9.味が薄くなったアイスティー
晶姫は頬杖を突いたまま、よく冷えたアイスティーのグラス内をストローで何とは無しにかき混ぜながら、じぃっと刃兵衛の顔を見つめてくる。
これはもう年貢の納め時かも知れない――刃兵衛は腹を括った。
「あれは我天月心流っていう古式殺闘術です」
「がてんげっしん……? えっと、御免、どんな字書くの?」
小首を傾げる晶姫に対し、刃兵衛は自身のスマートフォン上にテキストアプリを起動して、そこに四苦八苦しながら正しく入力した。
普段余り打ち込む文字ではないから、変換するのに微妙に時間を食ってしまった。
「へぇ……何か古めかしくて、カッコ良いじゃん。そんな格闘技があったんだぁ」
「これ、厳密には格闘技じゃなくて、殺人術なんです」
その瞬間、ストローをマドラー代わりにしてグラス内をかき混ぜていた晶姫の手が止まった。
一体どういうことなのかと、その視線が問いかけてきている。
矢張りこういう反応になるか――予測していたとはいえ、いざこうして不思議な顔を見せられてしまうと、刃兵衛は内心で苦笑を禁じ得なかった。
「えっと……空手とか柔道とかは競技なので、お互いに技を出し合うことが前提となってます。けど殺人術は、相手を斃すこと、無力化することだけを目的としますので、相手の反撃を浴びずに、最初の一撃で斃し切ることに主眼を置いてます」
「あ、そうなんだ……だからコンビニでも、階段のとこでも……」
晶姫は納得した様子で、何度も凄い凄いと繰り返している。そんな技を身につけたクラスメイトが身近に居るということ自体が、彼女の中では非日常的な世界線だと思えているのかも知れない。
しかし刃兵衛は、それ以上はいわなかった。ここから先は格闘技に精通した者や、それなりに心得のある者でなければ理解出来ない領域だった。
そして晶姫も、更なる説明は求めて来なかった。その代わり、彼女は別の疑問を呈した。
「でもさ、そんな凄い技が使えるのに、何で笠貫はそういつもいつも、自信無さげ?」
晶姫は本当に心の底から不思議でならないといった面持ちで、その美貌を僅かに傾げた。
刃兵衛は、殺人術は所詮殺人術、破壊しかもたらさないと答えた。
「誰も幸せにならないんですよ、こんな技を身につけてても。相手を斃し、敵の体を破壊し、制圧することしか出来ない技に、何の値打ちがあります? 今どき、何か起きても警察が居たら済む話ですよね。こんなね、攻撃することだけに特化した技術なんて、日常ん中じゃただの役立たずですよ」
だから自信なんて持てる訳が無いと刃兵衛は吐き捨てた。
ところが晶姫は、尚も納得がいかない様子。
刃兵衛は、渋い表情のまま晶姫の美麗な顔を真正面からじっと見据えた。
「こんな下らん技しか使えん僕なんかより、美樹永さんの方がずっと値打ちのあるひとですよ。そういうひとらに比べたら、僕なんてクソみたいなモンです」
「え……それは幾らなんでも、自虐的過ぎない?」
矢張り、刃兵衛の理論には釈然としないといった様子の晶姫。
しかし刃兵衛は大きくかぶりを振った。
「美樹永さんもそうですし、陽キャとかパリピとかいわれてるひともそうなんですけど、基本そういうひとらって周りを明るくしてくれるじゃないですか。でも僕は、ただ攻撃して斃すしか出来ない。こんな技のどこに、ひとや周りを明るくする要素があります? ただビビらせて、怖がらせるだけですよ」
この時の刃兵衛は、中学生時代の三年間の記憶が次々と脳裏に蘇ってきていた。
ただ己の身を守っただけなのに、一方的に悪と決め付けられ、後ろ指をさされた日々。
父の勧めで東京の高校へ入学したのは、もう二度とあんな不始末は起こすまいと心に誓ったからだったが、しかし結局は、そうはならなかった。
また同じ轍を踏んでしまった。
そしてそのミスを、晶姫に見られた。だから、目の前の美女が途轍もなく怖い。
刃兵衛は、己の今の心境と、過去に犯した失敗を全て話した。
もうこの際、どうなっても良いと思っていた。
ここまで晶姫に弱みを握られ、掌の上で踊らされるピエロに成り下がった以上、今更隠すべきことなど何ひとつ無かった。
ところが、晶姫がこの時示した反応は全くの予想外だった。
彼女は微妙に涙ぐんで、それでも尚、真剣な眼差しで刃兵衛の顔をじっと見つめていた。
「……御免。アタシ、笠貫のこと、かなり勘違いしてた……そんなに、苦しんでたんだ。なのにアタシったら、ただ強いってことだけ見てて、それで浮かれちゃって……笠貫にとっては、そこが一番ツラいとこだったのに……」
晶姫はもう一度、御免ねと呟いてからハンカチで目元を拭った。
そして次に顔を上げた時には、妙にふっきれた笑みを浮かべていた。
「だから笠貫、あんなにビビってたんだ……アタシみたいな男とヤることしか知らないビッチに、何であんなにびくびくしてたのかなって、めっちゃ不思議だったんだよ」
直後、晶姫は身を乗り出してきて、そっと手を伸ばした。その柔らかくて白い掌が、刃兵衛の頬にそっと触れた。
刃兵衛はただ驚き、意外な思いで晶姫の美貌を見つめることしか出来なかった。
「うん、大丈夫……大丈夫だよ、笠貫。アタシはね、笠貫が困る様なこと、絶対しないから……だって、アタシにとって笠貫は、恩人なんだよ? なのにどうしてそんな、笠貫が困ることなんて出来ると思う?」
だから安心して欲しい、と晶姫は薄く微笑んだ。
「それにね、アタシは笠貫って、とっても特別だと思ってるんだ。今まで色んなオトコとデートしたり、エッチしたりしてきたけど……何っていうかな、こんなに安心出来るひとって、ひとりも居なかった」
それはとても凄いことだと、晶姫は半ばひとり言の様に囁いた。
しかし、刃兵衛には晶姫のいわんとしていることは、よく分からない。晶姫の様な豊富な恋愛経験を積んできた訳ではないから、答えるべきひと言が見出せなかった。
「あ、御免、何か変なこといっちゃったね。でも、気にしなくて良いから。アタシが勝手に、そう思ってるだけだからさ。笠貫は今まで通りにしてたら良いんじゃないかな」
それから晶姫は、氷が溶けて若干味が薄くなったアイスティーをストローで吸い上げ始めた。
対する刃兵衛は何ともいえぬ表情で、晶姫の言葉を頭の中で何度も反芻していた。
(何やろう……僕の頭では、よう分からんわ……)
人付き合いの少なさ、恋愛経験の無さが決定的に違い過ぎるからだろうか。
刃兵衛には、何もかもが理解の範囲を超えている様に思えてならなかった。