2 治療院へようこそ
治療院の勤務初日。
学園在学中と同じように一緒の馬車に乗り込んだのはいいけれど、レヴィン様は隣に座り左腕でがっちりと私の腰のあたりをホールドしつつも、むすりとした表情のまま外の景色を睨みつけている。
超絶機嫌が悪い。
でも、こんなレヴィン様は珍しく、ちょっとかわいいと思ってしまう。
「レヴィン様」
「……」
うわ。返事もしない。
「超絶不機嫌な、レヴィン様」
「……うるさいな」
「レヴィン様って、本当に私のことがお好きなのですね」
そう言ってにっこり微笑むと、レヴィン様はむすりとした表情をしたまま私を睨みつけた。
「悪いかよ」
「悪いわけありません。すごくうれしいです。でも」
思わず口角が上がってしまう。
「私の方が、レヴィン様のことをお慕いしていますので。私の方が、レヴィン様よりもずーっとずーっと、何倍も何百倍も、レヴィン様のことを好きなので」
レヴィン様は唖然としたまま数秒間停止して、それから諦めたように、はあ、とため息をついた。
「お前には敵わないな」
「ふふ。お褒めに預かり、光栄です」
「アリエル」
つぶやいたレヴィン様の顔が近づいてきたかと思うと、お互いの額同士をくっつけて困ったように話し出す。
「お前、騎士科のやつらに人気あるんだよ」
「え? そうなのですか? 初耳ですけど」
「当たり前だろ。そんな話お前にするかよ。聞かせたくもなかったし」
「でも、学園にいた頃から私がレヴィン様しか見ていないことはみなさん知ってるはずです。あれだけ盛大に、レヴィン様の圧倒的尊さ、素晴らしさを布教して歩いてたんですから」
「だからさ、そういう一途なところに、男はぐっと来るんだよ。しかも俺はエレストール家の人間で、どうせ早死にすると思われてんだから。俺が死んだあと自分がアリエルを口説き落とす、なんて言ってたやつもいるしな」
「なんですか、それ。そもそもレヴィン様は早死にしませんし、万が一私より先に亡くなったとしてもレヴィン様以外を選ぶなんてあり得ません。どこの馬鹿ですかそれは。私が精霊に言って、地味な嫌がらせをしてもらいます」
「なんだよ、地味な嫌がらせって」
「うーん、そうですね。剣を抜こうとしたら、剣と鞘がくっついていて抜けないとか? 教科書を全部糊付けしてしまうとか? お弁当箱を開けたら、中身がすでに空だったとか」
「なんだそれ」
「ふふ。でもですね、レヴィン様を貶めるやつは、天が許しても私が許しませんから」
大真面目な顔でそう言うと、レヴィン様はふっと笑って、いきなり私のこめかみにキスをした。
「……お前って、ほんと、最悪にかわいいよな」
「そんなふうに思ってくれるのは、レヴィン様だけですよ」
目が合って、今度は唇にキスが落とされる。
「……俺だって、わかってんだよ。治療院が人手不足なことも、お前が手伝いに行けばみんなが助かることも、それがお前にとっていい経験になるだろうってこともさ。魔法学科に行かせなかったのも、俺だしな」
「それは、私だって納得して――」
「俺がお前を早く独り占めしたかったんだよ。お前を早く、俺だけのものにしたかった」
そう言ったレヴィン様の目が、時折見せる抗えない甘い熱を孕んでいるからどぎまぎして何も言えなくなってしまう。
「……はあ。かっこ悪いな、俺」
「そんなことはありません! レヴィン様はいつだって、惚れ惚れするほど素敵です。レヴィン様の奇跡の美貌には精霊王様だって敵いませんから。そんな人が私の旦那様なんて、いまだに信じられません」
「……お前には、ほんと敵わねえよ」
観念したように微笑むレヴィン様はやっぱり麗しくて、私の方がため息をつきたくなる。
「学園にいたときみたいに、お昼は一緒に食べましょうね」
「そうだな」
馬車を降りる頃には、どうにかレヴィン様の機嫌を上向かせることに成功したらしい。
*****
レヴィン様と別れて治療院に向かい、これまではあまり縁のなかった赤茶色のドアを思い切り開けた。
「おはようございます! 今日からお世話になります、アリエル・エレストールです!」
勢いよく中に入ると、見覚えのある顔がにこやかな笑みを浮かべている。
「よく来てくれたわね、アリエル」
それは、この治療院の院長でもあるサンドラ・リンディール先生。
生徒たちはもちろん、多くの先生方が全幅の信頼を寄せるベテラン神聖魔法士でもある。
学園に在籍している間は治療院のお世話になることがほとんどなかった私だけど、それでもサンドラ先生が神聖魔法の授業を持っていることもあって、それなりの面識はあった。
「ほんとに助かるわ。アリエル・ファラサール、じゃなかったわね。アリエル・エレストールになったのね」
「はい!」
実は今日、私が最も楽しみにしていた瞬間がこれ。
今日から私、アリエル・エレストールを名乗ることができるんです!
うれしくて、無駄に名乗りたくなる。ふふふ。
「来てもらって初日から申し訳ないのだけど、早速騎士科の剣技の授業が三時間目にあるのよ。その時間、私は魔法学科の授業に行かないといけなくて。リネットと一緒に剣技の授業を見に行ってくれないかしら」
「それはもう。行くなと言われても行きます」
私の返答にサンドラ先生が思わず吹き出した瞬間、治療院のドアが軽やかに開いた。
「おはようございます。って、あら、もしかしてアリエル様? 私、リネット・オラノールです。クレアの友だちの」
「ああ! アリエル・エレストールと申します。この度は、お世話になります」
「お世話になるのはこっちの方よ。ほんと、よく来てくれたわ。なんせここは、年がら年中人手不足なんだから。有望な神聖魔法士は魔物討伐の方にスカウトされちゃうし、治療院の仕事ってなんか地味だと思われてるのか人気がなくて、なり手がいないのよね」
それは、そうかもしれない。
エレストール家の人間しか使えない闇魔法とは違って、神聖魔法を扱える家系はいくつかある。そして、治癒や解毒ができる神聖魔法も魔物討伐の際には当然欠かせない。だから神聖魔法が使える者は魔法学科に進学したあと神聖魔法士という資格を取得するのが慣例というか、暗黙のルールみたいなところがある。
私の実の姉であるシェリル姉様も、現在魔法学科の二年生に在籍している。
卒業後は神聖魔法士の資格を取得し、魔物討伐部隊に所属することになると思う。
神聖魔法が使えるのに魔法学科に進学しなかった私は、実はだいぶ珍しいのである。
魔物は北の国境付近、カルヒ山脈に生息していると言われている。時期によって増えたり減ったりするらしいけれど、その生態調査や討伐のため、定期的に魔物討伐部隊が編成される。
部隊は主に魔法騎士と魔法士、それと神聖魔法士で編成され、そのほかにもさまざまな人たちが駆り出されることになる。意外にもそこが出会いの場になることも多く、多少危険な任務とはいえ学園で婚約が決まらなかった人たちは多くが討伐部隊に志願する。
そうなると、恐らく出会いの場にはなり得ない、治療院での仕事を選ぶ人は限られてくるわけで。
「アリエルは今日が初日ですし、ひとまずリネットの動きを見て仕事を覚えてくれればいいわ。怪我をした生徒に神聖魔法を使うのはまだできないから、それ以外の雑用をしてくれると助かります」
「はい!」
「リネットは、アリエルに必要な指示をしてあげて」
「任せて下さい」
「あ、それと、アリエル。午後の魔法学科の授業は出てきてもいいわよ」
「え、いいんですか?」
「ええ。魔法薬学と毒についての授業だから。担当の先生方には話してあるし、聞いておいた方がいいと思うわ」
「ありがとうございます!」
なんだかとんとん拍子でいろんなことが進むなあとほくほくしていると、リネット先生が治療院の制服らしい白衣を持ってきてくれた。
「これ、どうぞ。授業に出るときはここに置いていって構わないから」
「ありがとうございます、リネット先生」
「やだ、『先生』はやめてよ。リネットでいいわよ」
「そういうわけにはいきません。あ、でも私のことはアリエル、とお呼びください」
リネット先生はクレア義姉様と同い年。
ということは、私より9歳も年上なのだ。呼び捨てなんて、恐れ多くてできない。
「ふふ。クレアがあなたのことをよく褒めていたけど、気持ちがわかる気がするわ」
「え? 褒められてました? 私」
「『すぐに死ぬ死ぬ言い出す陰気でひねくれ者の弟に真っすぐな愛情を向け続けられる動じなさは、ちょっと見習いたい』とか言ってた」
「それ、褒めてます?」
「褒めてるでしょう」なんてリネット先生が悪戯っぽく笑うから、私もサンドラ先生も可笑しくなって笑ってしまった。
そして、いよいよ三時間目。
怪我の治療に必要な道具を分担して持ちながら、リネット先生と訓練場の一角に設置されている簡易テントに向かった。
騎士科の生徒は徐々に訓練場に出てきていて、すぐにレヴィン様が私に気づいて駆け寄ってくる。
「アリエル」
「レヴィン様! 初日からレヴィン様の剣さばきが見られるなんて、最高にラッキーなんですけど!」
「今日は模擬戦だから。俺の出番はない」
「えーーーー。なんでですか」
「そんな顔すんな。順番なんだよ。俺の出番はあさってかその次くらいかな」
「じゃあ、その日は絵師を連れてきましょう。今話題の絵師がいるって、この前フレダが言ってましたから。レヴィン様の人知を超えた巧みな剣さばきを後世に残しましょう」
「いらねえから」
笑いながら、レヴィン様が私の頭にポンポンと触れる。
「リネット先生。アリエルがお世話になります」
「レヴィン。クレアから聞いたわよ。アリエルが治療院の手伝いに来るの、反対したそうね」
「あー、いや。それは……」
「かわいくて独り占めしたい気持ちはわかるけど。しばらくお貸しいただけると助かりますわ」
リネット先生はクレア義姉様が学園にいた頃からの親友で、学生時代はよくエレストール家にも遊びに来ていたらしい。
人を寄せ付けず、無愛想でろくに挨拶もしないレヴィン様に、それでもリネット先生は明るく声をかけ、ちょっかいを出しては嫌がられていたんだとか。
「ほんと、変わったわね、レヴィン。もちろん、いい方にね」
「それは、どうも」
気まずそうな顔でおずおずと引き上げようとしたレヴィン様の背後から、やけに馴れ馴れしい声が飛んできた。
「おや? そこにいるのは、アリエル嬢かな?」