口増加で、将来、食料争奪戦が起きるかもしれない。そのとき、日本は大丈夫なのか」
彼の周囲の人々は、そんな野村の心配を「杞憂」と笑い飛ばすことが多かった。2000年代前半は、グローバル化による恩恵が強調され、「世界から安く食料を買えばいい」という考え方が主流だった。野村の警告は、時代遅れの保守的な意見として受け止められがちだった。
「あのころは、私も時々自分を疑いました。みんながグローバル化のメリットを語る中で、『食料は国産で』と言うのは、古い考え方なのかと」
しかし野村は、そんな周囲の反応にもめげず、自分の考えを貫いた。彼は自宅の庭で野菜を育て始め、地元の食料自給運動にも参加するようになった。また、彼の会社では、地元の農家と連携して米の保管・流通システムの改善にも取り組んだ。
「企業としても、日本の食料基盤を守ることが長期的には利益になると信じていました」
## 第五章:危惧が現実となった日
そして2022年、野村の不安は現実のものとなった。ロシアのウクライナ侵攻に伴う世界的な穀物危機、異常気象による不作、円安の進行などが重なり、日本国内の食料価格は急騰した。特に米価は大幅に上昇し、多くの消費者を苦しめるようになった。
73歳になっていた野村は、テレビのニュースを見ながら、30年前の自分の危惧が的中したことに、喜びではなく深い悲しみを感じていた。
「予想が当たって嬉しいなんて、まったく思いません。むしろ、こうなってほしくなかった。でも、残念ながらこれは現実です」
あるテレビ番組で、食料安全保障の専門家が「食糧管理法の時代に戻るべきではないか」という議論を展開しているのを見て、野村は感慨深くなった。
その夜、野村は自宅の書斎で古いノートを取り出した。それは、食管法廃止直後から彼が書き綴ってきた記録だった。その中には、元食糧事務所の職員たちとの会話や、彼自身の考察が詳細に記されていた。
日誌より抜粋
1995年11月15日
今日、佐々木さん(元食糧事務所課長)と話した。「30年後、日本人は食管法廃止を後悔するかもしれない」と言っていた。私もそう思う。米は商品ではなく、国民の命の源だ。市場原理だけでは守れない価値がある。
そして、その下に2022年の日付で、野村は新しい一文を書き加えた。
日誌より抜粋
2022年9月10日
佐々木さんの予言は当たった。今、多くの人が食料安全保障の重要性を再認識している。しかし、失われた30年間の間に、日本の農業基盤はすでに大きく傷ついてしまった。今からでも遅くない。新しい形での食料安全保障制度を構築すべきだ。
## エピローグ:未来への希望
翌朝、野村は地元の農協が主催する「食料安全保障を考える市民フォーラム」に参加した。会場には若い世代も多く集まっており、彼らの真剣な表情に野村は希望を見出した。
フォーラムの後、一人の若い女性が野村に話しかけてきた。彼女は地元の農業大学の学生で、卒業論文のテーマとして「食糧管理法の歴史的意義と今日的課題」を選んでいるという。
「野村さん、当時の食糧事務所での体験をぜひ聞かせていただけませんか?」
野村は快く承諾し、彼女にこう語りかけた。
「若い人たちが食料問題に関心を持ってくれるのは嬉しいことです。過去の経験を単純に懐かしむのではなく、そこから学んで未来に活かすことが大切です」
学生は熱心にメモを取りながら、野村の話に聞き入った。
「食糧管理法が廃止された当時、それは『時代の必然』と言われました。確かに古い制度には問題もありましたが、その根底にあった『食料は国の安全保障』という考え方は今こそ大切だと思います」
若い世代との対話を通じて、野村は新たな希望を見出していた。彼の経験と記録は、次世代の日本の食料政策を考える上での貴重な証言となっていた。
帰り道、野村は夕焼けに染まる田んぼを眺めながら考えた。時代は一直線には進まず、振り子のように揺れ動くものなのだと。かつては古い制度として批判された食糧管理法の理念が、今再び見直されていることに、歴史の皮肉と深遠さを感じずにはいられなかった。
「時々で良いと思ったことは、必ずしも正しいとは限らない」
野村はそう呟きながら、夕陽に照らされた稲穂の輝きを、静かに見つめ続けた。彼の目には、日本の食料の未来への、複雑な思いが映し出されていた。