5.後でツラ貸せと凄まれた者
結局その日は、晶姫から改めての御礼の言葉を刃兵衛が受け入れたというところで、一旦お開きにしようということになった。
何とかこの地獄の数十分を乗り切った刃兵衛は、魂が抜け切った呆けた表情でマンションに引き返した。
「おぅ、お帰り。エラい遅かったな」
「うん……ちょっと色々あって……疲れたから、僕もう寝るわ」
それだけいい残して自室に戻った刃兵衛。
ベッドに潜り込むなり、数秒と待たずに意識が闇の奥底へと落ちた。
そこからの数日間、ゴールデンウィーク前半の連休は、ほとんど家から出ずに過ごした。外に出れば、どこでいつ、あの女帝と再び相まみえることになるのか分かったものではない。
少しでもリスクを減らす為には、ひたすら自宅内で無為に過ごすしか無かった。
「お前なぁ、ちょっとは表に出んと、気が滅入ってまうぞ」
「兄やん、それ逆やわ……外に出た方がよっぽど気ぃ休まらへんし」
そんな会話を一体何度、この前半連休の間で交わしたことか。
ともあれ、刃兵衛は辛うじて精神力を回復させて、ゴールデンウィーク間の平日に登校した。
そうして彼が校舎の玄関口に足を踏み入れると、どういう訳かそこに、担任の新田都が待ち受けていた。
「おはよう、笠貫君! ちょっと良いかしら?」
新田教諭は上履きサンダルに履き替えた刃兵衛の手を取るなり、いきなり校長室へと急行した。
色々な調度品が並ぶ室内では、校長と教頭が揃って刃兵衛を出迎えた。
「やぁ、おはよう笠貫君。まぁそこにかけたまえ」
応接ソファーを勧められた刃兵衛は、そこでコンビニ強盗逮捕の件で地元警察から感謝状が贈られる旨と、その日取りについて教頭から説明を受けた。
そこまでは良かったのだが、問題はこの後だ。
校長が、全校生徒を呼び集めて講堂での感謝状授与式をやりたい、などといい出したのである。
当然ながら刃兵衛は、全力で拒絶した。
「いえ、あの、結構です。僕、そういうの、すっごく苦手なので……」
「おや……そうなのか。それは残念だな」
しかし校長は決して無理強いはせず、刃兵衛の意思を尊重してくれた。矢張り校長という立場に居るだけあって、その器の大きさは刃兵衛などには計り知れないものがあった。
「だけど、君のその謙虚さと奥ゆかしさは、我が校の誇りだよ。笠貫君……我ら教師一同はいつでも、君の味方だ。困ったことがあったら、いつでも頼ってきなさい」
校長のこの言葉を最後にして、刃兵衛は室を辞した。
実際のところ、刃兵衛が授与式を拒絶したのは彼個人の理由に依る。即ち、我天月心流の体得者である事実を伏せておく為だ。
万が一、あのコンビニ強盗を撃破した際の話が校内に知れ渡ってしまえば、それこそ致命傷だろう。
今のところは女帝晶姫が何故かだんまりを決め込んでいる為、実害らしい実害は出ていない。しかしそれもいつまで持つか分からない。
刃兵衛はいわば、いつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣で冷や汗を流している様なものだ。
晶姫が本気を出して攻勢に出れば、刃兵衛の必死の抵抗など虚しく打ち破られてしまうだろう。だがそうであったとしても、危険な芽は摘んでおくのが吉だ。
そのひとつが、校長からの授与式の提案だった。あんなものでリスクを爆上げされたのでは、堪ったものではない。
(何とか危機はひとつ、回避出来たけど……問題はやっぱり女帝陛下やな……)
彼女の取り巻きたる男子連中は、恐らく危険は無い。刃兵衛の技の一部始終を見ていないからだ。
辛うじて店内に残っていたふたりも、刃兵衛がコンビニ強盗を叩きのめした際は売り棚の陰に隠れていたらしく、強盗制圧後に店内の隅から恐る恐る顔を覗かせた程度であり、技そのものは見ていなかった様だ。
となると、矢張り一番の危険因子は晶姫だ。彼女は至近距離から刃兵衛の技を目撃している。
彼女を何とかして封じない限りは、刃兵衛の高校生活はすぐにでも破綻する。
しかし、一体どうすれば晶姫を攻略出来るのか。
事件当夜のカフェ店内で、刃兵衛は一度、晶姫の前に完敗を喫している。否、実際のところはまだ勝負そのものに至っていないのだが、心理戦で一敗地に塗れていた。
あれから数日が経過している。
今なら精神的にも少しばかり持ち直しているから、晶姫との戦いに耐えられるのではないか。
そんな期待を自らに抱いて、一年B組の教室に足を踏み入れた。
が、そこで早々に奈落の底に突き落とされる様な恐怖を味わった。
教室に入るなり、教壇近くの席に陣取って友人らと笑みを交えながら会話を楽しんでいた晶姫が、刃兵衛の姿を見るや跳ねる様な勢いで席から立ち上がり、足早に近づいてきたのである。
もうその圧力だけで、意識が吹っ飛びそうになった。
あれだけ、今なら頑張れると思っていた筈なのに、彼女の顔を見た瞬間に頭の中が恐怖で真っ白になった。
(あぁ、あかん……やっぱ無理! 無理無理無理無理!)
刃兵衛はこの瞬間から、虚無の顔になった。
やっぱり駄目だった。どんなに足掻いても、恐怖の女帝には勝てない。勝てる気がしない。
一体何をどう思って、今の自分なら耐えられるなどと思ってしまったのか。
そんなの、端から無理に決まっているではないか。冷静に考えれば、分かる話だ。
刃兵衛は迫り来る恐怖の女帝の心底嬉しそうな笑顔が、悪鬼の嘲笑に見えてならなかった。今から彼女は、僕を恐怖の闇に叩き落とそうとしている。
果たして、朝一からいきなりのこの地獄を、許容出来るだろうか。
「笠貫っ! おはよっ!」
「お……おはよう、ございます……」
今にも消え入りそうな声で、視線を思いっ切り外しながら辛うじて答えた刃兵衛。これが精一杯だ。笑顔を返すなんて芸当は、まず不可能だった。
しかし晶姫は気分を害した風も無く、にこにこと笑いながらすっと顔を寄せてきた。
「笠貫さ、今日の午後、ヒマ?」
その瞬間、教室内でどよめきの様な響きが連続した。
スクールカースト最上位の美少女が、クラス最底辺のぼっちを誘うなど前代未聞だ。そんな異常現象を前にして驚かない者が居ない筈が無い。
だがここは耐えどころだ。
刃兵衛としてはさくっと拒絶して逃げに徹すれば気は楽だろうが、後が怖い。余計なリスクを背負うだけだろう。
ならばこの場は、恐怖に耐えながらも女帝からの申し入れを受けざるを得ない。
「えっと……何用で、ございましょうか……?」
「う~んとね、大したことじゃないんだけど……っていうか、その敬語、何とかなんない?」
可笑しそうに目尻を下げる晶姫だったが、刃兵衛にしてみれば、
(んなことしたら殺されてまうやんか)
と、口に出したくてもいえないひと言を、何とか呑み込むだけで必死の瞬間だった。
正直、もうこのまま帰りたかったが、流石に朝のホームルームすら終わっていない段階でいきなり回れ右する訳にもいかない。
刃兵衛は渋々頷き返しながら、突き刺さる様な羨望の眼差しを全身に浴びつつ何とか自席へと辿り着いた。
だが、刃兵衛はもうそれどころではない。
事実上、女帝晶姫から、
「後でツラ貸せやボケ」
と凄まれた様なものだ。穏やかな気分で居られる訳が無かった。