第一章 天才児と問題児と奮闘記(後編) その1
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夕暮れ時の空が、どこか悲哀を含んだ切なさを訴えかけてくる。
守哉は先ほどまで歓声に包まれていたステージの上に立って、その茜色を眺めていた。観客はもうほとんど帰って、広場には大会のセットだけがぽつんと立っている。
彼の手に五十万は握られていない。彼は決勝戦で負けてしまった。賞金が取れなかったことより悲しいのは、自分の頭脳が、たった一人の女子高生の運に負けてしまったことだ。
今までその頭の良さだけが自分の存在理由だった彼にとって、それはまるで自分の存在を全否定されたように感じられる。
その空しさは、その相手が相手だけに、より一層強さを増していた。
当の本人は手にある分厚い封筒を彼に見せつけながら、満足そうに帰っていった。
悔しさと、悲しさと空しさがぐちゃぐちゃに混ざりあって彼の頭をいっぱいにしていく。
いてもたってもいられなくなり、守哉は逃げ出すようにその場から去った。
彼は酷いぐらいに疲れきっていたが、それでもおなかは空いていたのである。もやし一パック五円の激安スーパーへと彼は歩みを進めた。
そしてその途中だった。彼女と出会ってしまったのは。
「あ……かみや」
「ゆ、ゆん……」
最高にバッドタイミングだった。ついさっき自分のトラウマを作った人間が、道端でばったりひょっこり出現したのだ。
帽子を外した彼女は未だに五十万の封筒をポーチに入れないで、さも大事そうに握り締めていた。だが、守哉はそれよりも彼女の表情に目を奪われていた。いや、奪われていた、というよりは伺っていた、のニュアンスに近い。
しばらく、ぽかん、としていたゆんの顔に、笑顔の花が一斉に開いたのである。
(――っ、やばい! この雰囲気は、バカにされる!)
「あっ、あのね、かみや、あの時はあんなひどいこと言ってご」
「な、なな何だよ! まだあんだけじゃバカにし足りないってか!?」
「あ、え、え? か、かみ――」
「ああそうだよ! お前の言うとおりですよーだ! 俺はどうしようもないバカちんですよー! あなた様のだいっ嫌いな真堂守哉君ですよっ!」
守哉は目を硬く閉じて、思いっきり叫ぶ。
そうとう罵倒したのに、一向にその仕返しの叫び声は耳に響いてこない。不思議に思って、守哉はゆっくり目を開けてみた。
その目に映ったのは、限りなく純粋なクリスタルのような滴を頬に伝わせる、ゆんの真っ赤になった顔だった。
「――……え? ゆん?」
「ふえ、えええ。ひっく」
守哉の思考が状況に追いつく前に、ゆんは本格的に泣き出してしまった。
「ひっ、うっ。ふわあ……うっ」
「え、ええ!? ちょ、ゆんサン? あの、何で泣いておらっしゃらられるのでせうか?」
「女の子を泣かせてしまった」という場面に生まれて始めて遭遇した守哉は、ゆんにどういう対応をしていいのかも分からず、気が動転して母国語までも狂ってしまっている。
あらやだ、という通りすがりのおばさんの声や、えー女の子泣かすとか最低、という女子の話し声が守哉の耳に入ってくる。
「お、おい。な、何で泣いてんだよ、ゆん」
守哉が緊張した声を上げながら、ゆんに手を伸ばす。
その手は、弾かれた。
大きな感情の揺れによって、ゆんの中に眠っていた超能力が目覚めた。とかいうファンタジーな展開ではない。ただ単純に、彼女に手を払われたのだ。
物理的な威力はなくとも、守哉に大きな衝撃が走った。
「な――……っ」
彼の手は、空気でも掴むように、その場で静止している。
興奮気味だったゆんは、はっ、と我に返ると、とても申し訳なさそうな顔をして守哉を見た。その表情は、まるでとんでもないことをしてしまったかのように、焦燥していた。
「あ、か。か、みや、ご、ごめん。あの、その……」
焦りからか不安からか、上手く言葉が出てこないようだ。
守哉は、しばらく払われた手をぽかんと見ていたが、しだいに様々な感情が胸の内にこみ上げてきた。そして気づいた時には、叫んでいた。
「何だよ! そこまですることないじゃんか!」
ビクッ、とゆんの肩が震える。
「ああ、もういいよ! 本当に俺が馬鹿だったよ、自分でも思う! ああくそ! お前なんかに会いたいとか思わければよかった!」
え、とゆんは目を見開いて、守哉を見た。そこにあったのは他に何もない、驚きという純粋な感情だけ。
だが、それすらも守哉は考えようともしなかった。彼はきびすを返し、自分に冷たい視線をぶつける通行人を強引にかき分けて、家を目指す。もう何も考えたくない。早く寝たい。晩飯なんて抜きで、ずっと寝ていたい。嫌だ、こんな気持ち。
そう考えていた時だった。後ろからゆんの叫び声が聞こえたのは。
「きゃあっ! 何するの!」
明らかに自分に向けられたものではなかった。なら、なぜ――と、そこで考えるのをやめた。もう彼女と自分は関係ない。そう割り切った。
「いたーい……。……あれ、バッグがない!?」
「へっ! ぽけ~、っとしてっからだよ! この五十万はいただくぜ!」
守哉は、ばっ、と振り返った。彼の三メートル先では、ゆんが地面にへたりこんで何かを叫んでいた。そして彼女のさらに向こう、そこには彼女が持っているはずのポーチを指でくるくる回す青年の姿があった。容姿はそこらのチンピラである。なるほど、ゆんからポーチを引ったくったのか。あれだけの規模の大会だから、ゆんの顔が知れ渡っていてもおかしくない。
「……馬鹿かあいつ。なに引ったくられてんだよ」
でも確か彼女は、五十万の封筒は手に持っていたはずである。なら大丈夫だろ、と守哉は再び歩き出そうとする。
「返してー! そのバックには大事なものが入ってるの!」
五十万以上に大切なものがあるか。それだけあれば、なんでも買えるじゃないか。
(……待てよ)
守哉は振り向いて、もう一度ゆんを見た。案の定、彼女の手にも周りにも、分厚い封筒の姿は見当たらない。
(馬鹿だ……。ポーチに入れてやがる……!)
いつ入れたのか分からないが、どうやら本当に五十万円を引ったくられてしまったようである。しかも、今まで彼女の味方をしていた通行人たちはただの野次馬と化し、犯人を追いかける者は一人もいない。
自分でも非道いと思ったが、自業自得だ。大金をふらふらと持ち歩くこと自体が、普通じゃないのだ。普通じゃないやつは、だいたい損をする。これは彼の経験上、言えることである。
してやられる方が悪い。そう思いながらも、守哉は心の隅で別のことを考えていた。
(……。あいつ、見るからに頭悪いのに、どうしてあんなクイズ大会に出場しようとしたんだろう。つまり、そこまで無理をしてでもお金が必要だったから……?)
守哉に彼女の事情など分からない。だが、空腹で道端に倒れたり、他人に飯をおごってもらうような人間が、豊かな生活を送っているか? もしかしたら、守哉と同様、とても貧しい生活をしているのではないか?
守哉の脳内で二つの考えが、感情が葛藤する。
記憶しているだけの大量の反対語が限りなく、それこそ走馬灯のように駆け巡る。その間にも、引ったくり犯はどんどん遠ざかっていく。
「それがないと、生きていけないの! お願い! 返してぇ!」
その言葉が決め手だった。
「……ちっ!」
守哉は逃げ去っていく引ったくり犯目掛けて走り出した。
「かみや!」
ゆんを通り過ぎた時、彼女に呼ばれた彼は、勢いを落とさないまま叫んだ。
「すぐに取り返してやる! そこ、動くなよ!」
その言葉は引ったくり犯にも聞こえたようで、相手はさらにスピードを上げた。それを見て、はっ、と守哉は凶暴な笑みを浮かべた。
さあ、互いの意地とプライドを賭けた追いかけっこを始めようじゃないか!
だが、守哉は体育系ではない。つまり、足は速くとも、体力がないのだ。
「ぜえっ、ぶはっ! も、もう無理……!」
守哉は、あっさりと息切れした。
意地とプライドを賭けた追いかけっこは、二分弱で幕を閉じた。
今、彼が停止した場所は見たことのない路地だ。なるほど、地の利も相手にあったというわけだ。まだ視界に捕らえてはいるが、今すぐにでも相手がそこから消えても不思議ではない。
だが、それでも守哉は敵を見失わない。
「はあ、はふー。へへっ、こんなんで俺を撒けると思うなよ……っ!」
守哉は目を瞑る。すると、真っ暗な視界にこの辺りの詳細な地図が浮かび上がった。彼の頭脳で一番優れているのは記憶力である。彼はその膨大な容量の脳内に都内全域の地図を焼き付けているのだ。つまり、彼は見たことのない道に出ても、決して迷うことはない。
ここからは、頭脳の勝負だ。
彼は現在地と思われる場所から、その先の道、そしてさらにその先の地図を割り出す。そして、犯人が逃げている道、そしてこれから通るであろう道、さらに先、犯人の心理、……自分の体力、それら全てを考えながら、一つの答えを導き出した。
「……うし。先回りできるな」
守哉は大きく息を吸うと、一気にその場所へと向かった。




