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その日の夜、灯里は畳に敷いた布団に仰向けになって、ただぼーっと、天井の染みを見つめていた。携帯には母の栄子から、和樹の学校が1回戦を突破したというメールが入っていた。異常な数の「!」マークが、栄子の興奮を表している。
灯里が染めた木綿のハンカチは、灯里が戻るとすでにふ美が仕上げを終え、裏の畑の物干しで揺れていた。
鮮やかな黄色だった。
(ゆっくり、少しずつ、染まっていく……)
そしてふとした拍子に、ぐっと深く濃い色になる。
(あれは、あたし……)
あたしだ。
自分でも、そんなことを考えるのはおかしなことだとわかっている。
でも、一度考え始めると、止まらなかった。
まるで少し前の自分を見たようだった。
最初は、真っ白だった自分。
それが変わったのは、省吾に会ったからだ。
省吾との最初の記憶は、1年の秋だった。放課後の中庭で、文化祭のために練習している友達の漫才を見ていたのだ。省吾とは違うクラスだったけど、漫才をやる友達とは互いに仲が良かったから、灯里も省吾もその場に居合わせることになった。
友達2人が決め台詞のようなものを言った時、灯里はつい笑いそうになったのだが、周りの友達は誰もが苦笑という雰囲気だった。何だか恥ずかしくて笑うのをこらえていると、隣にいた省吾が、いかにもこらえきれないという風に突然ぶはっと吹き出したのだ。そして、声をあげて笑った。自分が笑いたかったのも忘れて、灯里は思わず、ぽかんと省吾を見てしまった。そのあけすけな笑いに、次第に周りもつられて笑い出していた。最後には、灯里も一緒に笑っていた。
その時見た省吾の笑顔が、今でもずっと忘れられない。
会う度に、好きの気持ちは強くなって。
自分の中で、どんどん省吾の存在が大きくなっていくのがわかった。
2年で同じクラスになり、しばらくして友達数人で遊びにいく仲になり、夏には時折、駅まで2人で帰るほど親しくなった。
話す度に自分の中の省吾の輪郭は濃くなって、他のことはみんな薄れていく。
省吾が好きだと言った歌手の歌は全部聴き、可愛いと言っていたアイドルの髪形は真似をした。駅までの道をわざとゆっくり歩いてみたり、授業中にその横顔を盗み見ては頬が緩んだりした。
1年の秋、冬。そして2年の春、夏と、少しずつ少しずつ、灯里の中は省吾で満たされていった。
そして、いつの間にか――。
いつの間にか、灯里の中は、省吾一色になっていたのだ。
コブナグサで染めたハンカチは、夜ご飯の前にふ美から手渡された。灯里が家の中に引っ込んでいるうちに、ふ美はもう1枚染めていて、「これはお母さんにね」と、少しだけ色の薄いハンカチもくれた。
もらったハンカチは、液からあげた直後よりも優しい色になっていた。黄色というより、からし色といったほうが近いかもしれない。
でもその色を見ていると、染めていた時にぶり返した感情がどうしても蘇ってしまう。
ハンカチに罪はない。勝手に自分を重ねているのが悪いのだ。それはわかっていたけど。
灯里は2枚のハンカチを、すぐには見えないよう、洋服を詰めてきたスポーツバックの底にしまいこんだ。
「灯里ちゃんはずっと、元気がないねえ」
そう、ふ美が言ったのは、4日目の朝だった。朝ごはんを食べて、一息ついた時だった。
最初は「そんなことないよ」と返した。しかし、「そうかねえ」と呟いたふ美に、灯里は思わず尋ねていた。
「そう……見える?」
「うん」
間延びした頷きを返し、ふ美が両手の中の湯飲みを揺らした。
「体がしんどいのもいけんけど、心がしんどいのもいけんよねぇ」
「…………」
ふ美は、わかっているのだろうか。
でも、省吾のことは一言も言っていない。それは家族にだって同じで、母の栄子だって、最近の自分の大人しさを夏バテだと思っているのだ。
湯飲みの中のお茶を飲み干して、ふ美が卓の上に置いた。
「今日は、藍染めしようか」
「あいぞめ? ってあの、藍染め?」
「そう。何にもしてないと、色々考えちゃうじゃろうけど、体だけでも動かしちょったら、少しは違うかもしれんよ」
もしかするとふ美は、灯里が受験に関することで悩みがあると思っているのかもしれない。
「そう、かな……」
「うん。そう思うよ」
本当は、気乗りしなかった。
確かに元々元気とは言いがたい状態だったけど、それがさらに落ち込んだのは、2日前コブナグサで草木染めをしたことがきっかけだからだ。
でもここで断ったら、心配しているふ美がさらに気にする気がして、断ることもできなかった。
返事をしないでいると、ふ美がよっこらしょ、と立ち上がった。
「お皿洗ったら、畑行こうか」
台所に湯飲みを下げると、ふ美は流しに立ち片づけを始めた。
ふ美の家には、家のすぐ裏、塀の中にある小さな畑の他に、家の前の道路を挟んで、土手を下りたところにも少し大きな畑がある。アイは、その一角で栽培されていた。
遠目に見た時はバジルみたいだと思ったが、近付いてみると全然違った。バジルよりも色が濃いし、葉っぱも多い。見た目も鋭い感じがして葉の筋もたくさんあった。
今日はあらかじめ首にタオルを巻き、つばの広い麦藁帽を借りていた。祖父のものだったというそれは、灯里の頭にはだいぶ大きかったが、顎の下の紐をきつく結んで、どうにか落ちないように固定した。
「藍染めって、紺色のやつだよね? これからほんとに青いのが染まるの?」
この間のコブナグサも、草から染めたとは思えないほど、綺麗な黄色になった。ということは、この緑の葉っぱから、青く染まることだってあるのかもしれない。そうは思っても、不思議だった。
ふ美は、「できてからのお楽しみ」と言った後で、
「すごく綺麗な色に染まるからね」
と、とても嬉しそうに目尻に皺を寄せた。
灯里に新しいはさみを渡し、自分は錆びたはさみでアイの群生に向き合うと、しゃがんで茎を選び、30センチほどをパチンと切り取った。地面に置いていた竹かごに載せると、すぐ次の茎に取りかかる。灯里もアイを挟んで、ふ美の向かいにしゃがんだ。アイの向こうのふ美の表情は、本当に楽しそうだ。この作業が――というか草木染めが、本当に好きなのだろう。
ふ美が草花で色んなものを染めるようになったのは、祖父の是彦が亡くなってからだと聞いたことがある。
ふ美は何で、草木染めを始めたのだろう。是彦とは、どうやって出会って、どんな風に好きなったんだろう。そういえば、これまで一度も聞いたことがない。
「おばあちゃんはさ……」
「んー?」
ふ美からは、鼻歌でも歌うような返事が返ってきた。パチンと、また1本切り取る。
「おじいちゃんと、どうやって出会ったの?」
「あら、急にどうしたんね」
アイの向こうのふ美が、ふふっと笑った。
「なんとなく……」
「そんな、大したことは何もないよ」
「そっか……」
照れくさいのかな、とそれ以上踏み込むこともなく黙っていると、しばらくして、ふ美は自分から口を開いた。
「おじいちゃんはねぇ、おばあちゃんの叔母さんが働いてた会社で働いてて、それで、紹介されたんよ」
「お見合い?」
「そんな堅苦しい感じじゃなかったよ」
はさみを持った手の甲で、こめかみをさする。ずれたほっかむりの位置を直して、またアイにはさみを入れる。
「おじいちゃんが休みの日に何度かご飯を食べに行ったり、公園で話したりしてねえ……。それで、素敵な人だなぁと思って、結婚したの。おじいちゃんがどう思ってたかは知らんけどね」
「でも、好きだったから、結婚したんでしょ?」
「そうだといいねえ」
まるで他人事のようにふ美は言った。
「染めるのは、何で始めたの? 前はやってなかったよね」
「うーん、そうやねぇ。まあ、おじいちゃんの面倒見んでよくなったからねえ」
それが笑えることなのか正直わからなかったが、ふ美は笑っていた。
亡くなったのは10年も前だから、それでいいのかもしれないけど。
「暇になったんよ。それに、裏の物置整理しとったら、昔おじいちゃんがやっとったの思い出してね」
「おじいちゃんもやってたの?」
「うん。元々は、おじいちゃんが趣味でやってたんよ。昔はおばあちゃんはおじいちゃんの手伝いじゃったの」
「へえ」
「もっと揺らせとか、熱すぎたら布が縮むとか、手伝わせてるのに注意ばっかりでね。綺麗な色が染まるのはすごいなあと思ってたけど、そんなに楽しいなって思ってなかったかなぁ」
「そうなの?」
それは意外だった。
「うん。でもまあ、今考えたら、そういう時間もよかったんかもね」
「ふうん」
「それで、思い出して、初めて全部1人でやってみたら、意外とおもしろくってね」
「何で?」
「何でじゃろうねえ。歳取って感じ方が変わったんか、全部1人でやってみたからか、何でかわからんけど」
「ふうん」
「野菜買ってくれた人におまけであげたら、素敵な色ですねえって、褒めてくれる人もいてね。それが嬉しかったんかな?」
布を買うお金を考えたら、野菜を売っても利益なんてないだろうが、それでもいいらしい。
おじいちゃんとの思い出だから続けたんじゃないか、とも思ったけど、それは考えすぎだろうか。
「おばあちゃん、おじいちゃんのこと好き?」
「あらまあ、今日はどうしたんね」
ふ美はおかしそうに笑った。
質問が直球すぎただろうか。
でも、その笑顔のまま、ふ美は答えてくれた。
「そりゃあ、好きいね」
「…………」
「まあ、もうおらんけどねぇ……でも、もうしばらくしたら会えるじゃろうし」
ふ美は当たり前のことのように言った。
ほっかむりの端で鼻の下の汗を拭くと、はさみを持った手で促した。
「さ、灯里ちゃんも摘みんさい」
ふ美の横に置かれた竹かごには、すでにアイの小さい山が出来ている。
目の前のアイに目を落とし、灯里はぽつりと言った。
「おばあちゃん、あたしさ……そんなに元気ないように見える?」
「うーん、そうやねえ」
「…………」
視界の端に映る、所々にシミがある日に焼けた手が、アイを切り取っていく。
何で急に話そうと思ったのか、自分でもわからなかった。
ふ美が、祖父との思い出を話してくれたからか。
「おばあちゃん、あたしね……」
「うん」
「ずっと……好きな人がいてね」
「そうかね」
ふ美はふふっと笑った。
1学期の成績がよかった、修学旅行に行った、和樹と喧嘩した……ふ美の反応は、そういう話をした時と、まったく同じだった。
「それでね、あたし……ずっと、好きだったんだけどね……」
渡されたはさみは使わずに、目の前のアイの葉を、指先でこするようにいじる。ふ美は手を止めない。本当に話を聞いているのか怪しいほど、ふ美の足元の竹かごには次々とアイが盛られていく。
頭の中で、黄色いハンカチが風に揺れた。
「……、……」
声を出そうとして口を開いて、また下唇を噛む。
それを何度も繰り返して、やっと搾り出した声はか細かった。いじっていた葉から、手が離れる。
「……あたし……いつまで、あいつのこと好きなんだろう……」
膝を抱えて俯く。ぶかぶかの麦藁帽が傾いて、顔の前を覆った。
いつまで好きでいなきゃいけないのか。
いつになったら忘れられるのか。
それが全然わからない。
毎日が苦しい。
その姿を見たくないのに見てしまい、声を聞きたくないのに聞き分けてしまう。夏休みに入っても、勉強をしていても、ふとした拍子にその顔が浮かんでは、思考のすべてを奪い去っていく。
「好きな人と、うまくいかんかったんかね」
「…………」
「灯里ちゃんは、まだその人が好きなんじゃね」
「…………」
ふ美の確認に、何も答えなかった。答えなくても、ふ美が繰り返し聞いてくることはなかった。
手を動かし続け、しばらくすると、山盛りになったかごを小脇に抱えて立ち上がった。
「じゃあ、戻ろうか」
質問でも慰めでもない言葉に、麦藁帽のつばからふ美を見上げると、ふ美はにこりと笑いかけた。「先行くよ」と言うと、返事も聞かずに離れていく。その去り方は、とてもあっさりしていた。まるで、灯里の話など聞いていなかったかのように。
でも、腹は立たなかった。むしろ、下手に慰められるよりも、少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。灯里が吐き出したぶんを、黙って竹かごに入れて、持って行ってくれたような。
土手を上って、道路を横切っていくふ美の背中が塀の中に消える頃、灯里はようやく滲んだ涙を拭った。目の前のアイに向き直ると、1本だけ切りとって、ふ美の後を追いかけた。