漁師の女が悩んだ結果
渡がガンとして譲らないため、宗忠のお爺さんが取りなったというか押し付けられて、女性は自分の家に招き入れた。この女性、強口サヨリの娘、龍子である。
母が辰年だからといい、それはいいと祖父がノリノリで、反対する父をよそにつけられたのがこの名前。本人はこの名が、ものすごく嫌いである。
「はい、どーぞ。えーと、黒風矢渡君だっけ?たっちゃんから事前に電話で聞いたけど、漁師になりたいんだって?」
居間に通された渡は、大きな長方形のコタツに一番端っこに座っている。古びた座布団は、見た目以上にふかふかして座り心地が良い。足を伸ばせば、掘りコタツになっていて渡は自分のお婆ちゃんの家もそうだったと懐かしむ。
そんな所で、まるメガネの白髪混じりの男がお盆にお茶を乗せ運んでくると、渡の横から手を出して目の前に置き、隣にちょこんと座る。
やや細身のいかにも気弱そうだが優しげな感じの、何故か昔の書生のような出立ちでシャツにその上に着物更に羽織り、下は袴を身につけている。
この男は、サヨリの旦那で、龍子の父親、正義と言って海洋学の権威で海外の有名大学に勤めていた。だが、研究していくうちに海洋ゴミ問題に心を痛めて、大学を辞めて海のゴミをいかに減らすかという団体を故郷の福島で旗揚げ、その過程でサヨリといい仲になって結婚したのだ。
福島の漁業組合ではかなり信頼されていて、今回一部の検査も口に入ってから問題になっても福島ブランドの傷がつくと、定期検査をした方がいいと解いたのもこの正義である。
そんな正義、使い古しで色も落ちているためいい感じに家自体も平家で古めかしく、雰囲気に馴染んではいるものの、渡が現在いる居間では他の面々がジャージということもあってチグハグして違和感しかない。それで言えば、使い古しのジャンバーに中は白の長袖、下は色が落ちた青いジーンズの渡が一番ましな格好である。
現在居間には、サヨリが高校の時の指定ジャージだった赤ジャージを着て渡の反対方向斜め横に座っている。
そのサヨリの横は、サヨリの父である厳三があぐらを描いて腕を組みメガネに髪を染めて黒々した髪をオールバックにし、ムスッとした顔で渡をジロジロ見ている。
その隣にはサヨリの母、清子。少しきつめの顔立ちだが、目元が優しく髪が白髪で真っ白なため、厳三と並ぶと葬式の垂れ幕のようである。
ふふッと笑い出しそうな笑みを浮かべて物静かに正座してお茶をすすって座っている。品の良さが伺えるが、厳三とペアルックのスポーツメーカーアデデスの白いジャージなので今一つしっくりこない。
まだ家族はいるのだが、姉夫婦と子供は、福引きで当たった旅行に出掛けていて、長男と三女は大学のサークルの友達と遊びに出掛けているので今はいないのである。
そう、強口家は昔ながらの大家族なのである。
龍子といえばその場にいなかったのだが、風呂に入っていた。そのため風呂上がり、と言っても最近バーゲンで買ったま新しいプーマンのお気に入りの黒のジャージ姿で頭にタオルを乗っけた状態で、奥渡り廊下を渡って居間に入ると、祖母の前、渡の隣にドカッと男混じりに胡座を描いて座った。
「この人、漁師になりたいんだって、じーちゃん。そんな簡単なもんじゃないからって言っても聞かないし、東京から来たっていうし、知り合いもいない、宿もないじゃぁ...流石に放っておけなくて...まぁ、そんな感じで連れてきたの」
龍子に話を聞きながら目を細めた厳三は、ムッと顔を引き締める。
「ふん!!おい、若造!漁師はな、最近のわけーやつが考えるほど楽な仕事じゃねーんだよ。成り手が減って、その分稼げるなんてテレビで言いやがって!しかも、優遇して働きやすい環境づくりだぁあ!!そんなのはな、一部の本当に儲かりまくってる大型船に乗った奴らの話で、全部が全部そんなわけねーんだよ!船の修理だってバカにならねぇのに、やっと家族総出でやって暮らしてる奴らばっかりだ!給料なんてそんな高え金額出せるわけもねぇし、家族や地域のみんなで助け合って経営してるからどうにかやれてるだけで、新たに他人様を雇えるほど、どこもいい稼げじゃねぇ。年々、俺たちが入れる領域狭まって、結局狭い範囲で漁をするから海の魚も少なくなってんだ。漁師のなり手もすくねぇけどなぁ!魚もいなきゃ、俺たち漁師は、漁師じゃねぇんだよ!分かるか!」
不機嫌がさらに眉間にこれでもかってほどに皺を寄せて一見これだけみたら激怒した感じの般若顔で、勢いよく相手の話す隙を与えず怒鳴り散らした。
ただ、厳三は昔ながらの漁師というのもあって、口が悪いだけであり、特段激怒しているわけでもなく、多少は腹が立っている程度でいつものことである。
家族はそれを重々知っているから、特段止めることもせず、むしろ龍子はそれを狙っていて、俯いた瞬間にニヤッと嬉しそうに笑みを浮かべては、顔をあげるとすまし顔。それぞれコタツの上の茶菓子やみかんを食べて他人ごとである。というのも、源三が追い返そうとわざと怒鳴り散らしているのがわかっている、のもある。
「...うーん...でも、俺は、漁師になりたいんです!どうか、この通りです!!」
渡は、手慣れたように座布団からスッと後に下がって膝に置いていた両手を畳の上に置くと深々と頭を下げて、声の通る大きな声で頼み込む。
「うぉあ?......いや...うん...」
今まで俄かな気持ちで来ていた若者を怒鳴り散らして返してきた手前、ここまで頑固なのはいなく、戸惑った厳三は清子に助けを求めるように困り顔で視線を向ける。
渡の行動に清子も驚いたらしく、いつもなら助け舟を出すところを、いまは同じく困ったように小首をかしげてほほと手前のみかんを口にして、だんまりである。
「それならまず、僕のところで引き取りましょうか?ちょうど忙しくなってきて、人手が欲しかったところなんです」
皆がてんでで困った顔をしている中、正義だけはこれ幸いというように満面の笑顔でそう申し出た。
「...お、おおう...まぁ...正義君の方なら給料もいいみたいだし、船仕事もあるようだから、試しにそっちを手伝っうのがいいかもな。...頭み冷えるだろーし。もう一度よく考えるのも...いいかもしれんな。どうだ、坊主、そうしねぇか?」
厳三はほっとした顔をして、うんうんと頷きながら土下座したままの渡に視線を向けて、優しく問いかける。
「うーん......それでもし、漁師にまだなりたいって言ったら、漁師にならしてくれるんですか?」
土下座から顔を上げて姿勢を整えた渡は、まっすぐに真剣な顔で厳三を見つめる。
「...お前、頑固だって、いわれねぇーか?」
「...あーまー...それより...どうなんですかね?」
「...まぁ...なんだ...最低でも一年、正義君所で頑張れたなら...俺ん所で雇ってやるよ」
「ほんとですか!!......ありがとうございます!!」
渡は感極まったらしく少し行儀悪く膝をついたままずりずりと勢いよく這って前のめりに出ると両手を大きく上に広げて厳三を抱きしめた。
「お、おぉぉい!???」
厳三は驚きすぎてそれ以上言葉も出ず、周りのみんなはおかしくて声を抑えながらもゲラゲラ笑っている、そんな土曜の夕暮れであった。