漁師の女と見習い男
渡は正義の口利きで、古めかしいアパートを借りた。母親と暮らしていた家はここまで古くはなかったが、田舎というのもあって古い建物には違いない。だから、逆にこういう雰囲気の方が落ち着いた。
あれからバタバタと色々決まって数日が過ぎたが、やっと落ち着いて夕飯も済ませて、畳に上に寝転がって一息ついている。
明日から早速朝一で、船に乗るということで、あの港へ行く。
ただ、正義は別の仕事があるらしく船には乗らないということで、代わりに龍子が立ち会うということだった。なんでも、龍子はたまに父親の仕事も手伝っているらしいので、案内役も兼ねているらしい。
「あぁ...船かぁ...あんなでっかい船に乗るのは、初めてだな。うん...楽しみだな...あぁああ...なんか貰った弁当食べたら眠い...んー...かーちゃんの味に少し似てて...美味かったなぁ....」
布団も敷かず、渡は黄ばんだ畳の上に仰向けに寝転んだまま、うとうと瞼を閉じて眠ってしまった。
次の日。セットしておいた携帯のアラームが鳴って飛び起きた渡は、胡座を描いたまま、下に顔を向けて豪快にあくびしながら鳥の巣状態の頭をガリガリ豪快に描いた。
寒さに身震いをして両手で腕を掴んでゴシゴシ温めてながら、風呂場へと急いだ。当然シャワーも冷たくて、更に震えてが来たが、長年鍛えてきた精神力でなんとか乗り切り、暖かくなると脱衣所で服を脱いでシャワーで温まった。
髭も剃ってさっぱりして出てきた渡は渡されていた漁師の格好に着替え、中古で安く手に入った中古の自転車で港へ向かった。流石に福島の秋は東京よりは寒く、上に羽織ったジャンバーでもスピードに乗った自電車の上では風か冷たくて折角温まった身体もすぐ冷えた。でも幸い、母親から貰った手編みのニット帽を付けていたので頭は暖かかった。
「あぁ...本当にきたんだ」
自転車を駐輪所に止めて、乗り込む船に向かった矢先、龍子に会う。
どこか不機嫌で、少し冷たい視線が向けられる。
「そりゃ...約束してたし」
「ふーん...まぁ、朝寝坊せずに来れたのは、評価に値するかな...でも、漁師になりたいって言うからには、当たり前、だけどね」
「お、おう」
何故不機嫌なのか分からないまま不思議そうにしている渡は、こっちと龍子に言われるままに後について行き船に乗り込む。
「じゃー揃ったな!出発すんぞー!!」
船長が大声を張り上げて船はエンジンが掛かる。
ガクン
エンジンが掛かり、停止しているよりも海へ出ると揺れは多少なりとも大きい。
「おぉ!!」
渡は根っからの野生児的なところがあり、多少揺れがあってもへっちゃらである。
「ふーん...まぁ...ここまでは順調ってことね」
横にいた龍子は船が動いたことに子供みたいにはしゃいでる渡を見て、少し冷めた視線を送る。
「うん?...あー、うん...ぴすーぴすー」
自分だけ浮かれているのに気づいて、渡は恥ずかしくなって腕組みをして仁王立ちになると、わざとらしく鳴りもしない口笛を吹く。
「...ま、うちの父さんみたいな感じじゃなくて、良かったわ」
「え?」
「...うちのとーさん...結婚した後、僕が後を継ぎますって、今の仕事を辞めて、本当は漁師になるって言ってたらしいの。まぁ、後継いないから家業は廃止するかとじーちゃんが弱気になってた時期で、かーさんが後を継ぐかどうかって悩んでて...でもまぁ、結局その時私を孕ってたのが発覚したからかーさんはその時は諦めたけどね。だから、急にとーさんが継ぐって言い出したらしいの。でもあの人......船酔いするらしくって、漁に出た途端吐きまくって、全然役に立たなかったらしいの。ということで、今日、とーさんが来ないのは、船酔いして乗れないから。全く、いー迷惑よね」
「あーあぁ...そういう」
「そう」
「だから、同じ感じだったら、海にでも落としてやろうかなってほど、今、あんまり機嫌良くないのよ。自分が誘っておいて、自分が乗れないからあと頼むとか、無責任じゃない?...たく...今日は、たまの休みだったっていうのに...」
「あ、ごめん...だから、ずっと不機嫌だったのか」
「...まぁ...どうせ、家でゴロゴロしてるだけだから...いいけど」
龍子は手を合わせて素直に謝る渡に好感を持ったらしく、不機嫌だったのが和らいだが少し恥ずかしさがあって、明後日の方向を見ている。
「で、今日は、何をするんだ?」
「ゴミを集めるために網を張っては、引き上げて、船で大まかに分別しては、の繰り返し。海中の様子は別の人が今日は潜るから、そのゴミの引き上げもする感じかな」
龍子は渡に問われて視線を渡に戻すも、少し気恥ずかしいのが残って顔が複雑な感じである。
「へー...」
「...あ、そのジャンバー自前でしょ?びしょびしょになるから、脱いでおいた方がいいわよ」
「あ...じゃ、あっちで脱いでくるわ」
渡は、機関室に入ってジャンバーを脱ぐとすぐ戻ってくる。まだ朝と言っても五時を少し過ぎた頃、海風が少し冷たく、寒さに少し身震いする。
腕を組んで腕を両手で擦り、足を交互に軽く上げ下げしていれば、元々鍛えられた肉体、暖かくなってポカポカして、逆に熱くなって顔がほんのり赤い。
「あんた、仕事する前からそんな張り切ってどーすんの?結構、話聞いてるだけより、ハードだけど」
「ん?あーぁ...これ、ウォーミングアップだから全然、余裕」
「...あんた、そういえば前職なんだっけ?」
「一応、プロボクサーだった」
「...プロボクサー??...えっ...なんで、それで、漁師...」
「だからさ」
「大丈夫、その件は何回も聞いたから。もういいわ。それより、そろそろ着きそうだから、準備するわよ」
龍子はそう言いながら、手慣れた様子で編みの近くに行き、スタンバイする。それを見よう見まねで、渡も網をしかと掴んで海の方を見やる。
「あ...はい、これ」
ぽいっと丸まった手袋をジャンバーのポケットから取り出すと、渡に投げてよこす。渡は反射神経はいいので、急なことでも反応して、うまくキャッチする。
「手袋しないと、手が切れるから、それしときな」
「あ、ああ!サンキュー!!恩にきる!」
渡は手袋を嵌めながら、ニコニコと龍子の方に笑顔を向ける。その笑顔があまりにも無邪気で、龍子は思わずドキッとしてしまう。それがなんだか分からなくて、龍子は少し耳を赤くしながらふいっと顔を背ける。
またなんか怒らせたかと勘違いした渡は、片手で頭をぽりぽり軽く描いてから、まぁいいかと網を持ち直して海をまた見据える。
太陽が登ってきてキラキラと海面が光るのを、渡は目を大きく見開いて感動しながら眺めている。
快晴になるような気配で、幸先がいいと渡は、にまっと笑みを漏らした。
その日は快晴であり、海は穏やかで。ただ、網を投げて引き上げれば相当なゴミが上がってくる。海に潜っている部隊も、海底にあるゴミを拾えるだけ拾ってくるものだから、ひっきりなしだ。
スッキリしていた船も、今ではゴミの山。
初めは龍子も網を引っ張っていたが、流石に昼に近い時間となると疲れたのか分別の方へ回っていた。ほとんどがそうであるのに関わらず、体力バカな渡は今も元気に網を引き上げている。
「おーにーちゃん!やりおるな!」
渡よりもガタイのいい口髭のつるっぱげのおじさんが、ニコニコしながら話しかけてくる。
「まぁ...自慢じゃないですが...体力だけは、自信、あるんですよね」
「ほー...にーちゃん、前は何やってたん?」
「俺っすか?一応、プロボクサーです」
「ほー...すげーなぁ。ははは、だから、体力あんのか!普通、大概最初の数分で新人は分別に行っちまうんだけど、おまえさん、見込みあるかもな!」
「本当ですか!!ありがとうございます!!」
元気よくハキハキとした口調で、渡は笑顔で頭を下げる。
「おぉ、いいねぇ〜。気に入った!これ終わったら、呑み行くか?奢るぞ!」
「あぁ...すんません...俺、下戸なんですよ」
「あぁ??オメー、そんなで呑めねーのか!...あはははははは!!おもしれーやつだな。うん!...じゃー今度、うまい飯奢ってやるからな!別の日にしよーぜ」
「あ、はい!ありがとうございます!!!楽しみにしてます!!」
「おうおう、いい返事だな。これからも仲良くしてこーな!」
「はい!!」
ガタイのいい男と渡が仲良さそうにデッカい声でやりとりしているのを、後ろで聞いていた龍子は何かもやっとするものを感じながら不機嫌そうに作業を黙々とこなすのであった。
作業が終わって船から降りて現地解散であったが、龍子は父親から渡を夕飯に誘うように言えれていて、渋々渡を夕飯に誘った帰り道。渡は自転車を手押しで、龍子の横をトボトボ歩いた。
「随分、喜之助さんと、仲良さげだったじゃない」
「うん?...喜之助さん?」
「は?...あんたが、ずっと喋ってた人、近藤喜之助さんって言って、あの船の副船長よ。うちのとーさんの親友でもあって、一緒に活動してるの」
「へー...そうなんだ」
「て、いうか、そういう話はしなかったの?」
「全然?」
「...あぁ...そう」
「でも、気さくでいい人だよな。なんか、俺がいたジムの会長と、なんか似てるんだよなぁ〜」
「ふーん...そう」
「ていうかさ...さっきから、なんか不機嫌だよな?」
「え?そう?」
「なんか、あった?」
「なんかって...」
そこで自分が何故不機嫌なのかと、改めて考えた龍子は、恋をまだ知らないものだから、そこに恋心が関係していたとも分からずに、とにかくスッキリせずモヤモヤしてるとしか分からず、きっと休みが潰れたのが腹立たしいのだと自分を誤魔化し小さく苦笑する。
「そりゃーあれよ、折角の休みが濡れ鼠で、クタクタになって終わったっていうのが気に食わないだけよ。だって、明日も漁はあるし」
「あぁ...そうか...それはそうだな。大変だな」
「......バカ」
龍子は本当に小さな声で、無意識に思わず言葉に出してしまう。
「え?何?」
能天気な感じで返した渡に、ムカっと少し怒りを覚えて、わざとよろけたふりをして渡の片足を思いっきり踏んだ。
「イッテェェ!!!な、なん?」
「あら、ごめんなさい」
少し機嫌が直った龍子は、逃げるように走り出して、それをモタモタしながら自転車を押して渡も足早に追いかける。
二人は何故か笑顔で、子供みたいに笑い合う、そんな夕暮れ時。
完