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73話 侯爵家とのお別れ

 お屋敷で過ごす最後の日は水色のワンピースに決めていました。胸元にはひまわりのブローチ。お気に入りの組み合わせです。


 お庭のテラスへ向かうとフィーネさんはまだ来ていませんでした。私はイスへ腰かけ、庭をボーっと眺めていました。庭は歩行訓練で毎日のように歩いていましたが、歩けるようになってからは、庭を眺める機会がめっきり減っていたのです。歩行訓練をしていたころは、まだこのお屋敷とお庭になじめていなくて、どこか身構えている部分がありました。でも今は、こうしてのんびり庭を眺めていると、心から穏やかな気持ちになれます。すっかり自分の家としてなじんでいるのでしょう。


 そのうち、静養所も落ち着ける自分の家になることでしょう。そしてこのお屋敷は、また違和感を感じる場所に戻るのかな?そんな将来は嫌だなって思うけど、そんなことにはならないとは言い切れない……きっと私が薄情なのでしょうね。フィーネさんは親友になってくれて、お母様はお母さんになってくれたのに……



「どうしました、怖い顔をされていますよ?」



 フィーネさんが隣に来ていることにも気づかずにいたので、声をかけられて驚いてしまいました。



「歩行訓練をしていた頃を思い出していたのです。私には辛い時期だったので……」


「アグリさんがこれほどの短期間で、ここまで回復されるとは思っていませんでした。もっと長い時間をかけて、徐々に回復していくものと思っていましたから。だからアグリさんはこれから何年もこのお屋敷で生活を続け、ことによると私が結婚してお屋敷を離れても、アグリさんはお屋敷にずっと居ていくれるかもとさえ考えたこともありました」


「私はどうしてあそこまでして、早く回復しようとしていたのでしょう?」


「それは簡単です。回復した姿を見せたかったからですよ」


「誰に見せたかったのですか?」


「あれだけ必死に頑張られていたのに、ご本人は無自覚だったのですか?残念ですがお教えできません。それはご自分で気づくべきです……さあ、アグリさん。お庭をお散歩しましょう。そろそろ夏のお花も見納めです」



 それから2人で長い時間をかけておしゃべりしながらゆったりペースのお散歩をしました。お散歩を終えたのは、昼食の時間ですとミリンダさんに声をかけられたからでした。




 昼食を終えると、シリルさんがお2人にと言って、新作のケーキを用意してくれました。


 フィーネさんには、「午後はどうしたいですか?」と聞かれたので、「フィーネさんとおしゃべりをして過ごしたいです」と答えました。


 午後は私の部屋で、2人でお茶を飲んで、ケーキをいただいて、おしゃべりして……そんなことを何度も繰り返しました。


 結局、午後の時間もそれで使い切ってしまい、ミリンダさんに夕食のお時間ですと声をかけられて、ようやく現実世界に戻ってきた気分でした。




 夕食はとても豪華でした。そしてご家族の1人1人が私に激励のお言葉をかけてくれました。私も感謝の言葉を返していました。


 でも、なぜだか不思議なのです。皆さんのお言葉が私の心にスーッと入ってこないような感じなのです。とても悲しく、明日が来なければいいのにって思うのですが、それもどこか上の空のような気分でもあります。最後に私は杖をお返しするとお父様にお伝えしたのですが、お父様は家族で使えるのはアグリだけだから持って行きなさいと言ってくださいました。




 食事を終えて、最後の3人のお風呂も、フィーネさんの部屋へ行って、ベッドの中でおしゃべりしていても、なぜか私の中にスーッとはいってこない……そんな違和感を感じながらも、フィーネさんが寝息を立て始めたので、私はそっとベッドを離れ机に向かいました。


 フィーネさんの机からペンと紙を拝借して、長い長い手紙を書きました。そしてベッドで眠るフィーネさんの寝顔もデッサンして、『大好きな親友のフィーネさんへ』と書き添えました。


 この手紙と絵はすぐに読まれたくなかったので、フィーネさんが学校で使用している本の間に挟むことにしました。


 私は手紙を書き終えて、ようやくこのお屋敷でやるべきことがすべて終わったと実感しました。私もそろそろ眠らなくては、明日からは長い旅になるのですから……




 そして迎えた出発当日の朝。朝食をいただき、自室で支度を整え、グリムさんに荷物を預けて出発準備は完了です。そのままグリムさんと2人で玄関へ向かいました。


 外には皆さんが勢ぞろいされていて、クリスさんは馬の手綱を握って待っていました。私は皆さんの前に立って、昨日の違和感が何かにようやく気づきました。目をそらしていただけだったのです、お別れから……


 でもそれはもう目の前にきてしまいました。もう目をつむろうが泣き叫ぼうが逃げることはできなくなりました。私は1人1人と手を握りながら最後のお別れをしてまわることにしました。


 お父様の前に進み、「お父様、家族のいなかった私を、家族に迎えてくださり、ありがとうございました。幸せでした」「これからもずっと、皆がアグリの家族だ。困ったらいつでも頼ってきなさい」


 次はお母様、「お母様、あの夜を忘れません。あのお母様と過ごした時間を一生の宝物にします」そして私はお母様にだけ聞こえるように、「ありがとう、お母さん」と伝えた。お母様は涙をいっぱいにためながら、「アグリ、幸せになるのですよ」


 カイトお兄様には、「立派なご当主様になって、グリス侯爵家をしっかりお守りください」「私が当主になっても、アグリの家がここであることに変わりはない、いつでも帰ってくるのだよ」


 レイスお兄様には、「末永くフィーネさんをお守りください。レイスお兄様に託しましたから!」「妹を守るのは兄の務めだ。だからアグリのことも必ず守ってやる。困ったら頼ってきなさい」


 キツカお兄様には、「キツカお兄様の研究が実を結ぶのを楽しみにしています。私も何か見つけられたらキツカお兄様にご報告します」「アグリとの研究は楽しかった。いつまでも元気で暮らすのだぞ」


 そしてフィーネさん。しっかりと手をつないで、「フィーネさん、いつもそばにいてくれてありがとうございました。フィーネさんのことが大好きです。ずっとずっと大好きです」フィーネさんは泣きじゃくるばかりとなってしまいました……


 そして使用人の皆さん、「皆さんのおかげで元気な自分を取り戻せました。これからも頑張ってまいります」とお辞儀をしました。ミリンダさんには小さく手を振りました。


 そして最後にシェフの皆さん、「お料理を教えていただきありがとうございました。皆さんに教わったことを新天地で生かしていきます」とお辞儀をしました。ここではシリルさんに小さく手を振りました。




 そして私は、私を待つグリムさんへ向かって歩き始めます……でもダメでした。


 私はフィーネさんに駆け寄り、フィーネさんは私に駆け寄り、お互いにしっかり抱き合いました。



「フィーネさんとお別れしたくありません。ずっと一緒にいたいです。どうしてフィーネさんとお別れしなければいけないのですか……」


「アグリさん、行かないでください。いつまでも私と一緒にいてください……」



 私たちはもう手が付けられないほど、泣いて叫んでいました。そんな2人の横までグリムさんが歩み寄り、2人の頭をわしわしと荒っぽく撫でました。



「さあ、お2人とも出発のお時間です。将来のために出発するのです。泣いている暇はありませんよ」



 そして、私とフィーネさんは、「もう、グリムさんたら!」と少々呆れながらもようやく泣き止み、「いつまでもお元気で、フィーネさん」「道中お気をつけて、アグリさん」と最後の言葉を交わして離れました。




 グリムさんに馬に乗せてもらい、出発準備が完了です。最後に私は、「では皆さま。いってまいります!」と大きな声でお別れしました。


 グリムさんがゆっくり馬を進めて、お屋敷を後にしました……


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