episode.69 場面転換
何が起きたのか、暫し理解できなかった。あまりに突然のことだったから。
「……無事ですか」
「え、えぇ。一体何が?」
よく見ると、ゼーレがまとっている黒のマントは、半分ほど焼け焦げていた。白色の煙が漂っている。
「シブキガニとやりあっている場合では……なさそうですねぇ」
ゼーレは、振り返りながら、強張った声で述べた。彼が向いた方へ私も目をやる。
するとそこには、リュビエと見知らぬ男がいた。
見知らぬ男は背が高い。二メートルは軽くありそうだ。しかも、暗めの灰色の甲冑を身につけているため、なおさら大柄に見える。
そんな中でも、頭部だけは唯一露出しており、五十代くらいと思われるゴツゴツした顔が視認できる。
「お主が裏切るとは思わなかったぞ。ゼーレ」
地鳴りのような声で言う見知らぬ男。
ガシガシした毛質の真っ赤な長髪が印象的だ。
「な、何なの?」
「……下がっていて下さい」
状況が飲み込めないため尋ねてみたが、ゼーレは短く返してくるだけ。ほとんど何も教えてくれなかった。
「ゼーレ、ボスはお怒りよ」
リュビエは、見知らぬ男を『ボス』と呼んだ。ということは、目の前にいる彼こそが、『ボス』という人物なのだろう。
しかし、まさかいきなり現れるとは——驚きである。
「無駄な抵抗をせず、塵となりなさい」
「嫌です」
「ならば強制的に塵にする外ないわね」
ゼーレへかけられたリュビエの声。それは、信じられないくらい冷ややかなものだった。リュビエはもう、ゼーレを仲間だとは思っていないのだろう。
「ですよね? ボス」
リュビエが確認すると、ボスは低い声で答える。
「それもそうだが、ただ塵にするだけではつまらぬ。我を裏切った愚か者には、死より辛い目に遭ってもらわねば」
ボスの意思を聞いたリュビエは、彼にひざまずき、色気のある声色で「承知しました」と述べる。
「リュビエ。お主は、マレイ・チャーム・カトレアを捕らえよ。裏切り者は我がやる」
「はい。ボス」
ボスが傍にいるからか、リュビエの声はいつもより柔らかだ。特に、ボスへの言葉を放つ際には、他よりも女性らしさのある声色になっている。リュビエがこのような柔和な印象の声を出せるとは、少々驚きだ。
数秒後。
灰色の甲冑をガチャガチャと鳴らしながら、ボスはこちらへ歩み寄ってきた。ゆったりとした足取りだが、それがまた、不気味さを高めている。
私のすぐ前にいるゼーレの体が強張るのが分かった。
「大丈夫? ゼーレ」
「……貴女に心配されるほどのことではありません」
ゼーレは淡々とした調子で返してきた。だが、平静を装っているだけだと容易く判断できる。言葉こそ落ち着いているようだが、今、彼はかなり動揺していることだろう。
「お主はなぜゆえ我を裏切った」
少しずつ歩み寄りながら、ボスがゼーレに尋ねる。
地鳴りのような低い声だ。
「我への恩を忘れたか」
その声は、静かながらも、沸々と煮えたぎる怒りを感じさせる。
私はただ聞いていただけだが、ボスの声色から、地底で密かに燃えるマグマのようなものを感じた。凄まじい迫力だ。
「……恩、とは随分な言い方ですねぇ。私は貴方に感謝など、ほんのひと欠片もしていませんが」
「そうかそうか。では、命を見逃してやったことさえ、感謝していないというのだな」
「他人の両腕を奪っておいて……感謝などあるわけがないでしょう」
ゼーレは怯まずに言葉を返す。その様に、私は感心した。
なぜなら、このような恐ろしい雰囲気を持つボスに言い返せるなんて、凄いと思ったからだ。
私がゼーレの立ち位置だったなら、彼ほど強く出られたかどうか分からない。……いや、恐らく何も言い返せなかったことだろう。恐怖に支配されていたことと思う。
「両腕? そんなものが何だと言うのだ。お主には、両腕の代わりに、化け物を生み出す力を授けてやったではないか。それでもなお満足でないと言うのか」
この時になって、私は初めて知った。
なぜゼーレの腕が金属製で機械風なのかを。
彼の腕が人のそれでないことは、最初に出会った時から知っていた。人間に馴染まないそれは目立つからだ。けれど、なぜ彼の腕がそうなったのか、考えたことはあまりなかったように思う。
両腕を奪ったのが、まさかボスだったなんて……。
「お主の腕に価値などなかろう。今の状態の方が、お主の兵としての価値はずっと高い」
「……人間としての価値は、もはやゼロに等しいですがねぇ」
「そんなことはどうでもいいではないか。もはやお主に、人間として生きる道などないのだから」
ボスの心ない言葉を聞いた瞬間、私は、半ば無意識に放つ。
「そんな言い方しないで!!」
するとボスは私をじろりと見てきた。
悪魔のような目つきが非常に恐ろしい。
「マレイ・チャーム・カトレア。お主は黙っているがいい」
「いいえ! ゼーレにそんな言い方をされて、黙ってなんていられないわ!」
私の発言に、眉をひそめるボス。
怒っているというよりは、戸惑っているような表情をしている。
「何だと?」
「ゼーレは人間よ! 感情も、優しさも、彼にはちゃんとあるもの!」
「面白いことを言う娘だ。ある意味気に入った。さらに欲しくなってきたぞ」
「そんな話をしているんじゃ——」
言いかけた瞬間。
耳に飛び込んできたのは、リュビエの鋭い声。
「黙りなさい!」
彼女は高くジャンプして、私とボスの間に降り立った。
黒いブーツは今日も、眩しいほどの太陽光を浴びて、てかてかと輝いている。スタイルの良さも健在だ。しっかりと凹凸のある体は、ダリアの陽のもとでも華やかさを失っていない。
個人的には、リュビエは、闇で忍び寄るアサシンのような印象が強かった。しかし、明るい戦場にいてもなお、彼女は魅力的だ。
……彼女を称賛するわけではないが。
「マレイ・チャーム・カトレア、お前の相手はあたしよ。ボスから直々に与えられたこの任務、必ず成功させるわ。今日こそは覚悟なさい」
ゼーレはボスと話している。だから、今彼は、私を助けることはできない。
それはつまり、私がリュビエと、一対一で戦わねばならないということである。
——だが。
今はできる気がする。戦える気がする。
先ほどシブキガニを倒したことで、自信はついた。
なので、私はもう怯まない。
戦いを望みはしないけれど、向こうが挑んでくる以上戦うしかない。だから、たとえ一人でもやってみせる。可能な限りの抵抗をしてみせるのだ。連れ去られないために。




