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染める  作者: 泉 五月
3/3

 

 自分で切ったアイを指先で回しながら裏の畑へ行くと、ふは物置からコブナグサの時にも使った大きなステンレスの盥を出していた。それを雨ざらしの机に載せると、ごうん、と少し高い鈍い音がした。


「次は、何するの?」


 再び物置に引き返すふ美の背中についていきながら、灯里あかりは尋ねた。

 物置の中は少しだけ薄暗く、透けた光に埃が舞っていた。奥の壁の上部が簡易窓になっていて、外側に開いて固定されていたものの、中へ入ると、蒸した空気が体にまとわりついてきた。ここにずっといたら、たとえ日に当たらなくとも熱中症になりそうだ。

 ふ美は物置の棚の、比較的入り口に近いところに置いてあったミキサーを手前に引き寄せる。埃もかぶっておらずきれいに手入れはされているが、どっしりとした型と日に焼けた若草色は、相当の年季を感じさせた。メーカーの名前も、ボタンの停止や開始の表示も、擦り切れていてもう判別ができない。


「次は、この葉っぱをミキサーにかけて、染める液を作るんよ」


 ふ美は束ねてあったコードを解くと、入り口の横の柱にあったコンセントに差し込んだ。こんなおんぼろの物置にも、電気が通っているのが不思議だった。しかし、確かに天井からも、裸の豆電球がぶら下がっている。

 ミキサーの蓋を取ったふ美に尋ねる。


「こないだみたいに煮ないの?」


 おととい染めたコブナグサは、ミキサーは使わずにお湯で煮出していた。だが、今回はどうやら方法が違うようだ。

 ふ美は今さっき畑で採ったアイの葉を、茎からちぎりながら無造作にミキサーの中へ放り込んでいく。


「アイはこうしてやるのが、一番いい色が出るんよ。昔は葉っぱを揉んだり、すり鉢で潰してたんだけどねぇ。今はもう、こういう便利なものがあるから」


 言いながら、ふ美は同じく棚に置いてあった計量カップを差し出してきた。


「灯里ちゃん、これに水入れてきてくれんかね。一番上の黒い線まで」


 その線は、あらかじめカップに印刷されているものではなく、明らかに後からマジックで書いた太い線だった。カップ自体、灯里の家にあるものよりも一回り大きく、これもミキサーと同じく年季が入っていて、あちこちが擦り切れて黄ばんでいる。


「これも入れていい?」


 指先でずっと弄んでいたアイの茎をふ美に見せると、ふ美は「いいよ」と頷いた。

 葉っぱをちぎってミキサーの中に入れ、カップを受け取る。持ったままだったはさみも棚に置くと、灯里は一旦物置から出た。家の裏口の横にある水道で水を入れてから、再び物置に戻る。

 カップを受け取ったふ美は、アイの葉がいっぱい入ったミキサーの中に、灯里が持ってきた水をすべて注いだ。

 蓋をすると、ちょっと体をずらす。


「灯里ちゃん、ちょっとここ押さえてくれんかね」

「うん」


 ミキサーの正面に立ち右手で蓋を押さえると、ふ美が次の指示を出す。


「右のボタン押してね。オレンジの」


 言われたとおりにすると、ものすごい轟音を立ててミキサーの刃が回転した。あまりの音の大きさにびっくりする。蓋を押さえた右手に伝わる振動もかなりのものだった。

 ミキサーの中の葉が砕け、水と混ざり、蓋のところまでいっぱいにかさを取っていた緑の葉は、その体積をすぐに半分以下まで萎めていった。


「もうええよ」


 轟音にかき消されそうになるふ美の声に隣の白いボタンを押すと、振動もやかましい音もすぐに消えた。

 蓋を開き、中を覗き込む。


「わー、抹茶みたい」


 てっきり青汁みたいな渋い緑になるのかと思っていたら、予想に反して中の液体の色は優しい若草色だった。まさにカフェで飲んだことのある抹茶ラテの色だ。混ぜたことで表面に少し泡も立っていて、飲めばとても甘い味がしそうだ。


「おいしそう」

「あっは、飲むもんじゃないよ」

「わかってるよ……」


 隣で笑うふ美に苦笑する。

 ミキサーから出す時に広がった匂いは、当たり前だが青臭い、甘いと言うにはほど遠い匂いだった。

 ふ美の指示に従い何度かアイをミキサーにかけることを繰り返し、切ってきた葉をすべて処理し終えると、2人は場所を物置から外に移した。もわっとした空気からは解放されたものの、ほっとしたのは一瞬で、外は外で日差しが暑い。

 抹茶ミルクのような液体を布で漉して机の上の盥にすべて入れると、少しだけ水を足してから、ふ美は灯里に白い布を渡した。この間のハンカチより手触りがすべすべしていて、形も大きな長方形。ごく薄いストールだった。


「入れてごらん」


 コブナグサの時と同じく、ゴム手袋をしてから布を液体の上に落とす。上から押さえると、すぐに白い布は盥の底に沈んでいった。一度底まで手をつくと、表面の柔らかい色が消えて、摘んだ葉っぱの濃い色が盥の中に現れる。手を離し、布を液の中で遊ばせる。


「しばらくゆすってから、1回上げてごらん」


 言われたとおり液の中で布をゆすってから、持ち上げてみる。白い布は薄い黄緑色に染まっていた。


「また浸けて、しばらくゆすって、上げてごらん」


 ふ美はコブナグサの時と同じく、横で見ているだけだ。指示を出しながら、灯里の手で染まっていく布を優しい目で見つめている。

 2回目に液から上げた時、布の色は少し濃くなっていた。しかも、緑というより、少し青みがかっている。

 手を浸けて、布を浸している液自体も、最初は緑が少し濃くなったのかと思ったが、よくよく見れば緑というより黒に近くなり、ともすれば青みがかっていた。


「何か、色が変わってきてるね?」


 今度は何も言われずとも、再び布を液に浸けた。布をゆする手の動きに、なめらかな水面が揺れる。


「おもしろいじゃろ? しばらくずっと、浸けたまんまにしてね」


 ふ美の言葉に、液から布を上げるのはやめて、ずっと浸したままで布を揺らした。布に色がついているのか、液の色は少しずつ薄くなっていく。ふ美が再び口を開いたのは、15分ほどそうした後だったろうか。


「そろそろ上げてごらん」

「……わ、ぁ」


 思わず、ため息が出た。

 腕を伸ばして、目の前に広げた布。

 それは――青い。

 綺麗な青だった。

 元々があの抹茶ミルクだとは信じられないくらい、布は爽やかな青に染まっていた。

 風に煽られると、その青がぐんと濃くなった気がする。


「きれいな色だねえ」


 しみじみとした声に隣のふ美を見ると、灯里が日にかざした布を、目を細めて見上げていた。

 ふ美の横顔をしばらく見つめてから、灯里はまた青く染まった布に目を戻した。

 綺麗な青だ。

 夏の空に溶けるような、胸がすくような青だった。

 不思議とこの間ハンカチを染めた時のような、暗い気持ちにはならなかった。


「綺麗だね…」

「うん。いい色に染まったねえ」


 灯里の呟きに、ふ美がさらに目を細めた。

 青くなった布を一度水にくぐらせ、タオルで水分を取ってから物干し竿に干す。

 風に揺れる薄絹は、視覚的にもまとわりつく暑気を少しばかり払ってくれた。畑にいた時の胸のもやも、心なしか布が撫でて、取り去ってくれたような気がする。


「おばあちゃん」

「なあに?」


 片付けに取りかかり、盥のアイの液を捨てながら、灯里はぽつりとこぼした。


「あたしね……ずっと、好きな人がいたの」


 表の畑でこぼした言葉を、もう一度繰り返す。

 ずっと好きだった。

 ずっと一緒にいたかったから、好きだという気持ちを告げることもできなかった。

 周りからも仲がいいねと言われ、自分でも仲のいい友達だと思っていた。

 いつか言いたい、でも、怖くて言えない。

 しかし、そんな悩みもどこか密やかな胸の高鳴りを含んでいて、悩んでいること自体が嫌じゃなかった。

 そして、自分の中でそんな押し引きを繰り返しているうちに、省吾の好きな人を知った。それを灯里に告げたのは、他でもない省吾だった。1年の時省吾と同じクラスだった、灯里は一度も喋ったことがない可愛い女の子。


「忘れなきゃ忘れなきゃと思っても、ずっと忘れられなくてね……」


 言いながら、涙で視界が滲んできた。何だか、ふ美の家に来てから妙に涙もろい。

 それでも、盥を洗う手は止めなかった。スポンジを握りしめ、水をはじく盥の底を擦り続ける。


「だって、同じクラスだし……毎日顔合わせるし……」


 灯里は自分の気持ちを告げていないから、当然省吾は普通に話しかけてくる。友達と一緒に勉強会をしたり、息抜きに遊びに行ったり、駅まで2人で帰ることも、まだある。でもそれは、省吾と、省吾の彼女になったあの子が、約束をしていない時だけだ。そうでなければ、省吾が帰る方向は、もう灯里とは逆方向になっていた。

 宿題が多すぎるとぼやいては眉をしかめ、学食の限定セットが買えたと言っては得意げに頬張り、彼女の優しさを思い出しては照れたように笑う。

 忘れようとした先から、新しい省吾が上書きされていく。

 頭の隅で、黄色いハンカチが風に翻る。


「どうしたらいいのかなぁ……」


 隣でミキサーを洗っているふ美の動きは、灯里よりもずっとゆっくりだ。先の柔らかくなった歯ブラシで底の方を擦りながら、静かに灯里の言葉を聞いている。


「どうしたら、忘れられるんだろう……」


 省吾があの子を好きだと知ったのが、去年の12月。

 あの子に告白して付き合いだしたのが、今年の4月。

 それからもう、4ヵ月だ。

 4ヵ月も経ったのに。

 まだ、好きなのだ。

 離れていても、すぐに笑顔が思い浮かぶくらいに。

 思い出したらすぐに、胸が高鳴ってしまうくらいに。

 すん、と鼻水が出そうになった鼻をすする。

 盥の底には、漉しきれなかったアイの葉の欠片がついている。

 目の前で盥に当たってはじけていた水滴が、ふいに止まった。顔を上げると、ふ美が蛇口を捻っていた。


「さっき」

「え?」


 洗ったミキサーの水をきって逆さにして、ふ美は水止めの石の囲いの上に置いた。


「布を染めた後、水で洗ったじゃろう」

「うん……」


 Tシャツの肩で汗と涙を拭って、灯里は頷いた。

 ふ美はそれが気遣いなのか、泣いたことを言葉にもしなければ、灯里のほうを見ることもなかった。まるでそれまでの灯里の呟きとは、関係ないような話を続ける。


「灯里ちゃんは最初、色が抜けんか心配しとったけど。それでも、色は抜けんかったじゃろ」

「うん……」


 綺麗な青に染まった布を水で一度洗うと言われて、灯里は少し戸惑ったのだ。

 せっかく染まった青が抜けてしまうんじゃないかと、怖かった。


「一度染まったら、その色は簡単には抜けんのよ」


 ふ美の言葉が頭に染み込むのに、少し時間がかかった。

 でも、それが意味するところに辿り着いた時、思わずふ美の横顔を見た。

 それに気付いたのか、ふ美も灯里を見て、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「灯里ちゃんが忘れたくないんなら、無理に忘れんでもええ」

「…………」


 それに、とふ美は付け加えた。


「忘れたくなくても、いつかは忘れるんじゃけぇ」


 それを聞いて、灯里の胸がきゅっと痛んだ。

 いつかは、忘れるんだろうか。省吾を好きだったことも、こんなに苦しかったことも。

 いつの間にか眉を寄せていた灯里に、ふ美は朗らかに言った。


「それにねぇ、無理に真っ白に戻らんでも、少し色がついてたほうが、後からもっと綺麗な色になる時もあるんよ」

「……そうなの?」

「そうよ」


 ふ美が頬を緩めて、しゃがんだまま後ろを振り仰いだ。


「あの……アイで染めた青だって。あのままでも綺麗だけど、あれを、こないだ染めたコブナグサの液に浸けたら、優しい萌葱色になるし。おばあちゃんはやったことないけど、ベニバナで染めたら、綺麗な紫色になるんよ」


 干した青い布から顔を戻すと、ふ美は再び灯里を見た。


「あの青がなかったら、そんな色にはなれんじゃろ?」

「でも……萌葱色より、ただの青とか白のほうがいいって言う人もいるかもしれないよ? それに、もしかしたら、もっと……。別の色を重ねたら、全然違う、汚い色になるかも」

「それはまあ、しょうがないねえ」


 ふ美は苦笑した。


「でも、一度染めたら、その色は簡単には取れんから……。その色でいいって言う人を、見つけるしかないねえ」


 ふ美は手を伸ばすと、灯里の目尻を拭った。柔らかくはないけれど、温かい手だった。

 自分の手でも再度拭うと、灯里はその指をTシャツの裾で拭いた。


「……それか、白に戻るのを待つしかないってこと?」

「そうじゃね。時間が経てばいつかは、色も薄くなるじゃろうから」

「どれくらい?」

「それは、色にも染めた素材にもよるから、わからんけどねぇ」


 布を染めるように。

 少しずつ積み重ねていった省吾への想いは、すでに深く自分の心に染み込んでしまった。

 30分足らずで染めた青が何十年ともつのなら、自分の省吾への想いは、一体何年経てば消えるのだろう。


「おばあちゃんちょっと、いじわるなこと言ったかね」

「……ううん」


 ふ美はふ美で、灯里のことを思いやってくれているのがわかる。ただ、少し悲しいだけだ。

「そうだねえ」とふ美が呟いた。


「……灯里ちゃんがそんなに忘れたくないってことは、それくらい、素敵な色じゃったんじゃねえ」


 何が、とは、ふ美は言わなかった。


「消えちゃうのがもったいないくらい綺麗な色なら……。もうちょっとくらい、眺めててもいいんじゃないかね」


 そうしても、とふ美は続けた。


「だーれも、文句は言わんと思うよ」


 ふ美はよっこらせ、と立ち上がると、水道の前から離れていった。


「…………」


 はっとするような鮮やかな黄色。

 空に溶けるようにひらめく青色。

 もしも今まで自分が染め上げた省吾への想いが、あんなに綺麗な色なら。

 いや、あんな風に、綺麗な色だから――。


(まだ……消したくないのかもしれない)


 応援しに行ったサッカーの試合で、こっちに向けてVサインをしたこと。友達が買ってきたジュースを選ぶ時、好きな味を譲ってくれたこと。駅までの道で小雨に降られて、2人で走ったこと。

 そんな1つ1つが、今も鮮明に思い出せる。


(まだ、好きでいたいのかもしれない)


「忘れたい」ではなく、「忘れなきゃ」と思うほど。

 いつこの想いが消えてくれるのか、まったく想像がつかないほど。

 自分はまだ、省吾のことが好きなのだ。

 それは、わかりきっていたことだけれど。

 正面からその事実をきちんと受け止めると、これまで胸のあたりをもやもやしていたかたまりが、すとんと、落ちたような気がした。

 それはもしかしたら、ある種のあきらめだったのかもしれない。

 でも、認めたことで、ようやく思考と感情が一致して、頭と心が、正常な働きを取り戻したような。

 歯車が合って、錆がとれて、きちんと回りだしたような。

 そんな気がした。


「……おばあちゃん」

「うん?」


 ふ美は机に置いたままだった笊や、漉す時に使った布を片付けていた。

 何かを言おうと思って声をかけたわけではなかったけど、その姿を見ていたら、久しぶりに体の声が聞こえた。


「お腹すいたな」


 言われたふ美は、空を見上げた。太陽の位置を確認したようだった。


「そうじゃね……ちょっと早いけど、お昼にしようか。それで、昨日買ったアイス食べようか」

「うん」


 灯里は蛇口を捻って洗いかけの盥を水で流すと、逆さにして縁の水止めに立てかけた。残っていた細々とした片付けを終わらせると、蕎麦にするかそうめんにするか相談しながら、ふ美と家の中に入った。




 ふ美はその日の午後、表の畦で採ってきたコブナグサを再び煮詰め、アイで染めた青をきれいな萌葱色に染めて見せてくれた。

 その日の夕方、栄子から和樹が負けたというメールが送られてきた。静岡にもう一泊して、明日こちらに帰ってくるらしい。

 アイで染めたストールを、ふ美はコブナグサのハンカチと同じように灯里にくれた。

 コブナグサの黄色と、アイの青色。

 枕元に2色の布を並べ、腹ばいになって頬杖をついてそれらを眺めながら、久しぶりに気持ちが穏やかだった。

 一度染めたら、簡単には抜けない。

 それでも、いつかは薄くなるなら。

 まだ好きのままでもいい。

 別の色に染まるか、元の色に戻るまで。

 それまでは、このままでもいい。

 そう思ったら、久しぶりに、ぐっすり眠れそうな気がした。




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