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第一章 天才児と問題児と奮闘記(前編) その2

            2



 茜音学園は全国的にも有名な進学校である。だが、同時にスポーツ校でもあるため、勉強だけに特化した人間が集う場所でもない。「文武両道」、全国の高等学校の理想に一番近い高校こそが、この茜音学園なのだ。さらに進学校ということもあり、だれもかれもが風紀や規則を乱すことのない、まさに鏡となるべき教育の場である。


 だが、ある一人の生徒だけが、その校風を完璧に無視した風貌で、そこに通っていた。


 一年「特例」クラス、真堂守哉。その男が、校門から靴箱までの大通りの真ん中を、さもつまらなそうな顔で歩いていた。


 茜音学園で彼の名前を知らない人間はいない。全国どころかアメリカやヨーロッパの有名校からも推薦を受け、「学校生活を送る上で必要な、あらゆる費用を全て免除」という条件付きでこの学園に入学してきた天才児。


 はだけたシャツ、地面につくくらいに下がったズボン、金髪なのか茶髪なのか区別がつかない脱色した髪、ちらりと見えるピアス、耳にはまったイヤホンは音漏れが激しい。


 真面目に規則を守り、風紀を乱さない、そんな茜音学園でただ一人だけの「特例」、というか不良。それが、茜音学園での守哉のポジションだ。


 前から三年生の集団がお喋りしながら歩いてくる。避けようかな、と守哉は思うが、彼に気づいた三年生が守哉より早く避けて行った。


 これは当たり前のことなのである。この学園で守哉は「特例」扱い。彼が学園内で起こしたトラブルは、どんな落ち度があっても、彼が裁かれることはない。もはや守哉の立場は教師以上の場所にある。だから生徒達は極力、彼に関わらないように努力している。


(……そこまで特別扱いしなくていいんだけどなー。学費払わなくて良いだけで十分なのに……、っつか今日、暑いぜ)


 そう。守哉はわざとこんなだらしない格好をしているわけではないのだ。シャツがはだけているのは暑いからだし、ズボンが下がっているのはベルトがちぎれたけど新しいのを買うお金がないからだし、ピアスはこの前美容室で落ちていたのを拾って店員に渡したら知らない間に装着してただし(本人気づいていない)、音漏れはラジオ壊れて最大音量しか出なくなっているだけなのである。


「あー、さっさとクーラーの効いた教室に辿り着きたいぜ」


 守哉は歩調を速めて、靴箱でかかとのつぶれた上履きを取り出す。だが、彼はすぐにそれを履かず、つま先の部分を持って数回振った。


 すると、上履きの中から十数個の画鋲が出てきた。


 守哉は地面に散らばるそれをしばらく眺めた後、何事も無かったかのように上履きを履いてクーラーを目指した。彼にとってはこれが、日常なのだ。


 繰り返すが、守哉は茜音学園に「特例」として扱われている。学費の免除、学園内での身体の保護、それら全ての特典は、守哉が「ある分野」で世界のトップに立てる可能性がある天才児だからこそのもの。だが、学園の中にはその「ひいき」が気に入らない者が大勢いる。守哉が知る限りでも、学園の半分以上は自分の敵だ。しかも、攻撃をするときは、自分が特定できないように間接的かつ陰湿に仕掛けてくる。なるほど。筋が通っている。目の前から殴りかかれば、彼らだけが停学になるのだから。


 つまんな、とあくびをする守哉の後ろで、くすくす笑う声がした。見ると、二年生の女子が三人固まって彼を見ていた。


「やだあ。睨まれてるよ?」


「あれ入れたの、あたしたちじゃないのにぃ」


「なんで入ってるって分かったのかなあ? 天才ですから、みたいなあ? きゃはは」


 普通に見ているだけなのだが、目つきの悪い守哉は目を見開くでもしないと、誰にでもガンを飛ばしている。なかなか無意識に危ない子だ。


 守哉はそれらを無視して廊下を歩く。その暑さでうだった瞳に、悲しみとか、憎しみとか怒りとかの感情はない。眠そうだ。


 守哉は教室の前に辿り着くと、扉の上に黒板消しがないことを確認し、ついでに何が飛んできても避けられるように心の準備をしてから、彼はその扉を開け放った。


「……うげえっ」


 教室は守哉の望みどおり、クーラーがばっちり効いていた。ただし、暖房だった。


 嫌がらせとしては、あまりにピンポイントを突きすぎている。ここまで守哉の弱い部分を知るものは学園にはいないはずだ。と言うより、一介の生徒はこの「特例」クラスに足を踏み入れることすら許されない。生徒数一人、というこの教室に入ることができるのは、守哉か、教師ぐらいしかいない。つまり……――。


「おいっ! 脳木なずき、てめえ! 冷え性だからって夏に暖房入れるなこんちくしょうがっ!」


 守哉は教壇の上に転がっているリモコンを奪い取るように掴むと、クーラーの設定を『暖房』から『冷房』にした。温度は十五度にした。


 天井に取り付けられている機械から、極寒の雪山のような風が吐き出され、教室の室温を瞬く間に低下させる。


「……。むう……。……? ……!? ぎゃあああ! 凍え死ぬう~っ!」


 守哉は教室の隅に置いてあるベッドを見る。ある人間によって保健室から強引に担ぎ出されて、この教室に配置されたそれは、自分の上で暴れまわる物体を必死に支えていた。


 ベッドの上に乗っているその物体はがばあっ! と顔を上げると、病み上がりの患者のような瞳で守哉を睨んだ。


「……真堂~。お前の仕業かあ~!」


「真夏の教室に冷房入れるのは当たり前のことですぜ、脳木先生」


「うるさーい。例え世界の常識がそうだとしても、この教室ではあたしがルールなのだ!」


 ベッドの上で腕をぶんぶん振り回しながら暴れる小さな女教師の名は、脳木遙はるか。一年「特例」クラスの担任であり、守哉のお目付け役及び研究者でもある。入学させたまではいいが、授業が必要ない守哉を学園にどう縛りつけようかと悩んだ理事会は、結論、守哉を研究したいという研究者を雇って、「授業」を「研究」という時間に摩り替えることとなった。脳木はその中の選ばれた研究者なのだ。


「うお~い。黙ってないで早く暖房に切り替えないか真堂~」


 とは言っても、初めて会ったときから、守哉の前での彼女はいつもこんなんである。本当に自分を研究する気があるのか、それで将来いいのかと彼女の身を心配する守哉だった。


 そして彼女にはもう一つ大きな特徴がある。それは年を五、六歳はごまかせるんじゃないかと思うほどの可愛い童顔と身長の低さだ。腰まである茶髪も、またそれを引き立てている。脳木遙、生きてきた年数二十二年、だが見た目は高校生。


「あたしをガキんちょ扱いするなあ!」


「そうは言っても、高校生にしか見えな……つうか今さらりと高校生を馬鹿にしたな!?」


「ふん、本当の青春っていうのは、大学生から始まるのだ」


 えへん、とベッドの上で女子高生平均の胸を張る脳木。そこに大人としての威厳とか風格が全く感じられないのは守哉だけだろうか。


 まあ、よい。守哉は内で勝利の笑みを浮かべていた。彼は教壇の横にある研究道具の入った机から温度計を取り出し、目盛りを計る。そして彼はその笑顔を現実のものとした。


「し、真堂? どうしたんだ~?」


 脳木は彼の表情を伺って、不安を抱えたような声を上げた。


「現在の気温、――十五度」


「……――ッ!」


 脳木は、一瞬にして理解した。


 そう、全てはこのためだったのか。脳木の会話に乗ってやったのも、ボケて彼女の気をその気にさせたことも、全ては、このための時間稼ぎでしかなかったのだ。


 脳木は、気づけば自分の周りにあった冷気に当てられて、ベッドに崩れ落ちた。


「真堂……、お、まえ……」


 脳木に呼ばれて、守哉は彼女の顔を見ると、凶暴そうな白い歯を見せて、笑った。まるでこの教室に溢れる冷気すらも、彼の味方になっているように脳木には思えた。


 負けた。いや、恐らく彼がこの教室に入ってきてから、脳木の敗北は決定していた。彼女に成す術は無かったのだ。……ああ、これが、世界が注目した希代の天才児。真堂守哉……、なんて、恐ろしい子――。


 脳木は、最後の抵抗として、近くにあった『断熱性抜群! 冷え性おさらば毛布クン!』を手に取ると、


「だから寒い言ってんだろうが、真堂っ!!」


 それを思いっきり守哉に投げつけた。シリアスな空気は、一瞬にして崩された。


「あだっ!」


 アホみたいな声を上げながら、予想外のスピードを身に纏って飛んできたそれにどうすることもできなかった守哉は、あっさり倒れた。


「……が、は」


 視界を奪われ、バランスを崩し倒れていく中で、守哉は考えていた。


 自分の策は完璧だった。文字通り穴など無かった。だが、それだけだったのだ。彼の作った壁は、小石を投げれば崩れてしまうほどに、あまりに薄っぺらかったのだ。盲点だった。そして、その死角を正確に突いてきた脳木教官、彼女こそが真の英雄ビッグ・ボ……。


「熱うっ! なんだこの毛布! 断熱性抜群じゃなくて、これ自体が熱持ってんじゃん!」


 守哉は思考をストップし、自分の上に乗っかっている毛布を引き剥がそうとする。だが、こういうときに限ってなかなか思い通りにいかないのが、人生の面白いところである。


「ふう……。上手いこと話を脱線させようとして……、頭の良さはこういうところで乱用するモンじゃないんだぞ~、真堂~」


「うげえ、説教かよ童顔教師。いいじゃんいいじゃん、減るもんじゃないんだし」


 やっとのことで引き剥がした毛布を壁に放り投げた守哉は、胡坐を掻いて唇を尖らせた。


 童顔教師、という単語に少々拳を震わせながらも、話を逸らされないように脳木は怒りを自前の冷え性で冷まさせた。いろんな意味ですごい冷え性である。


「だからな~、『たとえ君の頭の良さがIQ160超だとしても、それはまだ何色にも染まっていない才能なのだ。だからそれを使って悪事を働いたりすると、君のそれがどんどん黒に染まっていき、汚れていってしまうのだよ。エジソン然りアインシュタイン然り、君のその頭脳は人類の更なる発展のために磨くべきなのだよ』……なのだぞ~!」


「長ッ! そして口調違う! それ学長の受け売りだろ!」


 そう、これこそが守哉が「特例」扱いされている理由。幼少期に一度読んだ本の内容を暗記したり、高度な数式を理解したりしたことから、親が知能テストを受けさせた。その時に叩き出した数値が判定越え。その後、大規模な施設で脳を検査した結果、常人なら五パーセントも使えていない脳の全機能を、彼はその何倍もの量を使用していることが判明。守哉は定期的に受けた今までの知能テストでも、機械にその頭脳を数値化させることを許していない。突っ込み役の凡人では決してないのだ。


「ぐさっ。あ、あたしだってえらい事言えるの! ……だぞ」


「自信なくなっていってる! しかもぐさっ。って言ったよな!? 図星だった時の擬音語だよなそれ!」


「ぐさっ! と、とにかく! 真堂は悪いことをしちゃいけないのだ! 『頭良いからって調子乗るな若造がッ!』って学長は言いたかったのだ!」


「自分からバラした! しかもそんな内容じゃ無かったよ!?」


 守哉は脳木のめちゃくちゃさに突っ込みの嵐である。そこにIQ160超の天才児の面影はない。やっぱりただの突っ込み役だった。


 ちなみに彼はその頭脳を使ってヤクザにさえも詐欺を働くほど悪に染まっているのだが、脳木にそんなこと言うと、彼女はほぼ確実に説教する前に失神してしまうので言えない。


「ぐぐ……。先生の理解力まで馬鹿にするか真堂~。頭良いからって調子に乗るな~!」


「学長じゃなくてあんたの本音じゃん!」


「ぐさっ。この屁理屈男があ……ん? なあ真堂」


「あ? 何すか? ちなみに屁理屈言ってるのはそっちっすよ」


「ぐさっ。いや、今日はノリが良いな~、って。何か良いことでもあったか~?」


「……!」


 脳木の言う通り、学園内での守哉はこんなキャラではない。誰とも接しようとしない、学園で唯一仲の良い脳木にでさえも素っ気無い彼が、今日は惜しみなく喜怒哀楽をさらけ出している。


「確か、に……。なんでだろう」


 一週間前の晩御飯も鮮明に記憶されている脳から、その原因を探る。だが、嬉しいことに、その疑いがある記憶はたった一つしかない。


「……? なんだ真堂? 気持ち悪いぐらいににやにやして。……ドラッグ?」


「良いことがドラッグになってる! 俺のイメージ危なっ!」


「違うのか~。じゃあ殺人か~?」


「あんた本当は俺に悪いことさせたいんじゃねえの!?」


「ぐさっ」


「怖えええ!!」


 絶望している守哉を脇目に、脳木はベッドからふわり、と飛び降りる。そして床に落ちているクーラーのリモコンを拾い、設定を「暖房」にした。二人用にしては広すぎる教室を、ジャングルの中で扇風機をつけた時のような熱風が包み込む。


「ああ……。悟りを開くというのはこういう事だったのですね。栄西、道元」


「ぎゃああ! おまっ、馬鹿か! そんなに寒いなら座禅組むより焼却炉に投身してろ! 命の保障はしねえけど!」


 守哉は脳木からリモコンを取り上げて、クーラーを冷房に切り替える。熱風にさらされた後という事もあり、その涼風は守哉にこの上ない心地良さを運んできた。


「おお、阿弥陀仏を唱えなくてもリモコン一つで極楽浄土に行けるんだな。法然よ。世の中は便利になったぜ」


「そんな友の無念を晴らした主人公みたいな顔しないで!? 見てて寒い!」


 脳木は守哉に跳びかかり、見事な腕ひしぎ十字固めを極めた。腱を思いっきり伸ばされた守哉は激痛に耐えられなくなり、ついにその手からリモコンを離した。


「ぐへへ……。リモコ~ン、こっちにおいでえ~」


 脳木は守哉の手を離し、変質者みたいな台詞をやはり変質者みたいな声で吐き出しながら、床に転がったリモコンに変質者みたいにゆっくりと近づいていく。


 倒れたままの守哉は、その姿を見て、そして頭脳を働かせて、この先の展開を予想する。


(まずい、このままではイタチの追いかけっこオチだ……! かくなる上は……!)


 守哉は心の中である決心をした。それはまるで、多くの犠牲者を出し続ける戦争を終わらせるために、自分の身を捨てる覚悟で立ち上がった英雄の背中に似ていた。


 この作戦を成功させれば、最悪の結末は免れる。だが、その代償は大きい。守哉は、それでもこの戦争を終わらせようと思ったのだ。


「う……おおぉおぉぉおあえ!!」


 守哉は声を上げて走り出す。最後、声が裏返ってしまって格好悪かったけど気にしない。それぐらいに彼の想いは最高にカッコ良かった。


 ゾンビのような姿勢でリモコンに迫る脳木(二十二歳独身)を追い抜き、守哉はついにリモコンの前に辿り着いた。移動距離、二メートル。


 守哉は息を呑んだ。彼にとって、この存在はとても大切だった。いや、今でもその気持ちは変わらない。一期一会、守哉はこのリモコンと過ごした日々を忘れない。


「し~んど~う~。な~にをする気だ~」


 背後から、快楽を求めるあまり理性を捨て、化け物と化してしまった脳木が守哉に迫る。時間はもうない。やつがここに到着する前に、成す事をやり終えねばならない。


 守哉は溢れる涙を堪えながら、リモコンを手に取った。そしてクーラーの電源を切る。


「お~ま~え~。ぬあ~にをお~」


「脳木先生。片方が良くてもう片方が悪いなんて、そんなの、ダメじゃないすか。どうせなら、二人で地獄を分け合いましょうよ」


 守哉は悲哀に満ちた笑みを浮かべた。その口調は、彼ならぬ彼だった。


 彼は息を吸い込み、吐き出すと同時に手のリモコンを勢いよく窓目掛け投げ飛ばした。


 快音と共にガラスを突き割ったそれは、威力を落とさないまま隣の棟まで飛んでいった。


 その様子を、唖然と眺める童顔女教師と、涙ぐみながら見送る天才男子生徒。


 教室は再び、でも暖房を入れた時ほどではない熱気に包まれ、守哉の頬に汗を伝わせる。


 戦争は、終わった。


 割れたガラスの隙間から、太陽の光が差し込む。床に散らばった――放課後、担当の三年生が掃除するのだろうガラスの破片にその陽光が反射する光景は、まさに芸術だった。


 守哉は風を入れようと窓を開けていく。しかし、前にそびえ立つ二学年棟のおかげで、風がその体を吹き抜けていくことは無かった。


 次第に温まってゆく教室。それでいい、と守哉は寂しく笑った。むしろ、こうなることを望んでいた。この温度が地獄なのは、自分だけじゃない。




「あ、これぐらいでも快適だ~」




「ええ!? 俺の苦労は!? 明日から冷房ナシで生きてかなきゃいけない俺の立場は!?」


 やっぱり、守哉の考えは、穴は無くても薄っぺらだった。



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