episode.90 妄想風船
「おっと。そう簡単に、逃がしやしないでごわすよ?」
私とゼーレのやり取りを聞いていたシロは、不愉快そうに顔を歪めながらぼやく。
そして、続けて叫ぶ。
「行かせてもらうでごわす!」
床を揺らすほどの叫び。
そして彼は、私たち目がけて走ってくる。
「来たわ! ゼーレ!」
「……カトレアは下がっていて下さい」
ゼーレは小さく返すと、その金属製の両腕を伸ばす。すると、床から、かなりたくさんの蜘蛛型化け物が現れた。詳しい仕組みは分からないが、かなり迫力のある光景だ。
「時間を稼ぎなさい」
淡々とした調子で命ずるゼーレ。
蜘蛛型化け物たちは、命に従い動き出す。半分は壁を作り出し、もう半分は近づいてくるシロを待ち受ける。
だがシロはそんなことは気にしていないようだ。やや猫背気味の格好はそのままに、両腕をブンブン振り回しながら迫ってくる。
勢い任せのシロ、配置を意識する蜘蛛型化け物。正反対ではあるが、どちらも凄まじい迫力だ。
その光景を少し感心しながら見ていると、ゼーレが声をかけてくる。
「ここは一旦退きましょう、カトレア」
割れている仮面の隙間から覗く翡翠のような瞳は、私をじっと見つめていた。その色は、真剣そのものである。
「え、退くの?」
「このスペースでは……さすがに不利ですからねぇ」
目を細めながらゼーレは答えた。
「そういうこと。分かったわ。じゃあゼーレが先に……」
言い終わるより早く、私はゼーレに抱き上げられた。
この体勢は俗に言う『お姫様だっこ』というものだろう。しかし、実際にされてみた気分は、お姫様というより子どもだ。
何とも言えぬ、複雑な心境である。
「揺れますから、そのつもりでいて下さい。くれぐれも……情けない声など出さぬように」
背にひんやりとした感触。
その原因は、ゼーレの金属製の腕が触れていることだと思われる。
「ちょっと、何をする気?」
「突破します」
「と、突破って?」
私はゼーレの腕から降りると、蜘蛛型化け物の上に座った。
「一旦この部屋から出ます。ここは基地内ですからねぇ……敢えてリスクを負う必要もないでしょう」
なるほど、それもそうだな。そんな風に思った。
重さに差はあれど私もゼーレも負傷している。敵地でもないのに無理して戦うというのは、賢明な選択とは言えない。
今は、ゼーレが言うように、一旦逃げるのが得策だろう。
「そうね。じゃあ任せるわ」
私はゼーレと目を合わせる。そして、お互いに見つめあったまま、頷く。それとほぼ同時に、私たち二人を乗せた蜘蛛型化け物は動き出した。
——だが、シロとてそう易々と見逃しはしない。
「逃がさないでごわすよ!」
私とゼーレが部屋の出口に向かっていっていることに気づいたシロは、蜘蛛型化け物の群れから目を逸らし、体をこちらへと向ける。
そして、私たちの方へ突進してきた。凄まじい勢いだ。
「ゼーレ! 来てるわ!」
そう叫んだ——直後。
突進してきていたシロの体が、宙に浮いた。筋骨隆々の太い腕を振り被っている。
私は反射的に身を縮めた。
「おるゅああぁぁぁぁ!!」
鼓膜を貫くは、凄まじい雄叫び。
私は迫力に圧倒されて、その場で身を伏せる。それにより、シロの拳を浴びることは辛うじて免れることができた。
しかし。
シロの拳は、ゼーレへと突き刺さる。
「……っ!」
ゼーレは詰まるような息を漏らす。
彼は胸の前で両腕を交差させ、ぎりぎりのところでシロの拳を防いでいた。常人を遥かに超越した反応速度は、さすがとしか言い様がない。
ただ、防ぎはしたものの、拳の勢いを殺しきれてはいなかったようだ。
ゼーレの体は吹き飛ばされた。そして、信じられないほどの速度で壁に激突。ほんの数秒のことだった。
「……くっ」
何とか立ち上がるも、よろけてまともに動けないゼーレ。そんな彼の腹部に、シロの拳が突き刺さった。
今度こそは直撃。
これにはさすがのゼーレも顔をしかめる。
「ゼーレ!」
慌てて蜘蛛型化け物から降りようとした私に向け、ゼーレは鋭く叫ぶ。
「来る必要はありません!!」
予想外にきつい言い方だったため、私は、その場から動けなくなる。
そんな中、体をくの字に折り曲げたまま叫ぶゼーレの片方の腕を、シロが掴むのが見えた。
「ゼーレ殿も不幸でごわすなぁ」
嫌らしく、にやにや笑うシロ。
「このような腕では、想い人を抱き締めることさえままならない」
シロの心ない言葉に、ゼーレの瞳が揺れた。
なぜそんなことを平気で言えるのだろう。そんな思いが、私の胸中を満たしていく。
ゼーレは望んで腕を捨てたわけではない。それはシロだって分かっているはずだ。にもかかわらず、敢えて傷を抉るような真似をする理由は、私には分からなかった。
「喧嘩だけは、一人前に売りますねぇ……」
ゼーレは、一時こそ動揺したような顔をしていたものの、既に落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
切り替えの早さは、見事である。
「死ぬ前に教えて差し上げるでごわすよ」
「…………」
「愛されたことのないゼーレ殿には、恋なんて無理でごわす」
言いきった後、シロは、ゼーレの腕をねじ曲げた。
そもそも負傷していたゼーレが、筋骨隆々なシロから逃れられるわけもない。ゼーレはただ、苦痛に耐えるしかなかったことだろう。
そんなゼーレを見て、シロは既に勝った気でいる様子だ。
「最期に何か、言い残すことはあるでごわすか?」
「……そうですねぇ」
「遺言は、おいらがちゃーんと、聞いて差し上げるでごわすよ」
既に勝った気になられ、不快そうに顔をしかめるゼーレ。
「そしーて! ゼーレ殿抹殺に成功したおいらは、むふふ、リュビリュビ様に気に入られ、ぐふっ、リュビリュビ様と晴れて結ばれるのでごわす! むふふふふ」
シロはゼーレ抹殺後に思いを馳せ、鼻の下を長くしていた。黒い顎ひげが目立つ顔面は赤らみ、鼻息は荒くなっている。
「むふふむふふむふむふむふふふふふ! ぐふふっ! ぐふふふふ!」
彼はよほどリュビエを愛しているのだろう。リュビエのことが好きで好きで堪らない、ということだけは、ひしひしと伝わってくる。
……ただ、この光景をもしリュビエが見ていたとしたら、シロに対して少なからず嫌悪感を抱いたことだろう。
「早くリュビリュビ様に褒められたいでごわーす」
妄想にふけるあまり、ほんの一瞬、ゼーレの腕を掴むシロの手が緩んだ。
その隙を、ゼーレは見逃さない。
「……妄想が好きですねぇ」
汚いものを見るような視線をシロに向けつつ、ゼーレはぽそりと吐き捨てる。
——次の瞬間。
放たれた閃光の如きゼーレの蹴りが、シロの胸部へ命中した。




