ヒーローに手袋を
首元にマフラーを巻く。着込んだコートや制服のスカートを確認してから、テレビのリモコンに手を伸ばす。
『本日の特集は、魔法少女チサさん、マオさんのお二人です。先週もその力で怪獣マッチョッツォを――』
「……ばかみたい」
この世界は、数多の世界観が混在している。
笑顔の少女達を画面から消し、鞄を手に持つ。部屋の扉を開け廊下へ出ると、抑えきれない冷気が身体を襲ってきた。かじかむ両手を抱え、逃げるように女子寮の外へ出る。が、曇り空の下、もっと凍てついた空気が私を出迎えた。
世界って、こんなに寒かったのかな。
そう思うようになったのはここ二年のことだ。ことあるごとに、私は自分の弱さを突きつけられた。一人じゃ何にもできない。そんな事実に打ちのめされて、留年までしてしまった。ようやく一人で歩けるようになった今も、その一歩の小ささに、どうしてもため息を吐いてしまう。
マフラーを少し直してから、高校に向かう。本当はまっすぐ行く道を左へ。遠回りなのは分かっていて、それでも最短距離を進めないのは、やっぱり自分が弱いから。少しだけ早起きをして遠回りした方が、ずっとずっと簡単だから。
赤信号に、ぱらぱらと人々が立ち止まる。私も足を止め、ぼんやりと信号を見つめていると、隣から聞き覚えのある声がした。
「お久しぶりです、美浦先輩」
「……戸成」
顔を向けると、おとなしそうな青年が立っていた。同じ制服を着た、同学年の後輩。
「何の用?」
彼の能力は覚えている。だから率直に尋ねると、苦笑が返ってきた。
「いろんな人が心配してましたよ。北城とか、仁島さんとか」
「それはまあ、元気だって返しておいて。何かのついででいいから」
それから、もう一度ため息をつく。
「それで、本題は?」
「……本当に、心配なだけですよ」
信号が青に変わる。私と戸成は肩を並べたまま、横断歩道を渡った。息は白く、指の先は、壊れてしまいそうなほど痛い。
彼が話しかけに来た理由なんて、もう分かってる。二年前のあの日も、こんな冬の日だったからだ。
「みんな、元気?」
「はい。まあ、北城は相変わらず年中咳してるし、実働組も怪我とか多いですけど、それは仕方ないですし」
「どうしようもないもんね。でもそっか、元気なら、よかった」
私が思わずこぼした言葉に、戸成は眉尻を下げる。
誤魔化すように、両手に息を吹きかける。何の足しにもならなくて、本当は、手袋を新しく買った方がいいことは分かっていて、それでも、そんな世界に抗うように。
「なんなら今度、本部に来てくださいよ。みんな、歓迎してくれますから」
能力者協会本部。毎日のように訪れていたその場所の記憶が浮かんでくるのをねじ伏せて、私は口を開いた。
「もう能力は使えないのに?」
「そんなの関係ないですよ。いつだって人手不足ですし……」
言いかけて、戸成は慌てて弁明した。
「すみません、あの、別に手伝ってほしいとかそういうのじゃなくて。ほんとに、遊びに来ていいんですよというか」
「いいよ、分かってる。二年前だってみんな大変だったし」
「そうですね、あの頃は協力してくれる能力者も少なくて――」
地面が揺れる。震える。轟音が響く。
慌てて見上げた先には、なんともファンシーな怪物が鎮座していた。高層ビルほどに巨大で、なんとも毒々しいホールケーキだ。
「……ああいう系の能力者、本当に理解できないんだけど」
「俺もです。そろそろ特定して捕まえたいんですけどね」
「さっさとして。それでも情報部?」
「肝に銘じます」
軽口を叩きながら、怪物から逃げようと背を――向けようとして、不意に、脳裏に響く声を聞いた。
『ほら行こうぜ! なんたってオレたちは二人で――』
「……あーあ」
足が止まる。動けない。先輩、と私を呼ぶ声が聞こえる。
分かってる。今日が冬の日だから。あの日みたいに寒くて、凍えそうな日だから、思い出してしまっただけ。誕生日にプレゼントしてもらった手袋も、一緒に歩いた通学路も、その声も姿も思い出も全部ぎゅっと仕舞い込んで封じ込めなきゃ歩くことすらできないのに、うっかり思い出してしまっただけ。
見つめている私に気付いたのか、紫色と濁った緑色がまだらになっている悪趣味なケーキが、生えている人間の足でこちらに向かってくる。それが分かっていてもなお、私の足は、前にも後ろにも動けない。その理由だって、分かってる。
「……ばかだよね、ほんと」
この世界は、数多の世界観が混在している。
世界観とは、すなわち各個人が定める世界の定義。世界の見方。世界がこういうものであるという、その個人の中での、確固たる事実。
『なんたってオレたちは、二人でいれば最強だからな!』
だから、こんな戯れ言でも、それがその個人にとって純然たる事実であれば、世界に肯定された。たとえどんな敵が相手でも、自分たちの世界を揺らがずそう定義している限り、私たちは最強だった。それが能力者というもので、それが私たちの能力だった。
だから、君がいなくなった世界で一人ぼっちになった私は最弱で、一歩も前に進めなくなった。君がいたらこんな寒さもへっちゃらなのに、君がいない世界は、こんなにも冷たい。
なのに。本当に、ばかばかしいことに。
私は怪物を見上げる。迫ってくる、いつかの私たちなら一撃で倒せた敵。この世界の誰かが生み出した、誰かの世界の一端。
私は私の世界が大事だった。だから、他の人の世界も大切にしたくて、それは君も同じだった。だから協会に協力して、他の人の世界を害するような世界観と戦った。それは今でも私の誇りで、輝かしい思い出で。
だから君の鼓舞を耳にしたら、私は後ろに進めない。背中だって見せられない。たとえ君がいない一人ぼっちの私でも、絶対に譲れないものはあるのだ。
「……せめて、戦いの中だったらよかったのに。なんで私の世界を壊していかなかったの、ばか」
不謹慎だと、押し殺していた愚痴がこぼれる。
他人の運転ミスに巻き込まれた、不運な事故。電話で告げられた、私のいない場所で起こったその悲劇は、私の世界を壊すことなく、むしろ補強して、私を一人にした。最悪だ。おかげで私は今後一生、最強の自分になれず、弱い自分のままだ。まだ人生は先が見えないほど長いのに、温かい冬の日なんて、もう一生訪れない。
悪趣味ケーキが、私の方に向けて己の一部を投げつけるのが見える。私は手袋のない両手をにぎりしめて、ぎゅっと目を瞑った。
「てぇい、マジカルホイップバリアー!」
「……は?」
気の抜ける言霊に思わず目を開けると、目の前に透明な――ところどころ生クリームっぽいものでデコられた――壁と、少女趣味全開の服を纏ったボブヘアーの少女の背中があった。まさか、と今話題の名前を口に出す。
「……魔法少女チサとマオ?」
「はいです! 魔法少女マオ、ただいま推参しました!」
まだ幼さの残る少女が振り返り、花が綻ぶような笑顔を見せる。と、遠くからもまた甘ったるい技名が聞こえた。
「行っけぇ、マジカルバレットチョコレート!」
同様にフリル満載の衣装を着た少女が、ポニーテールを揺らしながら魔弾――たぶんチョコレート――を怪物ケーキに放つ。魔弾はことごとく命中し、ケーキは呻き苦しみながらチョコレートを剥がしていた。
「魔法少女チサもここにあり! マオ、そっちは大丈夫?」
「問題なしです! マオたちがいる限り、好き勝手はさせませんよぉ!」
マオは大きい泡立て器を片手にチサへ手を振り、またこちらに顔を向けた。
「それじゃ戸成先輩、そのおねーさんよろしくです!」
「うん、任された」
「あ、あの」
去ろうとするマオに、思わず声をかける。なのに、何を言おうとしたのかさえ分からない。口ごもる私に、マオはきょとんと目を瞬かせた後、にっこりと微笑んだ。
「安心してください! マオとチサ、二人いればなんだって大丈夫なんですから!」
『ご心配なく。私たち、二人でいれば最強なので!』
声が、震えた。
「……そっか」
「はいです! では!」
マオが軽々と跳ね上がり、チサの元へ向かう。ポイズンケーキはチサ一人にも押されているようで、またチョコレートの雨を浴びていた。その様子を見ながら、なんとか口を開く。
「ねえ、戸成」
「はい」
「私たちも、あんな感じだった?」
「ええ、そうですね」
戸成は迷うことなく答えた。
「先輩たちの戦う姿も、かけてくれる言葉も。その全てが、先輩たちなら大丈夫だって、敗れることはないって、――最強なんだって、信じさせてくれました」
滲む視界に、落ち着こうと深く息を吸う。けれどそれはすぐ嗚咽となって、涙もぽろぽろとこぼれていく。
「俺たちにとって、先輩たちは最強で大好きな、伝説のヒーローです。ずっと」
本当の本当は、気付いていた。今の私が弱いのは、君がいないからじゃない。『君がいないと弱い』って、私が私の世界にそう定義したからだ。
君がいた世界の定義を壊したくなくて、君がいない世界の定義で上書きしたくなくて。周りから、塗り替えろと言われたくなくて、それで、弱い自分でいようとした。最弱の私のまま、乗り越えようとも向かい合おうともせず、立ち止まったままでいた。
でも、もう無理だ。
『なんたってオレたちは、二人でいれば最強だからな!』
たくさんの敵と戦った。怪獣、怪物、能力者、天災。どんなに強大で、太刀打ち出来なさそうな相手でも、君と二人で打ち破った。
『ご心配なく。私たち、二人でいれば最強なので!』
たくさんの人を守った。街の人も、仲間も、時には敵対していた相手のことも。出来るだけ多くの人を助けられますようにと、君と二人であちこちを駆け回った。
だから。
『ほら行こうぜ! なんたってオレたちは二人で――』
『二人で最強! 分かってるよ!』
私たちは二人でいれば最強のヒーローで、その事実は、定義は、もう誰にも覆すことは出来ない。あの日々も、君も、もう戻れないからこそ確定した定義で、揺るぐことのない、私の世界の真実だ。
でもそれは、私たちが二人で最強だったからだけじゃない。私たちが、二人とも、ヒーローであろうとしたからだ。他の人の世界観を守って、害する世界観と戦おうと、全力で尽くしたからだ。
君との記憶と一緒に仕舞い込んでしまった感情が、決意が、ふつふつとよみがえる。君と過ごした日々が、かけがえのない思い出が、私の背中を押すように、とめどなく浮かぶ。
「行くよマオ、とびっきりの必殺技!」
「はいです、チサ! ばっちり決めてみせますよぉ!」
遠く聞こえる二人のヒーローの声に、知らず口元が緩む。
もう最強にはなれないけれど。君がいない世界で、あんな風に戦うことはできないけれど。それでも、誰かを助けることはできるはずだ。だって私も、たくさん助けられてきた。情報部をはじめとする本部のサポートに、私たちを最強だって思ってくれる人たち。彼らがいたから、私たちは迷うことなく戦えて、自分たちの定義を疑わず、最強のままでいられた。
だから、今度は私がやろう。君のいない私は最強じゃないけれど、でも最弱でもない。君が『二人でいたら最強』だって思ってくれた私のままで。私が誇りに思っていた、自分の世界が大切で、誰かの世界も大事にしたい私として、もう一度歩き始めよう。
私は、君のいない世界でも、ヒーローでいたいから。
歓声が届く。チサとマオが喜び合う声が響く。私はようやく落ち着いて、涙の名残をハンカチで拭った。
「戸成。今日言ったこと、撤回させて」
「撤回、ですか?」
黙って待ってくれていた戸成に、私は告げた。
「元気だって、自分で伝えに行くことにする」
「――先輩、それって」
目を見開いた後輩になんだか照れくさくなって、誤魔化すように伸びをする。見上げた空には晴れ間ができていて、両手越しに私を照らしていた。
君がくれた手袋、帰ったら引っ張り出さなきゃな。
私は声を立てて笑った。