10.受け入れてしまった女
その夜、刃兵衛と晶姫はファミリーレストランで夕食を終えてから、近くの噴水広場へと足を運んだ。
別段どちらが声をかけた訳ではなく、何とはなしに散歩しているうちに、辿り着いたのだ。
ところがここで、晶姫があっと小さな声を上げた。
「どうかされましたか?」
「あ、いや……うん、ちょっと思い出しちゃって……」
晶姫は照れながら頭を掻いた。曰く、この噴水広場は初恋の相手とファーストキスを交わした思い出の場所だったのだという。
「はは……でも改めてこういう話をゲロっちゃうと、何か恥ずかしいね……」
「まぁファーストキスなんて初々しい話ですから、余計に照れが先にきちゃうんでしょうね」
答えながら刃兵衛は、ふと軽い喉の渇きを覚えた。そういえば、先程まで飲んでいたペットボトルのお茶はもう空っぽだった。
「あ、僕ちょっと自販機まで走ってきますけど、美樹永さん何か要ります?」
「それじゃ、アタシもお茶買ってきてくれる?」
そんな訳で、刃兵衛は噴水広場の出口付近にあった自販機エリアへと足を運んでいった。
◆ ◇ ◆
飲み物を買い求めに去ってゆく刃兵衛の後姿を遠目に追いかけていた晶姫だったが、突然、予想外の声に呼び掛けられて危うく飛び上がりそうになった。
「あれ……晶姫じゃないか?」
「え……えぇぇぇぇぇ! セ、センパイ?」
晶姫が腰かけているベンチの横合いから、長身の若者の端正な顔立ちが覗き込んでいた。
その人物は紛れも無く晶姫の初恋の相手であり、ファーストキスと、そしてロストバージンを捧げた最初で最後の元カレ、六車勇也だった。
「ど、どうして、ここに?」
「ああ、ちょっと連休を利用して実家に帰ってきてたんだけど……それにしてもお前、前よりも更に大人っぽくなったなぁ。何っていうか、余計にエロくなったっていうか……」
当たり前の様に晶姫の隣に腰を下ろし、そしてこれまた当たり前の様に晶姫の肩に腕を廻してきた勇也。
晶姫は、困惑した。
如何に元カレとはいえ、今はもう他人の筈だ。それなのに、この馴れ馴れしさは一体何なのだろう。第一、こんなところを刃兵衛に見られてしまっては、言い訳が出来ない。
「あ、あの、センパイ……ちょっと、その、腕、退けて貰えます? アタシ達、もうそんな関係じゃないんだし……」
「何だよ、晶姫。俺のこと、恨んでるのか? 嫌いになっちまったのか? それとも……他にオトコが出来てたりして?」
勇也はからかう様に笑いながら、頬と頬が密着する程の距離にまで顔を近づけてきた。
以前ならばこのままキスへと繋がる流れだったのだが、流石に今はもうそんなことは出来ないし、晶姫自身そのつもりも無い。
ところが勇也は、まるで付き合っていた当時の様に、ごく自然に晶姫の体をぐいっと引き寄せた。かつて晶姫は、勇也のこんな強引さに憧れ、そして心底惚れていた。この力強さに、オトコを感じていたのである。
だが今はどういう訳か、勇也のこの態度に軽い抵抗感を覚えてしまった。
「センパイ、その……お願いですから、もうちょっと、離れて……」
「何だよ、やっぱり他にオトコが出来ちまったのか? あんなに俺と離れるのが嫌だって泣いて頼み込んでたお前がさ……」
それは確かに、その通りだった。しかし勇也との別れは、どうしようも無かった。彼は高校卒業と同時に九州の大学へと進学してしまったのだから。
当時はまだ中学三年生だった晶姫には、解決のしようの無い話だった。
どんなに別れるのが嫌だったとしても、ふたりは違う道を歩むしか無かったのである。
だが、それにしても何故、このタイミングなのか。どうしてよりにもよって、刃兵衛とデートを楽しんでいたその日に、かつて誰よりも愛した元カレとの再会を果たしてしまったのか。
晶姫はぎゅっと唇を噛み締めた。
あんなに偉そうに刃兵衛に色々とアドバイスしていたというのに、今の自分は元カレの姿にどぎまぎし、口では抵抗しつつも、心は徐々に受け入れ始めている。
その自分自身の軟弱さが、何よりも腹立たしかった。
「別に俺達、嫌い合って別れたんじゃないんだしさ……今、お前がフリーなら……良いだろ?」
「え……だ、駄目です、センパイ。アタシ今日は全然、そんなつもりは……」
そこまでいいかけて晶姫は唇を封じられた。いきなり、勇也がキスを迫ってきたのである。そして晶姫は驚きながらも、元カレの唇を受け入れた。受け入れてしまった。
最初は抵抗しようとしたが、しかし長い長い久々のとろける様な唇の感触に、次第に全身の力が抜けて行ってしまった。
そして、甘い口づけの後に瞼を開いた。目の前に、情熱的な瞳が迫っていた。
晶姫は自分でも頬が上気しているのが分かった。間違い無く、過去の恋人同士だった時の気持ちを思い出して心が高ぶっていた。
やっぱりアタシは、このひとのことが好きなのか――そんなことを思い始めた時、勇也が薄っすらと笑みを浮かべて囁きかけた。
「なぁ、どこのホテルが良い? 久々だから、お前に選ばせてやるよ……」
その瞬間、今の今までぼーっとしていた頭の中が、急に醒めてゆくのを感じた。
勇也が口にしたそのひと言に、どういう訳か凄まじい嫌悪感を覚えてしまったのである。
折角こうして久々に出会い、熱いキスを交わしたというのに、次に出てきた台詞が、晶姫のカラダを求めるだけの短絡的でゲスなひと言だったことに、どうしようもない程の幻滅を覚えてしまった。
晶姫はここで漸く、冷静になれた。必死に、全身の力を込めて勇也をぐいっと押し退けた。
「やめて、下さい、センパイ……アタシ、今日は他の男の子と、デートしてるんです。こんなことされたら、迷惑です……!」
「え? 何だよ、お前オトコ居たのかよ。ちぇ……そういうこたぁ早くいえよな。誘って損したぜ」
すると勇也はまるでひとが変わったかの様に蔑んだ瞳で立ち上がり、さっさと踵を返して去って行ってしまった。それこそ、何の未練も無いかの如く。
その後ろ姿に、晶姫は愕然となった。
あれ程に愛し合った仲なのに、どうしてこんなにあっさりと、見切りをつけることが出来るのか。
そもそも、勇也と別れることが無ければ、狂った様にオトコ漁りをして大勢のセックスフレンドを作ることも無かったというのに。
どうして、こんな仕打ちを受けなければならないのだろう――そう思うと、悔しくて涙が浮かんできた。
(笠貫……早く、早く戻ってきて……!)
涙が止まらない。兎に角、一刻も早く刃兵衛の姿を見て、安心したい。
と、その時だ。
晶姫はスマートフォンにSNSのメッセージ着信があったことに気付いた。
その文面を見た時、晶姫の心が絶望の色に染まった。
「何か、良いカンジのひとがいらっしゃったので、お邪魔したら悪いですね。僕はもう先に帰ります。お疲れ様でした」
最悪だ。
勇也に強引にキスを迫られたあの瞬間を、刃兵衛に見られてしまっていたのだ。
「ち、違う、笠貫、あ、あれは……」
思わず声に出して弁明しようとした。が、出来なかった。
あのキスの時、もし本当に抵抗する気があれば、幾らでも勇也を押し退けることが出来た筈だ。
なのに、そうしなかった。それはつまり、晶姫自身が勇也の唇を求め、そして受け入れる心になっていたからに他ならない。
にもかかわらず、どうしてあれは本心じゃないなどといえるだろう。
(アタシ……馬鹿だよ……大馬鹿だよ! 笠貫が、一緒に居てくれて楽しい一日だったのに……何やってんだよ……)
晶姫は、立ち上がれなかった。
刃兵衛が最後に送ってきていたメッセージ、そこに記されていた「さようなら」の五文字に、途轍もなく重い意味が込められている様な気がした。