10 そして幸せは続く
次の日の朝、私は自分の見通しがだいぶ甘かったことを悟った。
「治療院? いいわけないだろ」
目が覚めて、起き上がろうとしたら隣に寝ていたレヴィン様にすかさず止められてしまう。
「お前はまだ寝てろ。今日もここから動くなよ」
「何言ってるんですか? 治療院に行かないと」
「お前こそ何言ってんだ? 治療院なんてもう行く必要ない。何があるかわかんねえのに」
「いや、むしろ治療院にいた方がいろいろ安心だと思うんですけど。サンドラ先生もリネット先生もいますし」
「でも行ったらいろいろ手伝わなきゃなんねえだろ。動くなって言ってんだよ俺は」
「レヴィン様は過保護すぎます。動くななんて、非現実的すぎです」
「うるさい。いいから寝てろ」
頭から布団を被せられ、何を言い返しても「動くな」「うるさい」「寝てろ」の果てしない無限ループ。
心配してくれるのはうれしいんだけど、ちょっとやりすぎじゃなかろうか。
そして私をベッドに寝かせたまま、監視の目を緩めることなくレヴィン様はさっさと支度をして、学園に行ってしまった。
レヴィン様が行ったあと、私もベッドから出てささっと支度をし、こっそりと治療院に向かった(使用人たちは「アリエルが動かないように見張っておけ」と言われていたみたいだけど、私が準備し始めたらみんなすんなり手伝ってくれた。特に女性の使用人たちが)。
治療院に顔を出すと、サンドラ先生が「あら」と驚きの声を上げる。
「さっきレヴィンが来て、妊娠がわかったからしばらくお休みするって言ってたわよ」
「妊娠は確かにそうなんですけど」
「よかったわね。おめでとう」
「おめでたいような、おめでたくないような……」
現状に戸惑いしかない私は、サンドラ先生に一部始終を説明した。話してるうちにリネット先生も来て、二人に洗いざらいぶちまける。
「心配してくれてるのはわかるんです。わかるんですけど、やりすぎだと思いませんか?」
「まあ、そうねえ」
「レヴィンらしいと言えば、レヴィンらしいけどね。愛されちゃってるから仕方ないんじゃない?」
「でもここに来るのだって反対されて、隠れて出て来たんですよ。今んとこ体調は何ともないし、むしろ家にずっといるだけの方が気が変になりそうです」
「あなたたちにしては、珍しいわね。喧嘩するなんて」
「喧嘩ですか? これ」
「うーん、どうだろうね?」
サンドラ先生もリネット先生も、私が本気で困ってるのにどこか生温かい目をしてニヤニヤしている。
「二人とも、面白がってますよね?」
「そんなことないわよ」
「若いわねえ、とは思うけど」
「なんですかそれ」
とかなんとか楽しく騒いでいたら、どこから聞きつけてきたのか今いちばん会ってはならない人が嵐のように現れた。
「アリエル!!」
治療院に着くまでこっそり隠れて来たっていうのに、ほんと、どこで誰から聞いたんだろう?
そそくさと隠れようとする私に、レヴィン様はまるで鬼のごとく目をつり上げ、珍しく怒りの感情を剥き出しにする。
「なんでここにいるんだよ! 家で大人しく寝てろって言っただろ!」
「そんなこと言ったって、今んとこ何ともないんですから。黙って家にいる方が苦痛です」
「何かあってからじゃ遅いんだよ! お前の体が大事なのがわかんねえのかよ」
「それはわかりますけども! でも」
「まあまあ」
相変わらず生温かい目をしたサンドラ先生が、仕方なさげに間に割って入る。
「こんなふうに興奮させるのが、妊娠初期にはいちばんよくないと思うのだけど」
「あ」
「す、すみません」
「レヴィンが心配なのも、わからないではないけどね。でも『あれはするな』『これもするな』じゃあ、アリエルの方が息苦しくなって参ってしまうわよ。それってお腹の子にも当然よくないし、アリエルのことを本当に考えていると言えるのかしら? 家に縛りつけて安心したいのは、レヴィンの方でしょう?」
「縛りつけるなんて……。そんなつもりは」
「でも結果として、アリエルの自由を奪っているのよ。それは、わかるわよね?」
穏やかに、諭すように話すサンドラ先生の言葉に、レヴィン様は動揺し、それからがっくりと項垂れる。
「すみません。もう少し冷静になって、アリエルとも話してみます」
「そうね、その方がいいわ。アリエルもそれでいいわね?」
「はい」
結局、レヴィン様は治療院の手伝いを続けるのを許してくれた。
サンドラ先生やリネット先生がいる方が安心だし、レヴィン様だって学園にいるのだから、何かあってもすぐに駆けつけられるということで納得してくれたのだ。
でもせっかくレヴィン様のお許しが出たというのに、それから数週間後には治療院に行くことが想像以上にきつくなってしまった。
「うぅ、ぎもぢわるい」
「大丈夫? 休んだ方がよかったんじゃないの?」
「こっちに来てる方が、ちょっと気が紛れて少し楽なんです。家にいても楽にはならないので」
「そういうものなの? 私は経験ないからわからないけど」
そう。
悪阻というやつだった。
これが、思いのほか厄介だった。一日中馬車に酔っているような状態が続くし、ちょっとした匂いで吐きそうになる。
いちばんひどいときには寝ていても起きていても気持ちが悪くて、ベッドの上でごろごろしながら唸るしかなかった。
「アリエル。もしかして、このタイミングで妊娠してしまったこと、ちょっと申し訳ないとか思ってる?」
ムカムカとした不快感と格闘している私の横で、リネット先生が気遣わしげな目を向ける。
「ああ、まあ、それは」
「私とブライアンはね、まだしばらくは二人でいたいなって思ってるのよ。いずれは子どもが授かればいいなとは思うけど、ブライアンはまだ毒の後遺症のこと心配しているし」
「毒の後遺症が子どもに遺伝するかもとか、そういうことですか?」
「そう。あの毒についてはまだまだ分からないことも多くて、研究が必要らしいのよ。私もこのまま治療院の仕事を続けたいし、子どものことはもう少し先でもいいかなって思ってるの。だからアリエルが気に病むことはないのよ」
「でもせっかくここの手伝いにも慣れてきて、少しは役に立てるかなと思ってたのでやっぱり申し訳なくて」
「だったら、また戻ってくればいいじゃない?」
「戻る……? あ、産んだあとですか?」
「子育てが一段落したらね。そのときまたここを手伝いたいと思ったら、来ればいいんじゃない? 私もサンドラ先生も大歓迎よ」
リネット先生の人懐こい笑顔は、いつも私を安心させてくれる。
先のことは、どうなるかわからないけれど。
でも、自分を待っていてくれる人がいること、いつか戻りたいと思える場所があるということは、それだけで幸せなことのように思えた。
*****
悪阻がようやく少し落ち着いてきた頃、レヴィン様の卒業式と記念パーティーが行われた。
卒業式に話題の絵師を呼ぶことは叶わなかったけど、レヴィン様の学園最後を飾る威風堂々たる雄姿を心ゆくまで直接堪能し、存分に目に焼きつけることができたので良しとしたい。
記念パーティーは妻や婚約者の同伴が許されていて、私もレヴィン様と一緒に参加することができた。
レヴィン様の目と髪の色を全身に纏い、いろんな人に独特の薄笑いをされて居たたまれないことこの上ない私だったのだけど。
「あんなに色とりどりのおいしそうなスイーツが並んでるのに、食べられないのが恨めしいです」
「やっぱり無理か?」
「ちょっと、厳しそうです」
悪阻のピークは過ぎたけど、いまだにあれこれ食べられない。
スイーツは食べたいけれど、同時に食べる前から胸やけがしてしまって、どうにも無理っぽい。
「大丈夫か? 今日はもう、帰るか?」
「何言ってるんですか。せっかくの卒業記念パーティーですよ? 精霊王様を凌駕するほどの華麗で洗練されたレヴィン様の今日の出で立ちを世界中が再認識して後世に語り継ぐまでは帰れません」
「じゃあ一生帰れねえよ」
呆れ顔のレヴィン様はちょっと吹き出しながら、近くを通った給仕に何やら話しかける。
しばらくして、給仕は透き通る器に盛られたスイーツらしきものを持ってきて、レヴィン様に手渡した。
「これならどうだ? 柑橘系のシャーベットらしいが」
「あ、それだったらいけるかも」
「じゃあ、ほら」
早速スプーンで掬って、当たり前のように私の顔の前に持ってくるレヴィン様。
「なんですか」
「食べろよ」
「え、自分で食べられます」
「いいから」
「やめてください、恥ずかしいです」
「何言ってんだ今更」
「レヴィン」
人目もはばからずいちゃいちゃしていたら、突然後ろから少し緊張したような硬い声が耳に届いた。
振り返ると、なんとなく見覚えのあるような銀髪の背の高い男性が、婚約者と思われる華奢な女性を連れて立っている。
「……アルウィス」
「お前には、改めて礼を言いたいと思って来たんだ。俺が今、ここでこうして無事に卒業を迎えられたのはお前のおかげだから」
「もういいって。俺もお前も無事だったんだ。それでいいだろ」
「よくはない。俺のせいで、お前は……!」
つらそうに眉根を寄せる男性のその言葉で、なんとなくすべてを察してしまった。
「お前が俺をかばって魔物の攻撃を受けたことで、お前の家族やまわりの人たちにどれだけつらい思いを抱かせたかと思うと……。俺は軽傷で済んだが、お前は毒を受けて瀕死の状態だったと聞いた。本当に申し訳ない」
アルウィスと呼ばれた男性は、そう言って私の方を見ながら頭を下げる。
同時に、婚約者と思しき女性も深々と頭を下げた。
「もう、気にすんなよ。あ、どうしてもって言うなら、この先討伐で一緒になったときにその恩を返してくれ」
「もちろんそのつもりだ。剣の恩は、剣で返す」
もともと鋭い目つきのあまり表情が動かない人みたいだけど、少しだけ表情が緩んでなんだかほっとした。
「アリエル先生」
いきなり「先生」と呼ばれて思わず背筋を伸ばすと、アルウィス様が今度は意外なほど愛しげな目を婚約者に向けている。
「彼女は俺の婚約者で、ララノア・ギリスと言います。今年の春から、こちらの魔法学科に編入してきていて」
「え、そうなのですか?」
「これから、先生にはお世話になることがあるかもしれません。俺は卒業してしまうので、何かあったらよろしくお願いします」
「そうでしたか。……あ、でも、私も冬頃には一旦いなくなるんですよね。産休というか、なんというか」
「まあ」
紹介された婚約者のララノア様は、その利発そうな碧色の目を輝かせた。
「それは喜ばしいことですね。お大事になさってください」
「ありがとうございます」と微笑むと、二人はまた深々と礼をして、仲睦まじそうに去っていく。
遠ざかる二人を見送ってから、私はシャーベットの器を持ったままのレヴィン様を見上げた。
「あのとき、レヴィン様がお友だちをかばって魔物の攻撃を受けたと聞いて、はじめは驚いたんです。人を遠ざけ、人とかかわることを極力避けてきた、あのレヴィン様がって」
「ああ、まあ、そうかもな」
「でもよくよく考えてみたら、不思議なことなんか一つもありませんでした。だってレヴィン様は、初めてお会いしたときからいつも無愛想で素っ気なかったですけど、私にはずっとお優しかったですから」
「……お前は、俺を喜ばせる天才だな」
「そうですね。その分野では、私以上の天才はいないと自負しています」
にっこり笑って答えると、レヴィン様は突然何かを決意したような顔になって
「あー、やっぱりもう帰るぞ」
「は? なんで」
「今すぐ帰って、お前を独り占めしたい」
「え、ちょっと待って――」
慌てる私にレヴィン様は目を細めて柔らかい笑顔を見せ、それからいつもの甘く蕩けるような目が近づいてきて。
優しく熱く、口づけをした。
「……レヴィン様。人前ではちょっと……」
「……悪い。お前がかわいすぎて、つい」
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