彼女の目的 一
こんがりと狐色に焼かれたパンに、香味野菜の緑が眩しいトウモロコシのスープ。よく煮込まれていそうな大きめの具材が存在感を放つ牛の煮込みからは、炒め玉ねぎとスパイスの香りが漂ってきて食欲を刺激する。近年稀に見る食事を前に、ごくり、とネイサンの喉が大きく鳴った。
「食べないの?」
ネイサンをこの状況にさせた張本人は、姿焼きにされた鳥の脚を、早々に骨にしていた。あちらはあちらで、脂とコショウとレモンらしき匂いが混ざって芳ばしい香りを放っている。
「……食べます」
腹の虫が盛大に鳴く気配がして、ネイサンは抗うことを諦めた。
イェト達が街のボスの倉庫を荒らしたというのはまだ気付かれていなかったようで、ふたりが倉庫街を出るのに苦労することはなかった。警備員はいるにはいたのだが、バロールの物に手を出す愚か者はこの街には――基本的には――存在しない、という常識の所為か非常に適当だったため、彼らの目を盗むことはネイサンですら容易だった。街中に恐れられるバロールに感謝したのはこれが初めてだ。
ともかくも、無事に街へ戻ったネイサンは今、イェトに連れられなぜか食事処にいた。
食事処とは言っても、ネイサンが普段利用するような軒先で食べ物のやり取りをするだけの屋台形式の店ではない。酒場や地元の人間が利用するような安食堂でもない。それなりの広さの二階建ての建物で、壁や柱に装飾が施されており、ネイサン達がいる二階に至っては絵画まで飾られているという、全体的に高級感漂う店だった。
飯屋でも食堂でもなくレストランと称すべき場所で、ネイサンはイェトと共に食事を摂っていた。なぜこうなったのかは、正直わからない。倉庫を出たイェトはただネイサンをここへ連れて来て、ただメニューを選ばせ、そして食事を始めた。その間に詳しい説明などはない。金は足りるのか、と言っても「知り合いの店だから」と一蹴された。イェトって説明不足な上に結構強引だよな、とネイサンは思った。
高級感のある店なんて、ここに来て以来一度も訪れたことはない。不釣り合いな場所にいる落ち着かなさや、金銭的なことが気になっていたネイサンは初めメニューを開くことも渋っていたのだが、タイミング悪く盛大に腹が鳴ってしまった所為でイェトに押し切られてしまった。今日は個人的に消耗することばかりだったから、ある種良かったのかも知れないが。
イェトに流される形で始まった食事は、お互い無言のまま進んだ。意識して黙っていたわけではなく、出された料理が美味しすぎたのが主な原因だ。スフィリスで食べた中で一番美味しい料理だった。普段は食べられなくはないレベルの麦粥を仕方なく食べている身としては、感動を覚えるほどだ。
最後の一口を食べ終え、スプーンを置く。喉を潤そうとコップを傾けると、ほんのり柑橘の香りがする冷えた水が流れ込んできた。この店は水すら美味しい。
「あの……イェト?」
もはや健康にいい気すらする水を飲みこみ、ネイサンはおもむろに口火を切った。
「すっごい今更ではあるんだけど……こんなにのんびりしちゃってよかったの?」
本当は食べながらでも聞きたかったのだが、料理の美味しさに流されて後回しになってしまった。ネイサンの問いかけに、肉汁で汚れた指を拭っていたイェトはその手を止めて首を傾ける。
「なんで?」
「え? えーっと……ほらさっき、忙しいって言ってたから」
「……ああ」
問い返されたことに戸惑いつつ、倉庫であったジェイとのやり取りについて指摘すると、イェトは納得したように頷いた。
「あれ、ただの口実」
「へ?」
「あいつの相手したくなかったから言っただけ。本気で戦りあったらどっちかが死ぬまで終わらないなと思って」
今はちょっと、死ねないから。
何でもないことのように言いながら、イェトは指を拭き終えて自分のコップに手を伸ばした。
「別に暇ってわけでもないし、嘘だったわけじゃないけど」
「そ、そうだったんだ……」
どう反応したらいいのかわからず、曖昧に頷くことしかできない。自分を『イェトやジェイとは別次元の人間』と称していたイェトの言葉が蘇り、ネイサンは納得せざるを得なかった。スフィリスに来て、故郷にいた頃よりも命が安い世界で生きるようにはなったが、だからといってここまで気軽に生死を口にすることはネイサンにはできない。本当に、生きている次元が違う気がした。
「――で、腹は満足した?」
「え? あ、うん……」
「じゃあ、行くよ」
話が途切れ、もうここに用はない、と言わんばかりに席を立とうとしたイェトに、ネイサンは慌てて「ちょっと待って」と制止の声をあげた。腰を落ち着けて話せる場所にいる間に、もうひとつ聞いておきたいことがある。
「あの、そろそろ仕事の話というか……僕を雇った理由か目的を教えてもらえると嬉しいです……」
イェトがネイサンの店を訪れてここに至るまで、彼女からは何も聞かされていない。ネイサンがわかっていることは、宇宙船でどこかへ行く必要がある、ということだけだった。
ネイサンの言葉にイェトは、瞬きをひとつしてから座り直す。「そう言えば言ってなかったっけ」。そう言われる気がしました、とネイサンは思わずため息を吐いた。
「最近、スフィリスの近くに廃船が来たって話知ってる?」
「え? いや、初めて聞いた」
「なんか、宇宙嵐かなんかの影響で流されてきたんだって」
「宇宙嵐で? ……もしかして漂流デブリかな」
イェトの言葉に、ふむ、と考え込む。漂流デブリとは、宇宙空間を不規則に漂うデブリ――ゴミだ。惑星の引力の範囲外にあるものを言い、宇宙航行に於いては衝突可能性のある厄介な存在だった。ネイサン達が暮らすこのロアセル星系の太陽・恒星ロアセルのガス放出で生まれる宇宙風が引き起こす宇宙嵐の影響を最も受ける存在でもある。
「最近宇宙嵐があったっていうの自体知らなかった。ここは空が見えないから、星の観察すらできないし」
スフィリスは街の全体を大きな屋根が覆っている『空のない街』だ。故に、上を見上げて青空を見るどころか太陽光を浴びることすらできない街だった。
「イェトはその廃船に行きたいの?」
「そ。調べて来いって言われた」
「調べて来い……?」
その言い回しに、首を傾ける。まるで誰かの指示で行動しているような文言だ。これまでの振る舞いからイェトが誰かに従う姿が想像できなかったネイサンは、その言葉に違和感を抱いた。
「それ、誰に言われたの?」
「バロール」
「…………はい?」
バロール。蛇頭のバロール。ここスフィリスを支配するギャングの頭目であり、事実上のスフィリスの王。巷を行き交う一般の人間には、その顔すら知られていない存在だ。
「……ちょっと待って、まさかイェトってバロール一味の一員ってことは……」
「いや、ただの取引相手」
「ですよね」
いくら我が道を行くイェトでも、自分のボスの持ち倉庫を平気で荒らしたりはすまい。相手が冷酷無慈悲と名高い人間であれば尚更だ。
「でも、バロールと取引するなんて……イェトっていったい何者なの?」
彼女と出会って以降幾度となく抱いた疑問を、ネイサンはようやく本人にぶつけた。その問いに、イェトは頬杖をついて答える。
「ただの賞金稼ぎ」
「……いや、ただのってことはないでしょ」
この世に賞金稼ぎ――賞金首を捕まえることを生業とする人々がいることはネイサンだって知っていた。なるほど、イェトのとんでもない度胸も強さもそれなら納得ではあるし、賞金稼ぎという言葉に嘘はないのかも知れない――――が、一介の賞金稼ぎが直接取引できるほど、バロールは安い相手ではないはずだ。
「街を支配するでかいギャングのトップだよ? そんな奴をただの取引相手とか、普通言えないって」
「そんなこと言われてもね。あいつとはもう何回か取引してるし」
「付き合い長いの?」
「もう十年以上かな」
「……え?」
その言葉に、ネイサンは思わずイェトを凝視した。当人の言動や雰囲気はともかく、その見た目はどう見ても10歳前後の少女だ。十年以上前なんて、下手したら生まれていないレベルの外見をしているのである。
「でも必要以上に取引するといい顔をしない奴がいるから、前回受けた仕事が終わったらまたここを離れる予定だったんだけど……ちょっとやらかして」
ネイサンが自分の言葉に引っ掛かりを覚えていることなど気にも留めてない様子で、イェトはそう言った。
「な、なにしたの……?」
「仕事先で殺した連中の中に、バロールの部下がいたんだよね」
「は?」
「あいつと敵対してる小さいギャングのアジトを潰せって言われてたんだけど、その中にバロールが潜り込ませたスパイがいたらしくてさ。でもそれ私達は知らなくて、敵だと思って普通に殺してた」
「え、ええ~……」
「報酬貰いに行った先でそれが発覚して。責任取れって言われてもう一回あいつの仕事する羽目になった」
「もうどこからツッコんだらいいのかわかんないんだけど……」
料理のレシピを読み上げるかのように淡々と説明されるとんでもない状況にくらくらしつつ、「でもさ」とネイサンは続けた。
「イェトは知らなかったってことは、伝え忘れてたバロールの責任でしょ? 断ったらいいのに」
「それはできない」
「どうして?」
「あいつの部下を殺したのは事実だし。……それに、人質取られてるから」
「人質……え?」
意外過ぎるその言葉に、ネイサンは呆気に取られて向かいを見た。傍若無人で我が道を行くイェトに、人質に取られるような弱点となる存在がいる。彼女の言葉をそのまま受け取ればそういうことになるのだが、正直にわかには信じがたかった。先ほどの倉庫の一件で自分もその立場になったといえばなったはずではあるのだが、今彼女が話しているその人質は、なんだかそれとは随分と重みが違う気がした。
イェトは肘をついた手で耳に付けられた金のピアスを軽くいじりながら、ぼんやりした声で続ける。
「相棒がいるんだけど、そいつがバロールに捕まってるんだよね。だから断るに断れない」
――――お前があいつを連れてないとは珍しいな。
不意に、酒場で聞いたマスターの言葉が蘇る。あの時はよくわからなくてスルーしていたが、彼が言っていたのはこの『相棒』のことだったらしい。
「前回の報酬も支払われてないから金もない状態で、船を持ってない私に星の外に調査に行けってさ」
理不尽だよねぇ、と本当に思っているのかいないのかわからない声音でイェトが言う。どこか諦めているようにも聞こえたそれに、ネイサンは無意識に眉根を軽く寄せた。彼の知る限り、イェトは『強者』だ。自分とは違い理不尽に屈さず、状況を覆す力を十分に持っている。であれば今回だって――――
「――直接行ったりしないの?」
「……なんだって?」
ネイサンの問いにイェトは訝し気な表情をした。
「だって、イェトって強いでしょ? バロールの理不尽な命令に従わずに、その人を直接助けに行くことだってできるんじゃ……」
ネイサンの言葉に、金色が数度瞬く。そして、どこか呆れたような色を浮かべた。
「言ったでしょ。バロールは取引相手。あいつからの仕事を反故にしたら、もう二度と取引できなくなるし、報復もあり得る」
「で、でも……」
「それにここはバロールの街だ。あいつと事を構えたら、自由に出入りすることなんて不可能になる」
「それは……」
「スフィリスは人と物と情報が集まる場所。バロールと直接取引してなくても、賞金稼ぎとしては美味しい街なんだ。手離すにはデメリットが大きすぎるんだよ」
イェトの言葉に、ネイサンは知らず知らず視線を落とした。確かに彼女の言葉は正しい。今後のことを考えたら、多少理不尽だったとしてもここは従うのが賢いのだろう。そもそもこんなこと、ネイサンが口を出すべきことではないのだ。領分を間違えた、と反省の念が湧くのを感じつつ、一方で、でも、と彼は思った。
ネイサンとて一年この街で暮らした人間だ。バロールの悪い噂などいくらでも聞いている。拷問好きだとか、気分ひとつで人を殺すだとか、人が死ぬのをショーのように楽しむだとか、その噂は多種多様だが、共通して言えるのは人として信用できたものではない、ということだ。そのうえ、自分のミスを棚に上げて相手に責任を取らせようとする性根の腐った男が、人質を無傷なままでいさせる保証があるだろうか。
「イェトの言うこともわかるけど……でも、さ。もし、イェトがその仕事を終わらせる前に人質が傷付けられて――――」
いたとしたら、と続くはずの言葉が、勝手に喉の奥に消えていく。イェトの金色の瞳が、ネイサンを見ていた。
「その時は――」
氷のように冷たいのに、炎が燃えてるようにも見えるその光に、ごくり、と無意識に唾を飲む。動けなくなったネイサンの耳に、淡々と、それは響いた。
「――――全員、殺すまでだ」