02
長い石畳の通路をこつこつ、と踏み鳴らしながら門扉を開けて目の前の竹藪に挟まれた石階段を降りる。降りながらぼくはがさごそ、と鞄を物色し、ワイヤレスイヤホンを取り出す。耳に装着しながら惰性で音楽配信アプリを開くとドビュッシーの「月の光」を流した。危うく滑りかけた石畳の足場を見遣り、昨夜は雨が降っていたことを思い出す。重々しい色に湿って、いつもより濃く深く見える緑の竹藪と、雨水で陽光を返す石からのペトリコール。周囲の雰囲気との相乗効果で急いでいた気持ちが徐々にゆったりと落ち着いてくる。ここは竹藪で日差しが途切れてそれほど眩しくなく、名前の知らない聞いた覚えのある鳥の囀りがイヤホン越しで微かに聞こえる。
階段を降りきり、住宅街に囲まれた広い十字路へと出る。ここからぼくの通っている私立の夕星高校へは右を曲がり、坂道を登る。階段を降りてから、今度は目の苦味で滲み出てきそうな陽の光が顔を出している坂道を登る。若人ながらとてもしんどく億劫に感じる。それに加えて部活動。これを週五日繰り返す。運動は登下校に留めておきたいくらい、運動が嫌になっている気がする。
この道を通るバスからは同校の生徒が多く降りてくるのが遠目で見える。
やがて見えてきた何の変哲も面白みもない白い五棟が連なった校舎の大きな校門を通ろうとした時に、ねえ、と声をかけられながら、強い力で左肩を掴まれて大きく身体がびくついた。
そういえば、今日は風紀委員が生徒を取り締まっていることをすっかり頭から抜けていた。それもこの声は、
「総一狼、度胸あるね」
この厳かな雰囲気にはいつも身体を強張らせてしまう。恐る恐る振り向くと、黒髪の後ろを結び上げて、ブレザーの上から「風紀」と書かれた三年生を表す三つ星のマークが特徴の腕章を付けた、ぼくより拳二つ以上も背丈の高い女が見下す様な顔で目の前に立っている。
「あ……姉貴、おはよう」
真狩灯百合。ぼくの実姉だ。ぼくよりも拳一つ分高い背丈で、寡黙なうえに声も低い。腰まで伸びた黒髪に、鷹のような鋭い目付きがぼくを睨む。
単行本十冊を片手で持つほどの大きさの手が肩を丸ごと覆い、指が肩甲骨に食い込んでいるのを感じる。
「……イヤホンの持ち込みは厳禁だって言ったよね。これで何度目?」
「覚えてないよ」
左肩を掴む手の力が強くなっているのを感じる。思わず舌打ちをしながら「痛いから離してくれよ」と、肩を大きく回して振り解く。加わる力場のズレで肩の変なところが痛み、危うく外れそうな感覚を味わう。「没収」と言わんばかりに灯百合はこちらに右手を差し出す。
「はいよ」
溜め息混じりに、ぼくはワイヤレスイヤホンを耳から外して本体ケースへと仕舞い込む。かちん、と音を立てて素直に空を向いた灯百合の掌に置く。
「あ……」
かのように思わせて、ぼくは灯百合からダッシュでとんずらをこく。校門を抜け、二年生の下駄箱があるB棟まで電気義手の金属音を鳴らし、拍子抜けしてるであろう灯百合のほうを振り向く。
「姉貴、いい加減に鈍臭さは直したほうが良いぜ──」
灯百合は既にぼくからの興味はなく、校外の方に視線を向けてすっかり風紀委員の仕事に移り変わっていた。今までこんな事はなかったせいか、逆にぼくのほうが拍子抜けしてしまった。弟のせめてもの反抗への対応に、面白みに欠ける反応で舌打ちをする。
「だからいけ好かないんだよ、姉貴」
ぼくはそう呟いてから踵を返して後にした。
○
B棟の下駄箱を介してその二階へと上がる。コの字となっている校舎の中庭からは、花を咲かせた大きな白雲木が窓から見える。ぼくは一番奥のAクラスの教室の後扉をゆっくりと開ける。散漫になった同級生達が自由に会話したり、スマートフォンの画面を見せ合ったりして時間を潰している。教壇から見て一番奥、右から二列目の若干窓際の席にカバンをどさっ、と置いて座る。
「総一ぃ、お前また叱られたな?」
右隣に座っている男が嫌らしい笑顔を向けてぼくに話しかける。こいつは戸縄興助という同級生だ。知り合ったのは中学校からで、とある出来事をやらかしてからをきっかけに意気投合して今の関係に至る。お互いの線引きはこれとなく理解しているはずだからこそ無闇な発言をしてくることがあり、時折図星を突いてくる男だ。
「うるさいなぁ……、いい加減うんざりしてんだよあの人には。外では良い面しやがって」
「風紀委員長だしなんなら弟だし……そりゃあすんだろ、注意ぐらいよ。うんざりだのあーだこーだ言う前に、お前はケジメ付けたほうが良いぜ? 仮にも旧家の長男なんだろ。他人に言われて面倒くせぇって駄々こねるガキじゃねぇんだしよ」
ぼくは机に肘を突く。重い目蓋が被さり疲弊したかのような声で、
「芯を食うこと言ってくれるなぁ。ぼくだって好きで旧家に生まれた訳じゃない」
「でも一般的な学生よりは良い生活してんだろ? 少なくとも平々凡々な奴は羨ましいって思うんだよ」
ぼくは手を首の後ろに回し、こんなの羨ましく思わないでくれよ、と溜め息を混じりながら漏らす。姉の出来が良くて劣等感を家でも学校でも過敏に感じ、ストレスの溜まり場が増えていく感覚が羨ましいなんてのは何も知らないからだろう。ぼく自身そのことは教えたくないし、微塵も思いたくないし、考えたくもない。高校生に上がってどっと老けたような感覚に陥ることが時折あるなんて悲しく思えてくる。
「悪い悪い。お前んとこはちょっと複雑だったよな忘れてた」
「いいよ、忘れてくれていたほうが寧ろありがたいね」
にんまりとお互い気持ちの悪い変な顔で見合う。
外側に張った硝子の窓がかたかた、と揺れる。陽の光に当たって隙間風で舞う埃が見える。今日は何でもない変わったことも起こり得ない普通のただただ普遍な日常だ。机に自分の影が見え、木目をじっと見ているうちに睡魔がやってきた。だんだん目蓋が重くなっていって粛々と閉じていくとすんなり気が遠くなってきた。聴覚が申し訳程度の雑音を拾いつつ、両腕を抱えて枕を作って頬を乗せると制服に付いた外気と机の木の匂いが鼻腔を抜け、いつの間にか眠りこけた。
ストンっと頭頂部に何かが落ちる感覚があった。屈折した光の中、その中央に一人の人間が見えた。顔を寄せては何やらぼくのことを呼んでいるような口の動きをしている。
「──はよ、おはよう」
そう聞こえた。ぼくは突っ伏したまま、うん、と一言だけ返事をしてはまた睡魔が襲ってきた。
ドスっと今度は鈍い音が頭蓋骨に響いて脳が揺れた。思わず「痛ぇ」と右腕を大きく回して飛び起きた。
「起きなって言ってんじゃんよ、もうすぐホームルーム始まるよ」
ふざけんな、と怒りの感情を顕にしながら目線を起こすと鞄の底鋲に目が行った。出血の確認をするため頭頂部を触察する。「うわこわぁ〜」とこちらを虹彩の大きな釣り上がった怪訝な目で見遣る女が一人いる。ボブ程度の長さの髪の毛がふわりと靡いてから毛先がほんのり透けている。香水っぽい匂いがしていて、陽の光が当たると本来茶色いであろう髪色が亜麻色く輝いている。勝気のありそうな声色でぼくを叩き起こすのは、樫素由雪という幼馴染の女だ。親同士の仲が良いからという理由で幼少期から小学校高学年までお互い無理矢理一緒に居させられている。もしかしたら腐れ縁という関係に近いかもしれない。
「由雪おはよ〜」という幾つもの挨拶に対して「おはよう」と返す友の多さに少し羨ましく思うほどの社交性。容姿はどうであれ、人柄の良さと風のようなフットワークの軽さ、コミュニケーションの化け物。入学初日にその遮光性のせいでなんだか高校生活に光が無いような気がするけれど、他人の所為にまでしようとは思わない。強がりじゃないけれど、一人のほうが気楽なんだってそう言い聞かせている。
がらがら、と扉がスライドして開き、見慣れた顔の教師が入ると教室内に散けていた生徒は自身の机に戻り一斉に立ち上がる。重たい腰を持ち上げてぼくも立ち上がり、日直が号令を唱える。これからも憂鬱な授業が始まる。