33.深刻さを理解した女
ここ最近、刃兵衛はふと小首を傾げることが多くなった。
いつもあれだけ色々と構ってくれていた晶姫が、余り話しかけて来なくなったのだ。
席が前後で並んでいるから、授業間の小休憩時間に軽い雑談を交わすことはあっても、朝のホームルーム前や昼休み、更には放課後といったまとまった時間になると、必ずといって良い程に刃兵衛の前から姿を消す様になっていた。
とはいえ、晶姫と友達付き合いをし始めてから、まだ一カ月も経っていない。
刃兵衛にしてみれば、ゴールデンウィーク前の状況に戻っただけに過ぎないのだが、しかし何となく、言葉に出来ない虚無感を覚える様になった。
そして愛梨子も、同じだ。
彼女は晶姫程ではないにしても、矢張り刃兵衛と言葉を交わす機会が大きく減った様に思う。
あれ程にお師匠お師匠といつも親しげに声をかけてきてくれていたクールビューティーは、いつの間にか再び刃兵衛の手の届かないところに行ってしまった様な気がした。
(ま……元々僕とは住む世界が違った……それだけのことやろね)
放課後、ひとりで帰り支度を進めていた時、刃兵衛はそんなことを考えながらふと校庭の方に視線を向けた。するとそこに、晶姫が見知らぬ少年と親しげに話しながら歩いてゆくのが見えた。
(あぁ、そういうことか)
全てが理解出来た。
晶姫はビッチとしての過去を捨てようと必死に頑張っていた。その努力がきっと、報われたのだろう。
それはとても良いことだと思った。
あんなに綺麗で笑顔の可愛い美少女が、いつまでも彼氏無しで寂しい青春を送って良い筈が無い。
そして刃兵衛は自他共に認めるコミュ障だから、晶姫の様なスクールカースト最上位の女性と釣り合う筈も無いから、一緒に居るなど当然論外だ。
であれば自分以外の誰かが晶姫の心を射止めなければならないだろうが、それが遂に叶ったのだろう。
(良かったね、美樹永さん)
だがこの時――刃兵衛は自分でも原因が分からない程の寂しさを感じた。
まさか、自分は晶姫と一緒に居た僅か数週間の日々を、心から楽しんでいたというのだろうか。しかしこの隙間風が吹き込む様な空虚な感覚は一体、どう説明すれば良いのだろう。
(そういえば兄やん、いうてたな。ホンマに大切なモンは、失って初めて分かる場合もあるって)
今が、その時なのかも知れない。
矢張り自分は、晶姫と共に過ごした日々を我知らず大切に思っていたのだろう。
それが、失われた。全て終わったのだ。
(いや……もう変に考えんとこ。こんなん最初から無かったんや。僕には縁の無い世界やったんや)
幸い晶姫は、我天月心流のことは絶対に口外しないと約束してくれた。刃兵衛にとっては、もうそれで十分ではないか。
自分の様なまともな交流も出来ない最底辺如きが、何を惜しがる必要があるのか。
そしてこの後、刃兵衛は愛梨子にも彼氏が出来たという噂を聞いた。その相手は学年でもトップクラスのイケメンで、ここ数日は愛梨子と一緒に居ることが多くなったらしい。
恐らくは単なる偶然なのだろうが、結果として刃兵衛は、仲良くしてくれていた友人ふたりを同時に失う格好となった。
(いやいや、失うとか何とか、そんなおこがましい……あんな綺麗なお姉さん方が僕なんかの相手してること自体が、そもそもおかしい話やったんや。そやのに何を今更……)
刃兵衛は自嘲した。
何と、自惚れの強い最低なクズなのだと、己を嗤った。
クラス中には、小さな体格に不釣り合いな程に腕力が強いことも知れ渡ってしまったし、多くのクラスメイトがドン引きしていることだろう。
となると、中学三年間の再現を阻止することは、最早不可能だ。
ここから再び、ぼっち生活が始まる。
もう、覚悟を決めなければならないだろう。
◆ ◇ ◆
朝のホームルームが始まる少し前に、晶姫は教室へと飛び込んだ。今日は少しばかり長めに拓哉と話し込んでしまった為、危うく遅刻扱いとなるところだった。
「ふぃ~、危ない危ない……あ、笠貫、オハヨ!」
いつもの調子で後ろの席の刃兵衛に笑顔を向けたが、しかし刃兵衛は窓の外をぼーっと眺めたまま顔も向けずに、低い声音でおはようと返してきただけだった。
(あれ? 何かいつも以上にテンション低い?)
機嫌でも悪いのだろうか。
そんなことを思いながら、廊下側の席にふと視線を向けた。
すると愛梨子が挨拶代わりに手を振ってきたものの、彼女は彼女で啓太郎と楽しそうに話し込んでいる様子だった。
この時、晶姫は違和感を覚えた。
そういえば、ここ最近刃兵衛と碌に話をしていなかった様な気がする。同時に愛梨子も、刃兵衛と一緒に居るところを余り見ない様になった。
ここで、ひとつの可能性が急激に浮上してきた。
(あれ? もしかして笠貫、ずっと放ったらかしにされたまんま?)
その考えに至った瞬間、顔が引きつった。
そういえば愛梨子が啓太郎と親しくし始めたのは、晶姫と拓哉が再会を果たした頃と時期が被っていることに今、漸く思い至った。
拙い、と内心で焦りを覚えた晶姫。
刃兵衛は晶姫にとっては命の恩人であり、青春の楽しさを思い出させてくれた大切な友人でもある。
拓哉が再び晶姫を幼馴染みとして認識し、今の様に親しく接してくれる様になったのも、元を辿れば刃兵衛が晶姫の為に力を尽くしてくれたからだ。
その刃兵衛を自分は、余りに蔑ろにし過ぎていたのではないか。
勇也に痛めつけられた心を癒してくれたのは、他ならぬ刃兵衛だった。その刃兵衛に対し、自分は余りにも失礼なことをしていたのではないか。
そして再び晶姫は、刃兵衛に振り向いた。
刃兵衛は絶対に話しかけるなという拒絶の空気を漂わせている。
(あ……謝らなきゃ……アタシ、笠貫に、謝らなきゃ……)
心がどんどん冷えてゆくのが分かる。
晶姫は、己の浅はかさを呪った。