第一章 天才児と問題児と奮闘記(後編) その3
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あの少年が走り去って行って、もう二十分ほど経つ。
ゆんは未だに通りにへたりこんだままだった。自分を心配して手を差し伸べてくれる人が幾らかいたが、無視した。手を引いて起こしてくれるのは、ただ一人だと思ったからだ。
それまで、自分はずっとここで待つつもりだ。そう、ずっと。
ゆんは、さっきから顔を伏せていた。その目線の先にあるアスファルトは、雨に打たれたかのように濡れている。
その涙には、多数の感情が篭っていた。
『ああそうだよ! お前の言うとおりですよーだ! 俺はどうしようもないバカちんですよー! あなた様のだいっ嫌いな真堂守哉君ですよっ!』
『ああ、もういいよ! 本当に俺が馬鹿だったよ、自分でも思う! ああくそ! お前なんかに会いたいとか思わければよかった!』
後悔、嬉しさ、悲しみ。だい嫌いなんて言わなければよかった。会いたいと思ってもらえていて嬉しかった。それを後悔されて悲しかった。
でも、一番強いのは、感謝。
『すぐに取り返してやる! そこ、動くなよ!』
それでも、自分のために悪い人を追いかけて行ってくれた。それは、ありがとうじゃ足りないほどの、ありがとう。
これで彼がバッグを取り返してきてくれたら、自分はどうすればよいのだろう。ヤギちゃんは「ありがとうございます」しなきゃいけないって言ってたけど、上手く言えるか心配だな。
「あり、がとう……ひっく、ごじゃいまひゅ……!」
呟いたけど、やっぱりダメだ。なんでだろうな。今日、本当はお礼してさよならのつもりだったのに、もっとお礼しないといけなくなっちゃった。
かみやは、偉大。偉大な人には二人っきりの時にお金をプレゼントするものだってヤギちゃん言ってたから、自分の力で稼いだお金をかみやにプレゼントするつもりだった。でも上手くいかなかった。かみやを怒らせてしまった。ヤギちゃんは「ごめんなさい」しなきゃいけないって言ってたけど……。
「ご……めん、なひゃい。……あう」
これもダメだった。本気で号泣してしまいそうだ。
その時、ゆんの頭に軽くて柔らかい何かが落ちてきた。
「あたっ。……?」
頭に乗っている物を取ってみる。それは、彼女の小さなポーチだった。
「よっ。取り返してきたぜ」
上から響いた声に、ゆんは反射的に顔を上げる。
「……か、み」
「おう。……ってどうしたあ!? おめめが真っ赤になってんぞ! いくらなんでも泣き過ぎだろっ! ほら、取り返してきてやったんだから、もっとわら」
「あ、ありがとうごひゃいまふっ!」
「興奮しすぎだろっ! 呂律が回ってないっすよ、お宅」
守哉は冷静に突っ込んできた。いきなりなんだ、という表情だったが。これじゃいけない。感情が伝わってない。
「ごめなひゃゆっ!」
「ええ!? なんて言ったの!? 何語デスカ!?」
今度は意味すら伝わらなかった。
「で、でも、本当に嬉しいから……」
守哉は、言葉を詰まらせた。しばらくして、なぜかわざとらしく咳払いをした。
「ごほごほん! と、とにかくっ! もう用は済んだからなごほん!」
守哉は咳払いを続けながら、そこから立ち去ろうとした。あっ。まずい。
「かっ、かみや!」
「な、何だよ……?」
振り向いた顔が何で嬉しそうだったのかは知らないけど、とにかく、あれを渡さなきゃ。偉人に渡すプレゼント、「わいろ」って言うらしい。
ゆんはポーチから……ではなく、知らない間にスカートの布に隠れていた五十万の封筒を取り出した。守哉が「えええ!? そこにあったの!?」て絶叫してるけど、知らない。ポーチに入っているのは自分が大好きなお菓子である。
「こ、これ! お礼! 五十万!」
ゆんは、まるでラブレターを渡すかのごとく、守哉に「わいろ」を差し出した。
守哉は口をあんぐり開けて驚いている。嬉しすぎ……たのかな?
「お前、これ……お礼って言った?」
「? う、うん。そうだよ。お礼、わいろだよ」
守哉はさらに口をあんぐりした。電波系、とか呟いた気がしたけど、気にしない。
「ゆ、ゆ――――んッ!」
守哉は叫んで、ゆんの肩を掴んだ。
「は、はういっ! な、なに?」
感動したのかな、とゆんは嬉しくなったりしたが、次の一言はそれらを全てぶち壊した。
「こんなことしたらダメだろっ!」
「は、ひゃいっ!……って、え? え?」
ゆんは全く状況が掴めない。わいろってダメなことなの? と常識的にちょっとヤバいことを疑問に抱きながら、ゆんはとにかくきょとんとしている。
「あのな、お前はまだお金の大切さとかいまいち分かんないのかもしれないけど、お金はホイホイ他人にやっていいもんじゃないし、あと、お礼が現金ってのはちょっと痛いぜ」
「ほー、ふむふむ」
「だから、お礼ってのはもっと、お金じゃない物でするものなんだぞ」
「う、うん」
「例えば、服とかアクセサリーとか」
「うんうん」
「日用雑貨とか」
「ふんふん」
「メシとか」
「ほうほう。……ん! それだあ!」
「……え?」
ゆんはいいことを思いついた。そうだ、あそこに連れて行こう。守哉は一人暮らしらしいし、もしかしたら……なんてことを考えながら。
「かみや、ゆんについて来てくれる?」
「お、おう」
返事を聞くと、ゆんは携帯電話を取り出した。「なっ! それは、非貧乏の証! お前、貧乏じゃなかったのか!?」とか叫んでるけど、相手にしてられない。
ぴぴぴっ、と番号をリズム良く押すと、ワンコールする前に相手が出た。
『どうなされました? お嬢様。もしかして、また誰かにご馳走なされたのですかな』
「じいやん、迎えきて! 今すぐ!」
『かしこまりました。すぐに迎えを寄こします』
ぴっ、とボタンを押して通話を切ると、「な、なあ」と守哉が話しかけてきた。
「さっき、誰と話してたんだ?」
「じいやんだよっ。ゆんのお家の使用人リーダーなんだよ」
ふふん、と胸を張るゆん。対して、守哉は今までで一番口を大きく開けていた。
「使用人……お前んちってもしかして……」
守哉が何かを言い終える前に、ゆん達の真横でキキキィッ! 勢いのあるブレーキ音がした。見ると、黒光りする細長い車体がそこにはあった。金持ちの象徴、リムジンである。
「……そろそろ顎が外れてしまうんじゃないかなあ」
ゆんは唖然とする守哉の手を引っ張る。
「いこ、かみや!」




