怪盗に会えない夜
「ダメに決まってますわ⁉」
部活を終えた華子と昇降口で待ち合わせて、今夜怪盗フェイカーが現れる美術館に行きたいと伝えたら、華子の顔色が険しいものになった。
現在午後六時三十分。
予告の時間が午後八時。
あと一時間半をやりすごせば怪盗フェイカーが現れる。
そうすれば、六年前のお礼を言えるチャンスが巡ってくるかもしれない。
「一年生で入部したてということで帰るのが遅くなってしまったことが盲点でしたけれど、今夜は危険な夜なのでしょう? そんな日に結宇ちゃんを危ない場所に近づけるなんてできませんわ!」
「二人だし、遠くからなら……」
「女の子二人なのに、安心できるわけありませんわ! この世には怪盗以外にも頭のおかしい人たちがいるのですわ! 私と結宇ちゃんなんてすぐに声をかけられて人生が終わってしまうのですわ!」
「じゃあ男の人と一緒なら……」
「論外、ですわ」
「そうだったね……」
秋保華子は男嫌いだ。
いつからそうなったのか結宇は知らないが、いつの間にか華子は男性を心の底から嫌うようになっていた。
結宇を守らなければならない。そんな気合いを感じてならない。
だからこそ怪盗の話も本当はするべきではなかった。分かっていても、怪盗に会いたいという気持ちが結宇の口を軽くさせた。
後悔ならある。しかしチャンスを逃したくない気持ちも強い。
たった一度。
一度だけ会ってお礼を言いたい。
あの夜、助けてくれてありがとう、と。誕生日を祝ってくれてありがとう、と。
ささやかな気持ちだけだ――そのはずだった。
六年もの時間があれば人の願いなど肥大していく。
お礼が言いたいのは根底にあるのだけれど、その前に怪盗フェイカーとしての活躍を目に焼き付けておきたい。
彼の活躍するさまを、自分の目で見てみたい。
これでもまだ小さな願いの範疇だろうと結宇は考えている。
左側に垂れる三つ編みを結ぶリボンに、無意識に触れる。
あの夜もらったリボンは大切に保管している。しかしあの日を境に始めた髪型によって、左側の一房の髪だけ伸びやすくなった。
「結宇ちゃんにミーハーな部分があったとは新発見ではありますが、それを許せるほど私も優しくはありませんの。分かってくださいませ。私が日本から離れていた間に悲しい事件が起きていただなんて思いもよりませんでしたもの……」
「それほど悲しくもないんだよ……?」
海外から日本に戻った華子は家族の誰かから、誘拐の話を聞いてしまったらしく、それから過保護になってしまっている。
怪盗フェイカーに助けてもらったとは、誰にも言えていないままだ。
怪盗に抱えられて夜の空を舞っている間に眠ってしまったようで、いつの間にか自分の部屋のベッドにいたのだ。
どこから夢だったのか曖昧だったが、誘拐されたというのは本当らしいというのは、目が覚めてすぐの家族の反応で理解した。
「せっかく高校生になったんだし、華子ちゃんと少しだけ遅い時間に遊んでみたかったな……」
「結宇ちゃん……」
こうなれば泣き落としだ、と落ち込んだ顔を見せれば、簡単に華子の決意が揺らぐ。
決して嘘というわけでもない。
中学生の頃にはできなかった買い食いを始めとした学校帰りに制服のままどこかに遊びに行く体験はしてみたかったのだ。
ゲームセンターはまだ怖くて近寄ることすらできないが、カラオケくらいは行ってみたい。
それこそ、華子と二人ではなくてクラスメイトの人たちも誘って。
「お気持ちは分かりますわ。けれど、今夜である必要はありません。別の日にいたしましょう。部活帰りにコンビニでアイスを食べる。私にだって憧れはありますもの」
慈愛に満ちた笑顔で応えたつもりの華子の言葉に結宇は愕然と肩を落としてしまうのをどうにか堪えた。
今夜が良かった、とはとてもではないが言えなかった。
時間が経てば経つほど、怪盗フェイカーから自分の記憶は薄れて消えてしまう可能性がある。いや、すでに消えてしまっていてもおかしくはない。
なにせ六年も経過しているのだから。
いつかどこかで諦めなければならない時が来る。分かっていても、まだ受け入れるのは難しかった。
行きましょう、と先導する華子の少し後ろを付いて行く。
明らかに落ち込んだ顔は見せられないと見られていないと分かっている間に表情を作る。
途中で華子の家の従者が迎えに現れ、車に乗ってすぐに家に帰された。
知らない間に華子が連絡を入れていたようだった。
家に帰って夕食を済ませた結宇は自室に戻ってベッドにうつぶせになっていた。
今夜現れるのに。
高校生になったのに。
お礼を言う機会を奪われた。
結宇の心の中はそれらの言葉に埋められ、目には涙が浮かんでいた。
ただあの日のお礼が言いたいだけなのに。
怪盗に誘拐された自分を助けられたと言っても誰にも理解されない。十歳になったばかりの結宇自身はそう考えて言えずに高校生になった。
怪盗にも約束をしたのだ。
いつかお礼を言わせてほしいと。
奇妙な夢を見たのだと言われても、まだ現実だったと感じている。お互いに覚えていたらと言われても、まだ覚えている。
あちらが覚えていなくても、一方的に言えるのならそれでいい。
いつか言えたら――そのいつかの機会は限りなく少ない。
「怪盗さん……」
涙で枕を濡らしてしまう夜になる。そうなってしまえ、と自暴自棄になっていると、離れたところに置きっぱなしになっていたスマートフォンが鳴動していた。
華子かと憂鬱な気分で起き上がりスマホを手に取ると、画面には青芝海の名前が表示されていた。
委員会での活動で必要になるかもしれないと連絡先を交換していたのだ。
「青芝くん……?」
いまだに鳴動を続けるスマホには、テレビ通話を求める表示が浮かんでいた。