47.ちっこくてゴメンナサイ
あれから一カ月程が過ぎた。
刃兵衛が姿を消した後も、時間はただ静かに過ぎ去ってゆく。
晶姫はまるでひとが変わったかの様に口数が少なくなった。愛梨子や他の友人らが何かと元気づけようとしてくれるから、その都度笑顔を返す様にはしている。
しかしそれもほんの一時の話であり、彼女の心が晴れることは無かった。
どうしてこんなに苦しいのだろうと日々、自分に問いかける。
勇也から一方的に別れを切り出された時でさえ、多くのセックスフレンドを作るなどして何とか自力で這い上がることが出来た。
それなのに、今回はどうにも暗闇の中から抜け出せない。
理由は分かっていた。
まだ刃兵衛への気持ちが断ち切れないから、いつかきっと帰ってきてくれるという希望が心の奥底のどこかに潜んでいるから、全てを吹っ切ることが出来ないのだ。
恐らく愛梨子も同様だろう。
彼女も空元気を出して笑顔で接してくれているが、時折ふと寂しそうな表情を覗かせることがある。だが幸いにも愛梨子には、啓太郎という心の支えが居てくれる様だ。
啓太郎は愛梨子と親しくなり始めてから、彼女の為にとカンフーの何たるかについて色々と勉強しているらしく、今ではそこそこ語り合える程度にまで知識を積み重ねているとの由。
あの様子ならば愛梨子はきっと、大丈夫だろう。
だけど、自分は違う。
刃兵衛の顔が見られない。刃兵衛のぬくもりを感じることが出来ない。
そんな日々を重ねるうちに、次第に心の中に変な靄がかかる様になってきた。何人かの元セックスフレンドらが声をかけてきたが、彼らの言葉は何ひとつ晶姫の中では響かなかった。
(刃兵衛……もう、夏になっちゃったよ……)
夏休みに入り、家に引き籠ることが多くなった。
どこかへ出かけようという気力も湧いてこない。
心の中で毎日、消えた刃兵衛に語り続けていた。そんな日がもうどれだけ続いていたのか、自分でもよく分からない。
スマートフォンには相変わらず、音沙汰が無い。あの日以降、刃兵衛のチャットラインには既読マークがただの一度も付いたことが無かった。
(ねぇ刃兵衛……今、どこで何してるの……?)
陽が傾きかけた真夏の空をそっと見上げた。
この同じ空の下のどこかで、彼は元気にやっているのだろうか。
晶姫は、のろのろと立ち上がった。
特に何も考えないまま、いつの間にか自宅を出て街中を彷徨い始めていた。
◆ ◇ ◆
気が付くと、コンビニの駐輪場エリアに座り込んでいた。
そういえば以前にも、刃兵衛の姿を求めて同じ場所に居座ったことがあった。あの時は刃兵衛の方から晶姫に気付いて、声をかけてくれた。
ふと視線を巡らせると、以前刃兵衛が住んでいた高級マンションの佇まいが見える。
そう、ここはゴールデンウィーク初日、刃兵衛に強盗から助けて貰った、あのコンビニの敷地内だった。
もしかすると、ここに来ればまた刃兵衛に会えるのではないか。
無意識のうちにそんな淡い期待を寄せて、ここまで足を延ばしてきた様だ。
晶姫は俯いて、膝を抱え込んだ。
(刃兵衛……会いたい……会いたいよ……刃兵衛……)
涙が溢れてきた。
あの小柄な少年への想いがこんなにも強くなっていたなんて、自分でも気づいていなかった。
居なくなって初めて、漸く悟った。
刃兵衛はもう、自分にとってなくてはならない存在になっていた。
彼は沢山、助けてくれた。彼は一緒に笑ってくれた。彼は辛い時に手を差し伸べてくれた。
なのに自分はまだ全然、恩返しが出来ていない。本当の気持ちをちゃんと伝え切れていない。
だからせめてもう一度だけ、会いたい。会って、ちゃんと言葉で伝えたい。
「刃兵衛……会いたいよ……」
とうとう、声になって漏れてしまった。しかしもう、止められない。心の中だけに留め置くことなんて出来なかった。
「晶姫さん、そんな格好でしんどくないですか?」
その声音に晶姫は、自分でも驚く程の速さで反応した。傍らに、いつの間にか人影が佇んでいた。
涙でぼやけてはいるが、しかしその視界の中に居たのは間違い無く、あの小柄な少年だった。
「刃兵衛!」
晶姫は跳ねる様な勢いで立ち上がり、その少年――刃兵衛に抱き着いた。もう絶対手放さないという強い意志を込めて、自分よりも背の低い男子をぎゅうっと強く抱き締めた。
「刃兵衛! い、今まで、今までどこに居たんだよぉ! アタシ……アタシ、ずっと待ってたんだよぉ!?」
「あの、御免なさい……ちょっとうちの兄やんの問題で、どうしても身を隠す必要があって……政府からも連絡手段一切を遮断されちゃってたので……ホント、申し訳ないです」
幾分困った笑顔を浮かべながら、刃兵衛は頭を掻いた。
どうやら彼の兄、厳輔が政府関係の仕事の中で大きなトラブルに見舞われ、その飛び火が刃兵衛自身にも及ぶ可能性があった為に、彼も雲隠れを余儀無くされていたのだという。
だが、その問題も漸く解決の目途が付いたため、こうしてまた姿を現したということらしい。
つまり、刃兵衛は自ら望んで晶姫の前から姿を消したという訳ではなかったのだ。
「僕もなるべく早く晶姫さんのところに戻ってきたかったんですけど、中々厄介な問題で、すぐに片付かなくて……」
「イイ……もうイイよ……ジンベが、戻ってきてくれたから、もう、イイよ……」
晶姫は更に強く刃兵衛を抱き締めた。
この瞬間を、ずっと待ち続けていた。もう叶わないと思っていた願いが今こうして、現実のものとなってくれたのだ。それ以上のことは、今はもうどうでも良かった。
「ホントはこう、僕の方から抱き締めてあげたかったんですけど、ちょっと体格的に無理ですね……いやホントに、ちっこくてゴメンナサイ」
「んもう……馬鹿だね……そんなこと、気にしなくて良いから……」
泣き笑いのまま晶姫は少しだけ距離を取り、それからもう一度顔を近づけ――刃兵衛の唇に、自らのそれを重ね合わせた。
偽装ではなく、本当の恋人としてのキスを、初めて交わした瞬間だった。