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車から降りると、視界に映った空が広かった。
祖母の家には年に数回来るが、田舎の空がこんなに広いことを、車から降りるまではいつも忘れている。
「灯里、早く」
母の栄子に急かされ助手席のドアを閉めると、後部座席からぱんぱんに膨らんだスポーツバックを引っ張り出した。門柱から続く敷石を踏んで玄関まで行くと、すでにその扉は開いていて、栄子の向こうにはふ美の姿があった。
「よう来たね」
こちらを見て目を細めたふ美は、半年前と変わっていなかった。
「久しぶり、おばあちゃん」
2人が開けた間を通り玄関の中に入ると、荷物と一緒に上がり框にどさっと腰を下ろし、ほっと息をつく。
「長いドライブ、お疲れさんじゃったねえ」
「うん」
肩からベルト紐をはずし、スニーカーを脱ぐ。そんな灯里の前で、栄子が手土産のお菓子をふ美に渡した。
「じゃあばたばたして悪いけど、よろしくね」
「ええよ。いってらっしゃい。しっかり和ちゃんの応援してきんさい」
脱いだスニーカーを揃えている灯里を横目に、栄子が付け加える。
「この子今、夏バテしてるから、ご飯も凝ったものとか作らなくていいからね」
「そりゃ、凝ったものって言うても、いつも作るようなものしか作れんよ」
「それで十分。こっちは多少涼しいから、体の調子も戻ればいいんだけど」
「大丈夫。いっぱい食べていっぱい寝れば、すぐ治るいね」
「そうだといいんだけど。じゃあ、よろしくね」
会話が一段落して栄子が背を向けかけたところで、灯里は口を開いた。
「和樹に頑張れって言っといて」
「うん。試合の結果はメールするからね。あんたもごろごろしてばっかじゃだめよ」
「わかってるよ」
それじゃあ、と栄子は玄関を離れて再び車に乗り込むと、窓越しにもう一度手を振ってから、車を発進させた。
門柱の向こうに見慣れた白のファミリーカーが消えていくのを、灯里は玄関に座ったまま、手を振って見送った。
同じ県内とはいえ、灯里の家は一応都市部にあり、山あいのふ美の家までは、高速も使って車で2時間弱かかる。周りには何もない。歩いて10分くらいのところに小学校と中学校があり、その近くには小さなスーパーやガソリンスタンドがあるものの、ファミレスや本屋やカラオケはない。携帯の電波がかろうじてあるのが救いだろうか。
それでも、灯里はふ美の家が嫌いではなかった。
ふ美の家での1日は、ゆっくりと過ぎていく。祖父は10年前すでに亡くなっていて、この家には、ふ美1人しか住んでいない。ふ美は朝だいたいの家事を済ませると、午前中はほぼ畑の手入れをし、昼からは買い物に行ったり、新聞を読んでその日のクロスワードを解いたりしている。テレビはあるが、滅多につけない。ご飯を食べる時にニュースを見るくらいだ。あとは時々、ラジオを聴いている。
これまでも何度か泊まりに来たことはあるが、1人で長く泊まるのは初めてだった。大抵は1~2泊だったり、弟の和樹が一緒だったからだ。
それが今回は、和樹の学校のサッカー部がインターハイに出ることになり、両親は揃って開催地の静岡まで、泊まりがけで応援に行くことを決めたのだ。2年になってから、和樹はレギュラーをキープしているらしい。それで両親不在のその間、灯里は祖母の家に泊まることになったのだ。今年はお盆に塾の模試があって、いつも来る時期に灯里だけ来られないから、というのも理由のひとつだった。
ふ美の家に来た2日目の昼すぎ。
腹ばいになって参考書を眺めていた灯里は、指を挟み本を閉じると、畳の上に突っ伏した。参考書や問題集を何冊か持ってきてはいたが、とても身が入らない。
環境が違うからとか、暑いからとか、理由を挙げればきりがないけど、一番の原因は、もっと違うことだとわかっていた。けれど、その原因を取り除く方法がわからないのだ。だから、勉強を投げ出すしかない。
風鈴の音がする。かすかに、ラジオの音も。
灯里の部屋は1階の、玄関から一番遠い畳の8畳だった。部屋の出入り口は北と南に2つあり、1つは台所とのつなぎ部屋、もう1つは玄関から真っ直ぐ伸びる縁側とつながっている。古い箪笥が1つと、親戚が集まった時に使う大きな木の机が部屋の3分の1を占め、あとは積み上げられた座布団と、よくわからない木彫りの置物。灯里のために2階から下ろしてきた布団が1組。そして首を振ると音が鳴る扇風機。昔ながらの日本家屋であるふ美の家は風通しがよく、エアコンをつけることは稀だった。
畳に腹ばいになったまま、ため息をつく。
ここは静かだ。
簾が窓に当たる音、郵便配達のバイクの音、時折部屋を移動するふ美の足音――。音は限りなくあるが、すべてが静かだった。蝉の声でさえ遠く聞こえる。
ラジオの音が消えた。部屋に近付いてくる、ふ美の足音。
開けっ放しにしていた台所とのつなぎ部屋のほうから、ふ美が顔を出した。
「灯里ちゃん、勉強中?」
「うん? うーん。してたけど……してない」
ふ美は指を挟んだ参考書にちらりと目をやってから言った。
「じゃあ、気分転換する? おばあちゃんと一緒に、ハンカチ染めんかね」
「ハンカチ?」
「ずーっと勉強してても、つまらんじゃろ。ちょうど染めようと思っとって、朝畑出た時、コブナグサ取っとったんよ」
「コブナグサ?」
聞き慣れない名前に、灯里は上目遣いにふ美を見る。
ふ美が趣味で、草花でハンカチやストールを染めているのは知っていた。それを時折、朝市で野菜を買ってくれたお客さんに、サービスであげているらしいということも、母親から聞いたことがある。ただ、染めているところを実際に見たことはなかった。
勉強もやる気がせず、といって他にやることもなかった灯里は、体を起こすと、誘われるままにふ美について裏の畑に行った。せっかく来たのだし、孫がおばあちゃんの趣味に付き合うというのも悪くないだろう。ただ、外に出た瞬間の日差しにはちょっと眉をしかめた。目の上に庇を作って、足を踏み出す。
ふ美は裏口を出て左手の、家の壁にくっつけて置いてある雨ざらしの机に近付いた。
「これが、コブナグサ」
机の上の、竹かごに積んだままの葉っぱの山を見せる。笹の葉がずん胴になったような葉っぱが、細い茎にいくつもついている。
「秋になったら、この茎がすっと伸びて、ススキみたいな穂ができるんよ」
「ふうん……で、これをどうするの?」
「お湯で煮出して、色が出た液に布をつけるの」
「それで終わり?」
「うん、それで終わり」
そこまで大変な作業ではなさそうだ。
「それじゃ、何からすればいいの?」
灯里が尋ねると、ふ美は一旦家の中に戻り、やかんとカレー用の鍋を使って、大量のお湯を沸かし始めた。そして裏の畑にまた出ると、大昔におじいちゃんが自分で建てたという、畑の横の小さな物置から、ガスコンロとぼこぼこになった薄手の大きな鍋を出してきた。裏口の横の水道から水を入れ、地面に直接置いたガスコンロに載せる。
「そんなにお湯がいるの?」
「これで全部沸かしてもいいんじゃけど、それだと時間がかかるじゃろ? お湯はたくさんいるからね」
お湯を沸かしている間に2人で一緒にコブナグサをはさみで切り、家の中で沸かしたお湯も鍋に加えると、ふ美は切ったコブナグサを煮立った湯の中にどっさりと入れた。火を少し弱くする。
「何分煮るの?」
「15分くらいかね。いい色が出てきたら、火から下ろして、布で漉すの」
くつくつと音を立てる鍋を前に、灯里は地面に直接座り、ふ美は折りたたみ式の簡易椅子に腰を下ろして時間が過ぎるのを待った。影の中に入ってはいたが、やはり8月の暑さに首筋や背中にはすぐ汗が滲んでくる。
ふ美が口を開いたのは、しばらく経った頃だった。
「灯里ちゃんも、もう3年生やねえ」
「うん」
「3年生って言ったら、勉強も大変じゃねえ」
「うん……」
頷いたが本当は、そこまで大変ではない。
志望校は一応、今のところ安全圏内。でも、夏でぐんと伸びる子もいると聞く。他の子が頑張っている時にのんびり草木染めなんかしていたら、あっという間に追い抜かされて圏内からはじかれるかもしれない。――と、思ってはみるものの、危機感が沸いてこなかった。最近、色んな感情が、どこか鈍くなっている気がする。
「和ちゃんは、頑張ってるかねえ」
「さあ…」
おざなりな返事をしたことで再び訪れた沈黙に、灯里は少し気まずくなって両足を抱えた。
弟と仲が悪いわけじゃない。部員数の多い高校のサッカー部で、レギュラーをとって試合に出ることはすごいと思うし、弟を応援する気持ちがないわけじゃない。それでも、勉強するからと言って両親と一緒に行かなかったのには他に理由がある。
和樹が、サッカー部だからだ。
サッカーは駄目だ。思い出してしまうから。そして思い出してしまえば、またしばらく忘れられなくなる。そうなるのがわかるから、怖かった。
「もーう、いいかね」
ふ美が簡易椅子から腰を上げて、菜箸で鍋の中の葉っぱをよけた。色を確認して、コンロの火を消す。物置から出しておいた笊に布を敷き、ステンレス製の盥に漉した液体は、濃い茶色に一筋黄緑を垂らしたような色だった。
「これで、綺麗な色が染まるの?」
どうも、炭みたいな色が染まるのではないかという気がする。
ふ美は含んだような笑みを浮かべ、漉し終えたコブナグサの笊を、地面に置いた。
「灯里ちゃん、残っとるお湯を鍋に入れて」
やかんに残しておいたお湯と、足りない分は水を足し、再び火にかける。
「これは何も入れないの?」
「今はね。これは、別のことに使うんよ」
火にかけた鍋はそのままに、ステンレス盥のコブナグサの液をゆっくり掻き混ぜて少し冷ましてから、ふ美はゴム手袋と白い木綿のハンカチを差し出してきた。
「やってみんさい。これを浸けるんよ」
暑い中ゴム手袋をするのはちょっと気が進まなかったが、我慢してはめると、盥の液にハンカチを浸した。ただでさえ暑いのに、温かい液に手を入れたことで、額や脇の下からじわりと汗が噴き出した。ゴム手袋の中もあっという間に湿ってちょっと気持ち悪かったが、愚痴るのはやめておいた。
5分ほど液の中で揺らすと、ハンカチはごくごく薄い黄土色になった。しかし、それは液に浸ける度に濃くなっていく。
灯里がハンカチを液に浸している横では、ふ美が別の盥を出してきて、その中に追加で沸かしたお湯を張っていた。
「それは何するの?」
「んー? ……これはねえ、魔法のお湯」
「え?」
ふ美の答えに、思わず聞き返す。
「魔法のお湯?」
何言ってんだ、と思いつつ首を傾げるだけにとどめると、ふ美は楽しそうに笑った。
「一旦その布を絞って、こっちに浸けて」
「これ、ただのお湯じゃないの?」
見た目は何の変哲もないお湯だ。
しかし、そのお湯にもしばらく浸けた後で、ふ美はまた盥を押し出してきた。最初に浸けたコブナグサの液だ。
「浸けてごらん」
「また?」
「うん。また」
当たり前のように返された言葉に、灯里は再び最初の暗い液に布を浸けた。液はまだ少し熱い。すでに汗は全身から流れていた。
しばらくして布を上げると、その色は薄い黄土色からほの明るい黄色になっていた。
「わあ、何かちょっと明るくなった……」
「これをあと何回か繰り返すんよ。そしたらもっと、深くて綺麗な色になるからね」
ふ美に言われたとおり、灯里は再び同じ作業の繰り返しに入った。
ふ美が言った「魔法のお湯」には、布についた色を定着させる粉を溶かしているらしい。「椿の灰があればもっといいんだけどねえ」と、少しだけ残念そうにふ美が呟いた。
くすんだ茶色の液に浸してゆっくり揺らし、「魔法のお湯」に浸ける。色は次第に深く、鮮やかになっていった。
「あの草が、こんな色になるんだねぇ」
「液にくぐらせるたんびに、こうやってゆっくり、少しずつ、染まっていくんよ」
「ゆっくり、少しずつ……」
ふ美の言葉を繰り返して、ふと、手が止まった。
ゆっくりと揺れていた色の濃い水面が、急に止まった手にぶつかり小さな波を立てる。
両手の間からぷかりと浮かんだ布地を、灯里はじっと見下ろした。
ゆっくり、少しずつ、染まっていく色。
魔法のお湯に浸けた後は、ぐっと濃く、鮮やかになる色。
(まるで……)
液の中の布を握り締める。
「灯里ちゃん」
「え?」
「そんなにぎゅっとしたら、色にムラができるよ」
「あ、そうなんだ……ごめん」
慌てて手を緩め、再び液の中のハンカチを揺らし始める。
「…………」
唇を引き結んで、黙々と布を揺らした。
(違う違う、何考えてんの。いきなり感傷的になっちゃって)
自分で自分に突っこみを入れて、液の中で揺れる布を見つめる。
(ただの布だって。なに、『まるで』って。悲劇のヒロイン? はは、笑える)
脳内の渇いた笑いにつられて、口元が歪む。
額に滲んだ汗の粒が頬を伝い、ぽたりと盥の中に落ちた。
それが、上方修正しようとしていた心を、一瞬にして静める。
染まる布にだぶった光景に、胸の奥が暗く翳る。周りの温度が急に、2度くらい下がったような気がした。
このハンカチは、まるで――。
まるで…?
(まるで…………あたしだ)
そう思った瞬間、ふいに涙がこぼれた。
一瞬、自分でも汗じゃないかと疑った。汗が目に入っただけ。
でも、鼻水も垂れてきそうだ。ということは、今のは涙だ。
(あ…やばい)
やばいやばい。
慌てて鼻をすする。Tシャツの肩で頬を拭い、再び布を動かす。
「そろそろいいよ」というふ美の声に、何事もなかったように「うん」と返事をした。
しかし、液から上げた布を広げた瞬間、耐え切れなくなって視界が歪んだ。
(どうしたらいいんだろう……)
滴を落としながら風に揺れる、深く、それでいて鮮やかな黄色。
「じゃあそれ絞って、あそこに干そうかね。……灯里ちゃん?」
ふ美に名前を呼ばれて、我に返る。
慌てて広げていた布を下ろし、濡れていない肘のあたりで涙を拭った。
「ちょっと、タオル取ってきていい? 汗が目に入って……。喉もちょっと渇いたし」
「行っておいで」と答えたふ美は、いつも通りだった。灯里のごまかしに気付いていたかはわからない。
鮮やかな黄色に染まった布を盥の縁にかけると、灯里はゴム手袋をはずし、足早に裏口から家の中に入った。