38.感動した男
そろそろ日が暮れようかという頃合い。
厳輔に頼まれた買い物を終えてスーパーから帰ってきた刃兵衛は、まさかの展開に愕然となった。
晶姫がまだ、マンションのエントランス玄関前に居座っていたのである。
(嘘やろ? 何してはんのさ)
もう全く訳が分からない。一体彼女は何が気に入らなくて、こうも刃兵衛に纏わりついてくるのか。
確かに先日までは友達として過ごしていた時期もあったが、今はあの時とは状況が異なるのだ。こんなところを晶姫の彼氏やその友人に見られたら堪ったものではない。
刃兵衛は盛大な溜息を漏らしてから、晶姫の待つエントランス前へと歩を進めた。
すると晶姫は立ち上がり、またもや真剣な表情でじっとこちらを見つめてくる。
ここまでしつこいと、何をいっても無駄だろう。刃兵衛は再び彼女をエントランス内ロビーのソファーへ案内することにした。
「分かりましたよ。そこまでするなら、納得いくまで話しましょか……ただ、先に荷物だけ置いてきますんで、ちょっと待ってて下さい」
「うん……ありがと」
今の晶姫は妙にしおらしい。先程までとは打って変わって、随分大人しくなった様に思えた。そういえば、目が赤い。泣き腫らしたのか、瞼がやや重そうに見える。
ひとまず刃兵衛は自宅へと戻り、買ってきた物を適当に片付けてから、再びエントランスへと下りた。
晶姫は刃兵衛の姿を見ると立ち上がりかけたが、刃兵衛は手で制しながら自らも差し向かいのソファーへと腰を下ろした。
実は自宅とエントランスを往復する間に、刃兵衛は刃兵衛なりに思考を巡らせていた。
晶姫がここまで執拗に刃兵衛を待ち伏せするということは、これはもう茶番や悪戯で済む様な話ではない。もっと深刻な事態が裏に潜んでいると考えて良さそうだ。
となると、晶姫は刃兵衛に助けを求めに来たのではなかろうか。
そう考えれば全てに合点がゆく。
(美樹永さんは僕の秘密を黙っててくれるって約束してくれた恩人やから、困ってはるなら、助けて差し上げなあかんよな)
刃兵衛は兎に角晶姫の話を聞くだけ聞いて、彼女の力になれるならば、幾らでも協力しようと考えるに至っていた。
本来なら晶姫と拓哉の関係を考えれば距離を取るべきだが、しかし彼女が助けを求めて刃兵衛を頼ってきたというのであれば、それはもう全然別次元の話だ。
今は一旦、ふたりの恋にとって邪魔となるであろう自分という存在を忘れて、晶姫の困りごとをじっくり聞いてやろうと腹を固めた。
「それで美樹永さん、何をお困りなんですか?」
「え? アタシが、困ってる?」
晶姫はきょとんとした顔で視線を返してきた。
この程度の問いかけにまで変な反応を示す程に、今の彼女は追い詰められているのか。
これはもう、黙って見過ごす訳にはいかない。何が何でも、晶姫を助けてやらなければ。
「美樹永さん、遠慮なくおっしゃって下さい。僕は何をすれば良いですか? また前みたいに、悪霊役とかですか? それとももっと違う役ですか? 僕に出来ることなら何ぼでも協力しますよ」
「え? それ、ホントに……?」
晶姫は呆然と問い返してきた。
刃兵衛は任せろと、力強く頷き返す。
すると、晶姫は妙にもじもじした様子を見せ始めた。そんなにも悩乱する程に困っていたのか。彼女がこれ程までに困っていたというのに、自分は酷く邪険に扱ってしまった。
刃兵衛は内心で己を激しく罵ると同時に、深く反省した。
そうしてしばらく気恥ずかしそうにしていた晶姫が、漸く意を決した様子で顔を上げた。頬がやや赤く染まって見えるのは、余程の覚悟を決めて気合を入れている証拠だろう。
「それじゃさ、笠貫……アタシの、彼氏になって!」
晶姫のそのひと言に、刃兵衛は奥歯を噛み締めた。
成程、そういうことか。
(これが僕の今回の仕事か……つまり、アレやな。恋人役を演じろって訳やな!)
ここで刃兵衛は、ひとつの推論を立てた。
晶姫が刃兵衛に恋人役を求めてくるというからには、相当な理由がある筈だ。きっと、本物の恋人である拓哉との間に何か問題が生じたのだろう。
或いは、もう早くも倦怠期に突入したのか。拓哉が晶姫に邪険な態度を取り始めたか、他の女といちゃいちゃし始めたのか。
しかし晶姫はきっと、拓哉の心を取り戻したいと思っている筈だ。
そこで考え出した方法が、拓哉に嫉妬心を湧き起こさせるジェラシー作戦に違いない。
そしてここからが、刃兵衛の出番だ。刃兵衛が偽の彼氏として晶姫といちゃいちゃして拓哉の嫉妬心を刺激すれば、きっと彼の心が晶姫に戻ってくるだろう。
晶姫が他の男とじゃれつくことで、拓哉もやっと晶姫への本当の想いに気付く――これが晶姫の考えたシナリオだと刃兵衛はものの十数秒で考察した。
成程、見事なプランだ。これならばきっと拓哉もジェラってジェラって仕方なくなる。彼の心はすぐにでも晶姫へと戻ってくるだろう。
(流石です、美樹永さん。完璧な作戦です……それに、例え形の上だけでも、例え一時的な話だとしても、また美樹永さんと一緒に遊べるんなら僕としても本望です)
刃兵衛の心は決まった。まだもうしばらく晶姫と楽しい時間を過ごすことが出来る上に、彼女の役に立てるというのなら、これ以上のことは無い。
「美樹永さん……彼氏さんを取り返したいというその熱い想い、僕ぁ心を打たれました。よござんす、ご協力いたしやしょう!」
刃兵衛はぐいっと身を乗り出し、晶姫の両手をがっしと掴んだ。
「彼氏さんに嫌っちゅう程、嫉妬させてやりましょう。その、拓哉さんでしたっけ? そのひとが美樹永さんの元へ戻ってくるまで、最大限にサポート致しますよ!」
この時、晶姫は物凄く怪訝な表情を浮かべていた。