30.心のカンフー
朝、登校してきたところで愛梨子は消しゴムが無くなっていることに気付いた。
(あーれー? どっかで落としたっけな?)
特にお気に入りという訳でもないが、無ければ無いで色々と面倒臭い。シャーペンのノックヘッドについているものでも代用は出来るが、可能ならば普通のちゃんとした消しゴムを使いたい。
という訳でこの日は、開店時間早々に購買へと足を運んだ。
「あれー? リコ、どこ行くの?」
「購買。消しゴム無くしちゃって」
登校してきた晶姫とすれ違い、他のクラスメイトらとも朝の挨拶を交わしながら、購買へと到着。
予備として一個余分に購入すると、そのまま教室へUターンした。
ところがその途中、思わぬ相手から呼び止められた。
「やぁ中津川さん……ちょっと良いかな?」
振り向くと、そこに背の高い人影が佇んでいた。
確か一年A組の幸坂啓太郎という、学年内でもトップクラスの人気イケメン男子だった筈だ。
愛梨子も顔と名前ぐらいは知っていたが、今まで口も聞いたことのない相手だった為、急に呼び止められて少しばかり驚いてしまった。
「えぇっと、確か隣のクラスの……」
「あぁ、うん。A組の幸坂ってんだけど、知っててくれたんだな」
微妙にはにかんだ笑みが、少し年少に見える印象を抱かせる青年だった。ふたりのこのやり取りに対し、周辺の色々な方向から視線が飛んでくる。
思いっ切り注目を浴びまくっていた。
何となく気まずい感じになってきた愛梨子は、取り敢えず啓太郎から用件を聞くだけ聞いて、早々に退散することにした。
「んで、何? うち、早く戻りたいんだけど」
「あ、えぇと……その、今日の放課後、ちょっと時間くれないか? 校舎裏の焼却炉ん前で3時半」
それだけいい置いて、啓太郎は自身の教室へと戻っていった。
一体何の用かと小首を捻りつつ、愛梨子は一年B組の教室に引き返した。するといきなり、何人かの女子に詰め寄られた。ついさっき、啓太郎と何を話していたのかとの質問攻めだった。
「え? いやちょっと、別に大したこと話してないけど」
ここで愛梨子は、放課後に呼び出されただけだと何の気無しに答えたのだが、これが室内で大きな反響を呼んでしまった。
女子の半数程は、これは絶対告白の流れだと黄色い歓声をそこかしこで放っている。
そして残りの面々は、美男と美女だからお似合いだとはいえるものの、啓太郎の彼女の座を狙っていた者も少なくなかったらしく、そういった連中からは嫉妬の視線が幾つも飛んできていた。
(はぁ~……入学してから、何人目かな……)
内心で溜息を漏らしながら、一時間目の用意を進める愛梨子。
一年生の間でもスクールカースト最上位に入ると噂される彼女は、その美貌と抜群のプロポーションが男子の間で人気となっており、これまでに何人もの男子生徒から告白されてきた。
が、その都度彼女は丁重にお断りし続けてきた。
理由は至極単純で、今は余り恋愛に興味が無いというのが本音だった。
中学の頃から相当にモテていた愛梨子だったが、これまでの人生で彼女自身が『これは』と思える男子とはまだ出会ったことが無かった。
(だってさぁ……どいつもこいつも、お洒落とか遊びとか、んなことばっかり考えてんだもんなぁ)
愛梨子としては、この学生生活の間では自分の楽しみも充実させたいと思っている。
その最たるものがカンフーだった。
(誰もうちのカンフーオタク、理解してくんないし……)
これまで愛梨子に迫ってきた所謂イケメン男子は、誰も彼もファッションだのグルメだの、或いはカラオケだのゲーセンだのボーリングだの、まるで変わり映えの無い同じ様な話題しか口にせず、似たり寄ったりな連中ばかりだった。
彼らの誰ひとりとして、カンフーに対して真剣な興味を示した者は居なかった。
稀にそれらしい反応を見せる者が居ても、愛梨子と付き合いたいが為に、上っ面だけの言葉で終始しているのが透けて見えた。
(お師匠ぐらいだよねぇ……うちのカンフーオタクを満足させてくれてるの)
刃兵衛本人にいわせれば、彼の技は決してカンフーではないという。
しかし正直、愛梨子にはジャパニーズカンフーであろうとチャイニーズカンフーであろうと、どちらでも良かった。
要はストイックに己を鍛え上げ、緩急自在のテクニックで敵を打ち倒す技術を持ってさえいれば、それは愛梨子的なカンフーとして成立しているのである。
刃兵衛の我天月心流は、そういう意味ではまさにカンフーだった。
そもそもカンフーとは、その本来の意味は『鍛錬や訓練の蓄積』であり、そこに費やした時間や労力への敬意を意味するものである。必ずしも中国拳法そのものを指している訳ではない。
愛梨子としては、刃兵衛が我天月心流の修得にかけた時間と、数多くの努力に魅かれている。刃兵衛はいつも涼しげな顔でその圧倒的な戦闘力をさらりと当たり前の様に発揮するが、その自然体こそが彼女の心を掴んで放さないのだ。
(なぁんていっても、誰も理解してくんないだろうねぇ)
そんなことを思いながら、窓際の刃兵衛席にちらりと視線を向ける。
刃兵衛はこの日も朝から眠たそうな顔つきで、前席の晶姫から色々とちょっかいを出されていた。
(そう……あれよ、あれ。あれなのよ。あの、いつもはボーっとしてるくせに、いざとなったら超カッコ良いってとこ。あの昼行燈がお師匠の良いとこなのよ)
それをどう説明すれば良いのだろう。
刃兵衛はオレ様系でもオラオラ系でもないし、かといって逆に、あざとい系でもない。
あの自然体が良いのだ。
そしてキメる時は徹底して格好良く――その魅力を、愛梨子は誰よりもよく知っていると自負している。
(でも、うちにコクってくるのって、そういう良さがひとっつも無かったんだよね……)
この日、自身を呼び出してきた啓太郎は果たして、どうなのか。
そもそも本当に告白なのか。
愛梨子にもよく分からないまま、時間だけが淡々と過ぎていった。