4.恐怖に慄く命の恩人
宜しい。ならば戦争だ――晶姫の表情は、そう語っている様に思えた。
飽くまでも素知らぬ風を装い、こちらの精神を徹底的に叩き潰しに来る腹なのか。
(あかん……ホンマにあかん。もう勘弁して……)
刃兵衛はこの時点で既に、完膚なきまでに打ちのめされていた。心がへし折られていた。
どんなに頑張っても、目の前の美女には何ひとつ敵わない。勝てる要素が無い。
この時の刃兵衛はすっかり燃え尽き、魂が抜け切った様な顔つきだった。というよりも、悟りを開いた気分だった。
人生は無常である。否、無情である。
この世に神も仏もあるものか。
青春を謳歌し得るのは、晶姫の様な支配者の側だけだ。自分の様なぼっちの負け犬には、そもそも最初から希望なんて欠片も無かったのだ。
そんな風に割り切れば、却って気が楽かも知れない。
世俗を絶って自然と共に生きる世捨て人の気持ちが、何となく分かった様な気がした。
だがここは、日本だ。
国籍を持つ者は成人後、定職に就いて税金を払いながら細々とした生活を送るのが普通だ。刃兵衛も出来れば無難な人生を送りたい。
だから、流石に世捨て人ルートはちょっと考えられなかった。
となると、後はもう目の前の絶対強者、恐怖の女帝に身を委ねて心の奴隷に成り下がるしかないのか。
この際だから、全てを諦めてしまおうか。そうすれば下手に悩む必要も無くなる。
ああそうか――世の中のお父さん方は皆さんこうして家庭と仕事の両方に隷属し、己を消し去る術を身につけるに至ったのか。
何とも世知辛い話だ。
「っていうかさ……笠貫さっきから何モヤってんの? アタシ、何か気に障ること、いっちゃったかな?」
晶姫が本当に心配そうな顔つきで、刃兵衛を覗き込んできた。
何て恐ろしい女だろう。圧倒的な恐怖心を叩きつけてきた次は、懐柔策で攻めてこようという訳か。
成程、これがスクールカースト最上位に立つ者の手練手管というやつだな。
最底辺に生きる者には、とても真似出来るものではない。
もうこの時点で、刃兵衛の敗北は決した様なものであろう。
「すみません、ごめんなさい、もう本当に勘弁して下さい。僕の持ってるものなら何でも差し上げますし、何なら毎月上納金なんかもお持ちしますので、どうか、どうか平にご容赦を賜りたく……」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってってば! え? アタシ、マジで何かやらかした?」
この期に及んで、目の前の女帝は尚も嘲笑うかの如く、刃兵衛を手玉に取ろうとしているらしい。まるで何も知らない風を装い、あたかも自分の方が被害者として振る舞うこの演技力。
そう、彼女は最初から最強だった。
刃兵衛などが敵う筈も無かったのだ。それなのに何故自分は、少しでも勝機が見出せるなどと考えたのか。そんなものは世間知らずの思い上がりというやつだ。
ここはもう、全てを諦めて腹を括るしかない。
「あの……いつまで僕をお試しになられてるんでしょうか? そろそろ、アレですか。指でも詰めた方が良いんでしょうか」
さっきメニューを見たら、まぁまぁ重たい系の肉料理もディナーページに載ってあった。ということは、肉切包丁ぐらいなら置いてあるだろう。それを拝借すれば小指の一本ぐらいは御進呈差し上げられる筈。
「えと、ちょっとお待ち下さいね。今、包丁借りてきますんで……」
「いやいやいや! だから、ちょっと、ストップ! ねぇ、何かアタシ達、すっごくズレてない?」
何故かよく分からないのだが、晶姫が悲鳴に近しい声を上げた。
余りに騒々しい為か、店内の他の客やウェイトレスまでが、何事かと遠巻きに覗き込んでくる有様だった。
◆ ◇ ◆
晶姫は、ひたすらに困惑していた。
自分を助けてくれた時、目の前の小柄なクラスメイトは確かに格好良くて、男らしくて、誰よりも頼りになる真のヒーローに思えた。晶姫が、あの時の刃兵衛に惚れ惚れする気分を抱いたのは、間違いの無い事実だ。
しかし今の刃兵衛はどうだろう。
コンビニ強盗を一瞬で撃破した時の様な覇気は微塵にも感じられず、ただひたすらに恐縮し、何かに怯えるかの如く、ただでさえ小さな体をより一層縮めている様に見えた。
(え? なんでナンデ? どうしてそんなに、びくびくしてんの?)
もう訳が分からなかった。
晶姫はただ、改めて御礼をいいたかっただけなのに、どうして命の恩人たる小柄なクラスメイトは、今にも泣きそうな顔でやたらとぺこぺこ頭を下げてくるのか。
これはアレか、コミュ障というやつか。余りにも日頃からのぼっち生活が酷すぎて、まともな会話を成立させることが出来なくなってしまったのか。
それとも、何かの勘違いをしているのだろうか。晶姫の方にとんでもない不手際があった為に、彼が全く違う方向で誤解を抱いてしまっているのかも知れない。
もしそうなら、一刻も早く正しい方向に軌道修正しなければならないだろう。
(笠貫って、今日初めて喋ったんだけど、こんな子だったんだ……?)
実際、入学してまだ一カ月程の高校生活だが、晶姫はクラスの男子の大半とはそれなりに親しく接してきたつもりだ。
が、この刃兵衛だけは例外だった。
彼はいつも隅っこの方でひっそりとぼっちスタイルを貫いている。まるで何かに怯えるかの如く、己を押し殺している様に見えた。
その原因が、もしかしたらこの異常なまでのネガる性格なのかも知れない。
(でも、それなら……アタシが、何とかしてあげないと!)
晶姫は不思議と、そんな使命感を抱く様になっていた。
今、不必要なまでに卑屈な態度を見せている中学生の様な外観の少年は、しかし間違い無く、晶姫にとって命の恩人なのだ。
そんな大切なひとを、このまま暗い学生生活の中に放置しておける筈が無かった。
「あのさ、笠貫……ちょっとさ、一度、落ち着こう? アタシ、別にアンタを取って食おうってつもりじゃないんだから……」
「え? 本当に食わないおつもりで?」
危うく、飲みかけたアイスティーを噴き出しそうになった。
このクラスメイト、アタシをカニバリズム信者か何かと本気で思っていたのだろうか。
これは相当、手強いぞ――晶姫は人生で初めてというくらい、腹の底から気合を入れ直した。