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善のイデアとは?

作者: shinwood

いろいろと善の定義について議論していて、正しい行為にも道徳的正しさと倫理的正しさがあることに気が付きました。道徳的正しさとは本能、良心から来る正しさです。それに対して倫理的正しさは我々の理性により考えられた正しさです。倫理的正しさは勉強するとか、納税するとか、歯を磨くなどもあるかもしれませんが、これら理性で考えられた倫理的正しさには、あまり善なる行為とは感じないのです。


やはり善なる行為とは種族保存に合致する行為に対して本能から出て来る感情であり、それには何らかの快い感動が伴うものなのです。本当の善なる行為、正しい行為とは本能から来る感情であり、それは”なにかしらの感動”が伴うものなのです。理性により考えられた倫理的正しさにはあまり感動がなく本当の善なる行為と考えるのには少し違和感があるのです。


現代においても善は一般的に相対的である考えられています。そしてこの相対的という考えは古くプラトンの時代でもありました。当時もやはり相対主義が主流だったのです。「善」とは国や社会によって変わるもので「本当の善」や「絶対的な善」などは存在しないと当時から考えられていたのです。

しかしプラトンだけは絶対的な善、本当の善を求め考え続けていたのです。そしてプラトンは気づくのです「時代や国によって善はそれぞれ違っていても、善という概念は皆共通しているのではないか?」 善はたしかに人それぞれで違うものだが、善という言葉が持つイメージ「何か良いもの、何か素晴らしいもの」という感情はみんなに共通しているのではないかと考えたのです。


そしてその思いはどこから来るのかと考え「それはイデア界というところがあって、我々の魂はもともとそこに住んでいて、イデアがなんであるのかすでに知っているのだ」というプラトンにしてはとてもトンチンカンなことを考えたのです。 

そしてプラトンの弟子のアリストテレスはプラトンのイデア論を否定して「イデア(共通したイメージ)という概念はみんなが多くの経験をする内に自然と形作られていくものだ」という常識的、現実的な考えに至るのです。だがプラトンもアリストテレスも善のイデアとはなんであるのかをついに示せなかったのです。


昔も現代も善は相対的であると言うならば、それはプラトンの時代から現代まで善の定義がなされてこなかったと言うことなのです。私もプラトンと同じく正しいとは何か、しかも絶対的に正しいとは何かと考えたのです。そして内包的定義に従って考え、道徳的に正しい事、つまり善のイデアとは「私より公を優先すること」であることを見つけたのです。そして善のイデアは原始からそこに在るものであり、自分が考えて作り上げるものではないのです、発見するものなのです。


善、つまり道徳的に正しいこととは「私より公を優先する行為であり、それは私欲を抑え、公の為と考えることである」これはあらゆる善なる行為に共通するものであり、時を超え、国を超えた普遍的なものなのです。ですから善は相対的なものではなく、絶対的なものなのです。「私より公を優先すること」これこそがプラトンなどが探していた善のイデア、善の本質、善の意味だと思うのです。


イデアとはみんなが共通して思い浮かべられるイメージ、概念のことです。「美しい」と言っても美しいと思うものは、人それぞれです。私が「あの人は美人だな~」と言っても、友人は「俺はそんなに美人とは思わないな、俺はあっちの人の方がずっと美人だと思うよ」と美に対しての価値観は人により違っているのです。しかし美しいと言うイメージ「そばに置きたい、自分のものにしたい、心がときめく」などなどのイメージはみんなに共通して持っているのです。


ではその共通しているものを言葉で表せと言われても、美しいものは美しいという言葉でしかなかなか表せないのです。ですから美のイデア、本質を見つけるには、多くの人がこれは美しいものであると言うものを多く考えて、それらに共通するもの、本質を見つければいいのです。でもそれはなかなか困難を極めます。

それでも何故か奇跡的に善のイデアだけは見つけることが出来たのです。


まあ、私は凡人ですから私が善のイデアを見つけたと言っても、どこかに瑕疵、矛盾があるだろうとは思っていますが、いまだ道徳的に正しいと思われる行為で「私より公を優先していないもの」を示した人が現れないのです。ですから、私の善の定義に矛盾が示されるまでは、私は自分の善の定義を強気で信じていこうと思うのです。


「人は皆死ぬ」ということは真理であると世間で考えられているのは、今まで数百年間でも生きている人が見つかっていないからです。そうであれば同じように私の善の定義を否定するならば数百年間生きている人を連れてこなければならないのです。つまり多くの人が正しいと思う行為、何かしら感動を伴う善なる行為で「私より公を優先していないもの、つまり公の為でないもの」を示さなければならないわけです。

日本中の誰に聞いてもいいですから、私の善の定義の矛盾を示してください。それを示せないで私の善の定義をいくら否定しようとしても私の信念は揺るがないのです。私は論理的に善を定義したのですから。


よろしければ善を探求しているブログを覗いてください。https://ameblo.jp/shinwood/


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― 新着の感想 ―
すごく説得力があって、感動しました。素人考えで恐縮ですが、例えばその公が資源のためだけに侵略戦争を行った場合に、その戦争に進んで従軍することが、果たして善であり得るのだろうか?とわたしは感じました。善…
[一言] 返信ありがとうございます。 >>公のために自殺しなければならない これはどんな状況でしょうか。<< 例えば、生きていることに罪悪感を感じている人たちがそれに該当するかと思います。 ちな…
[一言] 公のために自殺しなければならない人が居たらどうでしょうか。それは果たして善といえるのでしょうか。最大多数の幸福を優先することが善なのでしょうか。自殺しなければならない人にとっては決して受け入…
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